青祓のネタ庫
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後ろから志摩に羽交い絞めにされていても、俺は抵抗しなかった。
それは、背中越しに聞こえた志摩の鼓動がとても早かったからだと思う。
耳元で囁かれた言葉に、きっと雪男は気づかなかっただろうな。
本当に、零れるように出た言葉を聞いた。
奥村君、覚えとってな。
志摩の言葉も、目の前に立つ雪男の言葉も。
どっちも俺には大切だ。
なぁ、お前らなんでそんなことにも気づかねぇの?
屋上に立つ三人。
日はすっかり落ちて、灯りは天上の星と周囲の町の灯火だけだ。
旧男子寮は雪男と燐しか住んでいない為、灯りに乏しい。
僅かな灯りに照らされて、三人は対峙する。
雪男は銃口を向けたまま動かない。
雪男は三人の関係を二人と一人か一人と二人かと現した。
志摩はお互いに一人でしかないと言った。
結局この二人はどこまでいっても同じ答えにはたどり着けない。
「一応伝えとこうか。僕は兄さんの監視役だ。もし兄さんに不測の事態が
起こったときは、僕の権限と判断で行動してもいいことになっている。
例えば、今こういった事態の収拾も僕の管轄内なわけだ」
「駆け落ちの二人を追うのが管轄内とか先生も大変やな」
「主犯の君に言われたくないね志摩君」
物騒な気配を醸し出した二人に、燐が口を開こうとする。
だが、後ろから回された志摩の手に阻止された。
「俺もな、先生に聞きたいことあるねん」
錫杖がしゃらんと音色を発した。
「なぁ、先生は奥村君のことどうしたいん?」
「どう、とは?」
雪男の瞳が揺れる。志摩は畳み掛けるように言葉を放った。
「そのまんまの意味や。ずっと思っとった。
先生も奥村君もお互いのこと知っとるふりしてるだけや。
それがどうにも歪に見えてしゃあない。
兄弟なんやろ?思っとること口に出したらええ。
出さな伝わらん。そんなこともわからんの?」
志摩には兄弟がいる。兄達に囲まれて育ったせいか兄弟げんかは当たり前だった。
何回も何回も思ったことを口にして、ぶつけあって、殴り合って、仲直りだってしてきた。
この二人は兄弟以外に家族がいない。
普通の兄弟のようにできない理由は、
片方がいなくなれば本当にひとりぼっちになることを知っているから。
だからこそ本当に思っていることが言いにくいのかもしれない。
「なぁ、奥村君を俺に取られた時どう思った?」
その時に思ったことが雪男の本心だ。
ずっと一緒にいると思っていたのに、その隣にいる人が自分じゃなかった時。
寂しかったのか?取られたくなかったのか?
置いていかないで欲しかった?
それとも。
「答えや。奥村先生」
本心を言うことは、奥村君の為になる。
それは、言葉にはしなかったけど。
ぎりっと手に痛みが走って、志摩は思わず燐の口を覆っていた手を離した。
燐の口が開く。燐は思い出していた。目の前にいる雪男の表情。
昔、神父を探して迷った夜道で同じ顔をしていた。
『兄さん、お願い。手、離さないで』
それが、雪男の本心だ。
雪男はあの頃と変わってない。
燐より背が高くなっても、祓魔師の資格を取っても。
先生と生徒の関係になっても。
どんなに燐が雪男に追いつきたいと思っていても。
きっと夜道で雪男の手を引いて先を歩くのは、俺なんだろう。
あの時と同じ答えを雪男に言おう。
「どんなに離れたって、俺達は大丈夫だ雪男。
だって俺達兄弟だろ。お前が困ってたら俺が助けに行ってやる」
「・・・僕だって、兄さんが困ってたら助けに行くよ。だからここに来たんだ」
一人にだってしたくない。一人にだってなりたくない。
だって、それはとても寂しい。
志摩は燐を離した。
雪男は銃口を下げた。
燐は二人の間に立った。
駆け落ち劇も終劇だ。
「志摩、迷惑かけたな」
「ええよ、一緒に駆け落ちした仲やん」
「・・・心中できなかったな」
「ええよ、本気やなかったし。あれは嘘や。嘘」
燐は志摩を振り返り、ゆっくりと雪男の方に歩いていく。
志摩はそれを見て、少しため息をついた。
燐が先を歩いて、雪男が後に続く。
雪男は志摩を振り返る。
「志摩君」
「後の仲直りは先生の仕事やで」
「・・・ああ」
屋上へのドアが閉まった。
屋上に一人残った志摩は、錆び付いた金網を掴む。
近くに置いていたカバンを掴んで肩にかける。
中に、パンの袋が入っていた。
中身は二人で食べた、ゴミでしかない。
無性にそれを金網の外へ投げたくなった。
丁度良く、穴も空いている。少し押せば邪魔な金網も壊れるだろう。
でもできなかった。
二人で食べた空っぽのそれを、志摩はカバンではなくポケットにしまった。
「俺、地球に優しい男やからポイ捨てはあかんよな」
これは嘘、なぜだか今は捨てられない想いがあった。
「奥村君、駆け落ちの先は心中って言ったけど、嘘ついたわ。
駆け落ちにも心中にもならへんかった」
金網に背を預けて、屋上に座る。
星が綺麗だ。京都で、燐と見た星空のようだ。
耳元で囁いた言葉をもう一度呟く。
「奥村君・・・覚えとってな、俺嘘つきやねん」
志摩の携帯電話が鳴った。
この着信音はメールだ。
寮の門限はとっくに過ぎている。
もしかしたら、子猫丸が帰りの遅い志摩に小言のメールでも送ってきたのかもしれない。
携帯電話をカバンから取り出して、開く。
どくんと心臓がはねた。
題名 ありがとな
雪男と仲直りできたけど、まだお前に電話すると
不機嫌になりそうだからメールにする。
今日か、もし気になるんだったら明日でもいい。
一緒に。鍋、食おう。
「コレ、お誘いって考えてもいいんかな・・・」
こんなところでまた惹き付けられる。
メールには続きがあった。
それを見て、志摩は思わず電話をかけた。
奥村先生に怒られる?そんなこと知ったものか。
「奥村君、俺君のこと好きやで」
題名 ありがとな
雪男と仲直りできたけど、まだお前に電話すると
不機嫌になりそうだからメールにする。
今日か、もし気になるんだったら明日でもいい。
一緒に。鍋、食おう。
あと、俺お前のこと嘘つきだって思ったことないからな
志摩の言葉も、雪男の言葉も。
どっちも俺には大切だ。
教室のドアを開けると、そこには誰もいなかった。
夕焼けの端の色が、紫から藍色に変わっていく。
なぜだろう。そんな予感はあった。
いつもなら、窓の方を向いてすぐにはこちらを向かない。
何度か呼びかけて、ようやく席を立つ。
おっくうそうにカバンを持って、夕焼けを背にしてこちらに向かう姿。
逆行のせいか、表情はあまり見えない。
いや、見ようとしなかったのかもしれない。
そのまま寮まで二人で歩く。僕が先で、兄さんが後ろ。
そんな日が続いていた。
ずっと一緒にいたはずなのに。
兄さんの顔は、ずっと見ていない気がする。
今は誰もいない席に近づいて、机をそっと撫でた。
ぬくもりのない冷たい感触。
机の上には、新聞の記事を切り抜いて作った不恰好な手紙があった。
『奥村燐は預かった』
それだけで、誰の仕業かわかる。
兄が教室にいない時点でもうわかっていた。
僕達の関係は一体何なんだろう。
三人じゃないことは確かだ。
じゃあ二人と一人?
一人と二人?
なんにせよ、自分にとっては歓迎できない関係だ。
「こんな風にかき回されるのは好きじゃないんだよ、志摩君」
二人でどこに行ったのか。
兄になにを囁いたのか。
見つけ出して、問いただす。
屋上から見る空は、地面からは遠いけど空にも近いとは言いがたい。
視線を町の方に向ければ、夕飯の煙だろうか。白い煙が空に立ち上る。
家々にはオレンジの灯りが灯り、人々は家路に急ぐ。
そんな中、志摩と燐は旧男子寮の屋上にいた。
「皆家に帰って行ってるなー」
「そうやなー、でも俺らはアカンで。だって駆け落ちしたんやし」
「といっても俺の部屋ここの真下だぞ」
「俺はここから数百メートルの距離を西に歩いたところやな」
「なぁ、どうすんだこれから」
「大丈夫やって。なにも誰も知らない土地に行くだけが駆け落ちちゃうで」
「そんなもん?」
カバンから、コンビニで買ったパンを取り出して志摩が燐に投げ渡した。
ちょうどお腹が空いていた。燐は食っていい?といいつつ袋を破る。
志摩も、別のパンを取り出して食べ始める。
家々からもれる夕飯の煙を見ながら燐は思った。
「なんだか鍋食いたいな」
修道院でも、しょっちゅう皆で鍋を囲んでいた。
そこには雪男もいて、神父がいて。家族があった。
数ヶ月前の話なのに、今はあの時がとても遠い。
食べ終わったパンの袋を、小さく畳む。
志摩がコンビニの袋を差し出した。中に入れろということだろう。
ゴミ袋になったそれを、志摩はカバンに突っ込んだ。
「鍋が最後の晩餐にできんくてごめんなー奥村君」
「最後?いやいいよ別に。パンありがとな」
「ええよ。二人で500円以内やし」
「500円という大金を、おごってもらうの初めてだ」
「うん・・・なんか奥村君の生活実態が伺えるわー」
よしよしと頭を撫でて貰う。なんだ、そんな変なことを言っただろうか。
風が出てきた。少し肌寒くなって、腕をさする。
そんな様子を見て、志摩は燐の後ろに座った。
足の間に燐を抱き込むようにする。
お互いの体温が温かい。
「なんか、いちいちそれっぽいことするんだな志摩」
「それっぽいはいらんて」
志摩は懐から錫杖を取り出して、組み立て始める。
体制的に燐は目の前で錫杖が出来上がっていく様を見ることになった。
「へー、錫杖ってこうできてんだな」
「うん、まぁ俺が持ってるのは戦闘用やけどな」
きゅ、と最後まで組み立てて地面に立てる。しゃらんという澄んだ音が響いた。
人間にとっては澄んだ音だが、悪魔である燐にとっては少し耳に障る。
志摩のほうを見つめると、相変わらず読めない顔だ。
「なぁ奥村君、駆け落ちの先には何があるか知っとる?」
駆け落ちした先?駆け落ちはしたら終わりじゃないのだろうか。
少なくとも、燐はそういう認識だった。
志摩がもう一度錫杖を鳴らした。
なんだろう、身体に力が入りにくい。この音のせいだろうか。
志摩の体に寄りかかるように身を寄せた。
「知らねーよ」
「じゃあ、覚えとくとええよ」
階段を上ってくる音が聞こえた。
来たか、思ったよりも早かったな。
「情死、いうねん」
「じょうし?」
ぐいっと志摩に掴まれて立たされた。
背後から錫杖を首の前に持って来られる。
拘束されたことで息が少し苦しい。
志摩は俺をどうしたいんだろう。
疑問は浮かぶけど、抵抗はしなかった。
後ろから耳元で囁かれる。
その言葉は燐の疑問への答えになった。
「心中ていうことやで」
屋上へのドアが開いた。
雪男は何も言わず、二人に銃を向けた。
志摩は燐を連れたまま後ろに後ずさる。
屋上の金網が志摩の背中に触れた。
背後に感じた空の気配。
燐の後ろには志摩の鼓動音と、錆びて金網の体をなしていないボロボロの柵が見えた。
そう、飛び込めばこんな金網すぐに壊れるだろう。
燐にも簡単に想像がついた。
燐は銃口を向ける雪男を見た。
雪男は銃口を二人に向けたままだ。
銃口ごしに、お互いの顔が見れた。
「一つ聞きたい」
雪男が問う。
「なんや、奥村先生?」
志摩が応える。
「僕らの関係は二人と一人だと思うかい?それとも一人と二人?」
志摩はハッと笑って雪男に言った。
「二人と一人?一人と二人?何いうてんの奥村先生」
雪男の言う意味を知った上で志摩は言う。
「ここにいるのは、単純や。一人と一人と一人やで」
一人になりたくないのか。
一人にしたくないのか。
なくしたくないから閉じ込めるのか。
自分のためなのか。
相手のためなのか。
果たしてその行為は相手を愛しているといえるのか?
あれから雪男は燐を離さなかった。
とはいっても学校もあれば塾もあるし、物理的に離れていることはある。
だが、あの日から決定的に変わったことがある。
いつも、燐の心の中には雪男の存在があるということだ。
雪男の寂しげな表情は燐の心を強く縛った。
幼い頃、雪男と二人で迷子になったことがある。
こどもだけで修道院を出てはいけないと藤本神父から言われていたのだが、
二人で修道院を抜け出した。
その日は二人の誕生日だったからだ。
神父が帰宅することを二人で楽しみにしていたのに、神父は
夜になっても戻ってこなかった。
「待ってろよ、神父さん今日はすぐに帰ってくるからな」
急な仕事が入ったと言って修道院を出る時、神父はそう二人に
約束をして出かけていった。
今思えば、きっと騎士団関係の仕事だったのだと理解できる。
でも当時は神父は仕事だからと納得できるようなものではなかった。
二人はベットの上に座って、暗くなっていく空を眺めた。
「今日は一緒にいてくれるっていってたのにね」
「そうだな」
「神父さん、今日帰ってくるのかな」
「・・・じゃあ、待つのはやめだ。神父さん迎えに行こうぜ」
ちらりと見た時計は夜の8時を指そうとしていた。
こんな時間に外に出たことは無い。
それでも神父がいない修道院は寂しくて、一刻も早く会いたかった。
いつもなら止める雪男も、今回は燐を止めなかった。
二人で手を繋いで修道院を抜け出す。
夜の街を駈ける。
神父のいる場所は修道院から5キロは離れている廃れた教会という話だ。
修道士達が話していたのを雪男が覚えていた。
夜の街は昼間と全く表情が違う。
家々の窓からもれる光が道を照らし、空にはぼんやりと月が光る。
静かだ。時折歩いている人も燐と雪男には無関心。
まるで世界に二人だけになった気分だった。
曲がり角に差し掛かったところで、二人は悩んだ。
「どっちだろう?」
「うーん・・・」
修道院からこんなに離れたことは無い。
神父がいるという教会にも一度だって行ったことはない。
完全に迷子だ。
「まずいなぁ」
燐は迷子になっても楽観的だった。
迷子になった不安よりも、神父を探す目的の方に意識が集中していたから。
右の方に行ってみよう、と燐は先に歩き出す。
燐の左手が引っ張られた。
「雪男?」
後ろを振り返る。雪男はとても不安そうな顔をしていた。
燐と同じ青い瞳には暗い色が宿っている。
「兄さん、大丈夫なの」
「雪男、心配すんなって。俺がついてる」
雪男が燐の左手をぎゅっと握り締めた。
もしも、ここで二人が離れることになったら。
僕達はひとりぼっちになってしまう。
「兄さん、お願い。手、離さないで」
あの後、どうしたんだっけ。
燐は授業が終わった学校の教室で昔を思い出していた。
迷子の二人は結局、物凄い形相で走ってきた神父に保護された。
心配かけやがって、と怒鳴られて両脇に抱えられたまま修道院まで
離してもらえなかったのもいい思い出だ。
あの時は、神父が迎えに来てくれた。
でも、今迎えに来てくれる神父はいない。
きっと後もう少ししたら、雪男が教室のドアを開ける。
最近いつもそうだ。学校に行くのも一緒だし、学校が終われば
教室まで迎えに来る。
騎士団から燐の監視命令を受けているのだから当然なのかもしれないが。
それにしたって、あの日以来雪男の行動はどこかが違う。
雪男は燐を離さない。
俺はあの時、雪男にどう答えたんだっけ。
窓を見て暗くなっていく空を眺めた。
教室のドアが開く音が聞こえた。早いな。
燐は荷物を持って振り返る。
今日は塾もない。
きっとこのまま寮に帰って、明日の朝まで出られないんだろうな。
ドアの前にいる人物を見て、燐は目を見張った。
派手なピンクの髪に、着崩した制服。
「なぁ奥村君」
不敵な視線で燐を見つめる。
「志摩・・・」
戸惑う燐に志摩は言う。
「俺と駆け落ちしてみん?」
一人になりたくないのか。
一人にしたくないのか。
前者の想いは自分の衝動。
後者の想いは相手への衝動。
その衝動の先にあるものは、同じようで全く違う。
父や兄のようになりたかった。
でも、そんな私に残されたのは何だ?
『無』だよ。
それを認めるのは怖いかね?
僕はお前とは違う。
僕に残るものがあるとしたらそれは―――
朝の光がまぶしくて、目を覚ました。
寝ぼけた目には強い朝日。
兄さん、カーテン閉めなかったのか。
少し苛立ちながらベットから起き上がる。
寝覚めが悪い、嫌な夢を見たようで、不快だ。
ボヤける瞳、手探りで眼鏡を取ってかける。
視界がはっきりした。
ベットから降りて、隣のベットに向かう。
そこには布団に包まって眠る兄の姿があった。
机の上にある時計を確認すれば午前6時。
雪男にしたらいつも通りだが、燐にとっては早い。
休日だからといってだらけていてはいけない。
特に兄は人より勉強しなければ。
「兄さん起きてよ」
布団を剥ぎ取る、いつもならクロが足元で丸まっているのに
今日に限っていなかった。外に出かけたのかもしれない。
燐は寒くなったのか、体を丸めてまだ寝ようとする。
猫ですら活動的なのに。
「兄さんてば」
ベットの上に乗り上げて、肩を揺する。
燐はおっくうそうに言った。
「・・・うっせーな・・・志摩」
肩を掴む手が、急激に冷えた気がした。
なんでそこで、彼の名前が出てくるんだ。
そんなこと一度だってなかったのに。
今までの不審が一気に心に襲い掛かってくる。
携帯電話に志摩君が出たのは何故。
誕生日の夜にどこに行っていたのさ。
この左手の先にいるのは彼なの。
雪男は燐の左手に指を絡める。
温かい、この手を握っていたのは僕だけだったはずなのに。
頭痛がする。嫌な夢を思い出しそうな予感。
でも、そんな私に残されたのは何だ?
『無』だよ。
それを認めるのは怖いかね?
僕には兄さんがいてくれると思ってた。
でも、兄さんはそうじゃないのかもしれない。
おかしいな。
にいさんがいなくなったら、ぼくにはなんにものこらないじゃないか。
兄の肩を掴んで、仰向けにする。
腹の上に乗り上げて、寝ぼけて力の入らない両手を拘束した。
雪男の行動に驚いたのか、燐は視線を雪男に合わせた。
「雪男、なんだよどうした」
雪男は応えない。そのまま顔を近づける。
燐は抵抗するように顔を背けた。
「雪男、嫌だ。やめろ」
その言葉に火がついた。
雪男は右手を振り上げて、燐の頬をぶった。
ぱしんと乾いた音が響く。
何をされているのかわからないだろう。
泣きそうな顔で見上げてくる瞳。
雪男の心は燐の反応を見るたびに冷えていった。
「じゃあ、志摩君にならいいっていうの?」
燐は降りてきた雪男の唇を今度は抵抗せず受け入れた。
触れて、離れた唇。右手でなぞる。
そのまま紅くなった頬を撫でる。
「雪男、雪男」
うわごとのように燐が名前を呟く。
今、この瞬間だけ兄が自分を見てくれている気がした。
雪男の手は首をなぞって、鎖骨の形を確かめた。
手が、燐の服の中に侵入する。
「抵抗しないの?僕を殴って逃げるくらい兄さんになら簡単だろ」
「お前、どうしたんだよ」
「兄さんって本当に何もわかってないよね」
耳元で呟いた。そうだ、なんにもわかっていない。
いや、わからないのかもしれない。
自分のことも相手のことも何一つ分からない。
「わかってないのはお前だろ」
寂しそうな声だ。なんでだろう、寂しいのは僕だったはずなのに。
「お前、迷子になったときと同じ顔してるぞ」
俺の目、見てみろよ。燐は言った。
でも、雪男は燐の肩に顔を埋めて瞳を見ない。
見ればきっとそこには情けない自分の顔が、泣き出しそうな自分の瞳が映る。
向き合うことで、鏡の様にそれぞれの表情を見せ合うことになる。
「雪男、手離してくれ」
「いやだ」
燐は仕方なく、ぶたれて紅くなった頬を雪男に寄せる。
触れ合った頬がやけに熱く感じた。
捕まえてないと、離れてしまうかもしれない。
掴まれてたら、お前を抱きしめられない。
二人は反対のことを思いながら同じことを想う。
なんでこうなってしまったんだろう。
なぁ雪男、俺はさ。お前にだけは俺を背負わせたくなかっただけなんだ。
心の内を言ってしまうのは簡単だ。
でも、今の雪男に言えば逆効果になってしまいそうで言えなかった。
雪男に拘束されて動けない。
このままではベットから降りることも、部屋から出ることもできないだろう。
燐は視線を壁に向けた。
行き止まりだ。
なぁ、まるで俺達みたいだな、雪男。
放課後、教室で寝てても誰も起こしてくれなくて遅刻した。
奥村君は祓魔塾に遅れてきたときにこんなことを言っていた。
でも、放課後になっても誰も起こしてくれないとかありえるだろうか。
少なくとも志摩はそういう経験は無い。
放課後や移動クラスで寝ていた時などは、全然仲良くないクラスメイトでも普通に起こしてくれた。
奥村燐はクラスでどういう扱いを受けているのだろう。
祓魔塾以外での燐を見るために、志摩は足早に廊下を歩いた。
なんだかとっても興味が湧いた。
(あ、でもいじめとかだったら嫌やな・・・)
一瞬考えた嫌な予感に志摩の足が止まる。
奥村燐がいじめられるようなタマではないことはよく知っている。
まぁこれは確かめることが肝心だ。
もし、万が一にもそうだったなら慰めたろ。
そんなことを考えながら歩き出す。
別のクラスを覗くのは結構緊張する。
放課後を狙ってきたのだが、教室の中にはまだ何人か残っているらしい。
ドアの向こうから、女の子の話し声が聞こえてくる。
(奥村君おるかなー・・・)
ドアを開けて、こっそりと中を伺う。
夕暮れの教室に、机にうつ伏せて寝ている男子生徒がいた。
それを取り囲むように、女子が二人。
寝ている男子生徒を覗き込んでいるようだった。
女子が手を動かすと、ピロリン、という電子音が聞こえた。
「なにしとるんー?」
志摩が背後から話しかけると、女子生徒はきゃ、と小さく悲鳴をあげた。
志摩の方を振り返り、見かけない顔だと思ったのだろう「どちらさまですか」と
逆に質問された。
「俺は志摩いうんよ。そこで寝てる奥村君のお友達ー、君らクラスの子?」
寝ている燐を指差して言うと、女の子二人は顔を紅く染める。
携帯電話をもっている手が震えていた。
ちらりと覗き見た携帯電話の画面で全てを把握する。
恥ずかしいのだろう女の子達はいたずらが見つかった子供みたいにそわそわしている。女の子を愛でるのが趣味な志摩はその様子を見てニヤニヤを隠せない。
「このことは秘密にしてください」と言って女の子達は教室を駆け足で去っていった。
後に残されたのは、寝こける燐とそれを覗き込む志摩だけ。
志摩はニヤニヤした顔で燐を見る。
「奥村君も罪作りやなぁ」
起きているときの奥村燐は騒がしいし、
モノを知らないので馬鹿だと思われる面が多々ある。
いや逆にそれがあるからこそ今目の前の光景に人は惹かれるのかもしれない。
夕暮れの光に、燐の寝顔が照らされる。
普段の様子からは考えられない程、端正な寝顔がそこにはあった。
弟の奥村雪男は女の子にモテる。雪男に対する女の子の評価は「カッコいい」だ。
奥村雪男と奥村燐は双子の兄弟。
兄である燐が「カッコいい」顔をしていないはずがない。
つまり、燐だってモテているのである。本人が気づいていないだけで。
志摩はポケットから携帯電話を取り出して、ピントを合わせた。
ピロリン、と誰もいない教室に電子音が響く。
「誰にも言わんよー」
独り言を呟く。先ほどの女の子達と同じことを自分はしている。
画面には、夕焼け色に染まった燐の寝顔。
放課後、教室で寝てても誰も起こしてくれなくて遅刻した。
燐が遅刻した理由。
誰も、この絵になる風景を壊したくなかったのだろう。
だから、誰も奥村燐を起こさなかった。
「ここのクラスの子らは奥村君のことよう知ってるんやなー」
燐の顔にかかる髪をそっとかきあげる。
触られたことで、燐がうーん、と寝言を言う。だが起きない。
眠りの深さを確認して、志摩はそっと燐に顔を近づけた。
「このことは、秘密にしてな?」
燐の唇にそっとキスをする。
志摩は背後を振り返った。
教室の入り口で立ちすくむ、雪男と目があった。
志摩は悪い顔をして、雪男にもう一度言った。
「このことは、奥村君には秘密にしてな?」
わざとらしく、唇に指を当てて志摩は言う。
クラスメイトは奥村燐を起こさない。
ならば、燐を起こす役目は、弟の雪男しかいない。
今回も、燐を起こしにきたのだろう。
雪男に見られた光景を、志摩は謝るつもりはなかった。
それどころか、挑発的だ。
「・・・確信犯か」
雪男が起こしに来るタイミングで仕掛けた志摩に不快感を隠せない。
雪男は不機嫌な顔で呟いた。
眉間に皺が寄った険しい表情は、どこか燐に似ていた。