青祓のネタ庫
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安息日―――キリスト教やユダヤ教では、『創世記』で啓典の神が天地創造の7日目に
休息を取ったことに由来し、何も行ってはならないと定められた日とされている。
その後姿には見覚えがあるのに、僕は何にも覚えていない。
刀、だろうか。肩に背負って僕から遠ざかっていく姿。
「―――がいなかったら、きっと僕は祓魔師にもなってなかった。
医者を目指して今頃その勉強してたはずだろうね」
酷いことを言った気がした。
―――の顔は見えなかった。
部屋から出て行く後姿。
心では謝りたかった。
だから帰ってきたら謝ろう、その時にはそう考えていたんだ。
瞬きをした瞬間に、その後姿は跡形もなく消えていた。
―――って一体誰?
僕はなにをしたかったんだっけ。
誰かに謝りたかった気がするんだけど。
目の前を見るけどそこにはもうなんにもいない。
雪男は目覚めた。まだ日は出ていない時刻だ。
汗をびっしょりとかいていて気持ちが悪い。
起き上がって、眼鏡をかけてびっくりした。
いつもと違う風景。
ここは正十字学園の寮だ。
お金持ちが通う学校なだけあって、設備は無駄にいい。
雪男の場合は学生だけでなく、塾の講師としての仕事もある為
一般の生徒とは違う個室が用意されていた。
白い壁にシャンデリアの如く装飾された電灯、端には大きなベットもある。
机の上には大きなパソコンがあって、薬草の陳列棚も天井にまで届くほどで
収納に便利だ。この部屋を一人で使っている。
正確には使い魔のクロがいるから、一人と一匹だ。
部屋の隅っこにはクロ専用のトイレと猫ベットがある。
クロは部屋のトイレを使ってくれないのでそれが悩みだ。
そうだ、入学してから何ヶ月たっていると思う。
使い慣れた部屋のはずじゃないか。
なんで僕はいつもと違うと思ったんだろう。
寝ぼけているのかな。ベットから降りて、洗面台で顔を洗う。
さっぱりとした。目の前の鏡を見た。
寝癖ではねた髪。寝起きで目つきが悪くて。
まるでそれは―――のようで。
ぎくりと嫌な思いが心をよぎる。
僕はなにかとんでもない間違いをしているんじゃないだろうか。
そんな思い。
足元から声がした。
「にゃーにゃー」
「クロ、どうしたの?」
使い魔のクロは雪男の足元でしきりに鳴いて何かを訴えている。
お腹でも空いたのだろうか。クロは部屋の中をうろうろして、
ベットの上に乗ってなにかを探していた。
「どうしたの?」
「にゃー」
クロの言葉は僕にはわからない。
僕には?いや誰にもわからないはずだ。
だってクロは悪魔だ。僕は人間で言葉がわかるはずなんてない。
なんでこんなこと思ったんだろう。
「にゃーにゃー」
クロは扉を開けろと爪で引っかきだした。こんな仕草だったら僕にもわかる。
仕方ないのでドアを開けて外に出してやる。
クロは一目散に走っていって階段の方に消えていった。
あんなに急いでどうしたんだろう。
なにを探しているんだろう。
ちらりとクロのえさ箱を見る。フードは半分近くが手を付けられていない。
ここの所あんまりえさを食べていないようだ。
どこか具合でも悪いのかもしれない。帰ってきたら診察してみよう。
そう考えて雪男は学校に行く準備を始めた。
「なんですか?」
「・・・あ、いえすみません。人違いでした」
その人は肩に竹刀を入れた袋を提げていた。
同じ正十字学園の制服を着てるからたぶん剣道部だったのだろう。
思わず声をかけてしまった。
―――じゃないのに。
ずきんと頭痛がして、思わず頭を押さえる。
僕を呼ぶ声が聞こえた。
「雪ちゃーん」
呼ばれる声に振り向く。そうか、しえみさんの声だったのか。
おばあさんのこともあって悪魔にも取り憑かれて色々大変だっただろうけど、
塾にも、学校にも通えるようになってよかった。
いつもなら登校中に会うことはない。
今日はたまたまタイミングがあったのだろう、一緒に教室まで行こうという話になった。
「花も咲き始めて綺麗だねぇ」
「そうですね」
しえみは立ち止まって、どこかを見ていた。
「しえみさん、どうかしました?」
話を聞くと、僕に似ている誰かがいたらしい。
でも、そんなことはありえない。
だって僕は一人っ子だもの。神父さんに育てられて、神父が死んだから
その友人である正十字学園の理事長に後見人になってもらった。
本当にそう?
ずきりと頭痛がして、また頭を押さえた。
「雪ちゃんどうしたの?頭でも痛いの?」
心配そうな顔で言われた。大丈夫だ、こんなことなんでもない。
誤魔化すのは得意だ。だから答えた。
「いえ、なんでもありません」
僕は嘘をついた。
この嘘つきだらけの世界でもなお。
しゃらんしゃらんと首に付けられた輪から伸びる鎖の音。
静かな部屋の中にその音だけが響き渡る。煩い。
この鎖と輪は取れないのだろうか。
初めは引っ張ったりしたけど、首が苦しいからそのうちやらなくなった。
鎖の先には何もついていない。
ただ、首の輪から鎖が伸びてるだけで、不自由だけど拘束されてはいなかった。
問題はこの鳥かごのような檻だ。
肩くらいなら外に手を伸ばせるけど、体が出れるような幅は無い。
かごの中には一面に白いクッションが敷いてあるから、体を痛めることはない。
このかごの中で、首に鎖を付けられて閉じ込められている。
自分の意思ではない、出れるものなら外に出たい。
でも、身体がだるくて力が入らなかった。
檻を壊すこともできない。
だから、鳥かごの中で寝そべってぼんやりと時間が過ぎるのを待つだけ。
鳥かごの前には天井まで広がる大きな窓があった。
外には学園に向かう学生服姿の少年少女達がいる。
自分の服を見る。
黒い長ズボンに黒いシャツ。黒いベスト。
ベストには所々白いレースがあしらわれている。
胸元には黒いリボンがあり、ゴシックな雰囲気が出されている。
なんなんだよこの服。
この服だって、自分で着たわけじゃない。
気がついたらここにいて、この服を着て閉じ込められていた。
俺も、あの制服着てたはずなのに。
なんで俺はここにいるんだろう。
ズキリと頭痛がした。
あれ、今の感情はなんだろう。
ここにいる理由もわからない、外の世界がなつかしい。
なんでだろう。なにも覚えていないのに。
この距離だと、顔が辛うじてわかるくらいだったけど外にいる皆は楽しそうだった。
見ているのが辛くなって窓に背を向ける。
部屋の中はがらんとしてて、唯一鳥かごの前にソファが置いてあるだけだ。
部屋の中はとても広い。
外には人がいるのに、この広い部屋には自分一人だけしかいない。
孤独感が強まる仕組みに嫌な思いが浮かんだ。
こんな悪趣味なことをするやつには心あたりがある。
覚えていないはずなのに、そいつの気配を感じた。
部屋の扉が開いた。この広い部屋にしては小さな扉を開いて、その人物はこちらに向かってくる。
コツ、コツ、コツ。
ヒールの高い靴のせいで足音がやけに響く。
人物はこちらが起きているのに気づくと、ニヤリと笑った。
そいつはソファに座って、足を組む。
自分が鳥かごの中にいることで、とても満足しているようだった。
思わず言った。
「悪趣味」
「よくわかっているじゃないですか」
ピエロ風の服を着た男は、おかしくてしょうがないという風だ。
こいつの好きにされたくないという思いが強くなった。
「外に出たい」
「許可できません」
鳥かごから手を伸ばす。
ソファのピエロには手が届かなかった。不快だ。
ピエロは立ち上がって、首から伸びた鎖を引っ張った。
がしゃんと音がして鉄柵に顔をぶつける。痛かった。
起き上がろうとしたけど、鎖を足で踏まれて起き上がれなかった。
鎖を持っていないほうの手で、前髪を掴まれる、視線を無理矢理合わせられる。
「あなたの苦痛に歪む顔、結構イイですね」
そのまま、顔に手を這わされた。こいつ、調子に乗りやがって。
唇を撫でる指に噛みついた。痛みに呻くかと思えばそうではなく。
逆に指を口の中に突っ込んできた。口内に相手の血の味が広がって気持ち悪い。
指は味を覚えこませるように動き回って出て行った。
見せ付けるように吐き出してやったけど。
ピエロ男は言った。
「あなた、名前は?」
名前?なまえ。俺の名前。
頭の中は霞がかかったように何も思い出せない。
口が勝手に動いて音を発する。
「奥村燐」
ピエロ男は考えるようにして言った。
「私の名前は?」
考えたけど思い出せなかった。また、口が覚えていたように応える。
「メフィスト」
「記憶あるんですか?」
「・・・ねーよ」
他人に聞かれて確信した。記憶はない。
でも口は覚えていた。
俺の名前は、奥村燐。そのはずだ。
その名前とともにあるはずの記憶は思い出せなかったけど。
俺は、どうしてここにいるんだろう。
不安な表情を見て満足したのか、メフィストは鎖を踏んでいた足を外した。
「また来ます。いい子にしててくださいね」
「外に行くのか」
「イイエ」
「じゃあどこに?」
「貴方のいないところに」
そう言って、メフィストは出て行った。
そうして部屋に取り残された。
心にぽっかりと穴が空いたようだ。
誰かいないのかな。
燐は窓の外を見た。
制服姿で学校に向かっていく集団の中にひときわ目に付く人物がいた。
そいつは後ろ姿だけだったけど、誰なのかわかった。
記憶はなかったけど、呼び止めたかった。
気づいてくれ。
窓を叩こうとしたけど、手は鉄柵に阻まれて届かなかった。
そいつは何かに気づいて後ろを向いた。
眼鏡、顔にあるホクロ。青い目。
その目は後ろから来た女の子に向けられていて、こちらには気づかない。
「・・・雪男」
雪男、あいつは確かそういう名前。
雪男は金色の髪の女の子と立ち止まって少しだけ話す。
二人とも笑っていた。でも、その光景を見て俺はすごく寂しくなった。
何も知らないけど、そこに俺もいたような気がして。
そこにいけないことが寂しくて、しょうがない。
雪男は先に歩き出した。
金色の髪の女の子は何かに気づいたのかこちらを向いた。
思わず口から声が出た。
「しえみ」
そうか、あの女の子はしえみっていうのか。
しえみは一瞬驚いた顔をした。
けど、雪男に呼ばれてこちらに背を向けて去っていった。
二人は仲が良さそうに歩いていく。
俺をおいて歩いていく。
「なぁ・・・雪男、しえみ」
学校に向かう人物はもうまばらだ。
しばらくしたら誰もいなくなった。
がらんとした部屋に、答えてくれる声はない。
「雪ちゃーん」
呼ばれる声に振り向く。しえみがいた。
いつもなら登校中に会うことはない。
今日はたまたまタイミングがあったのだろう、一緒に教室まで行こうという話になった。
「花も咲き始めて綺麗だねぇ」
「そうですね」
花びらが風に舞って、空に浮かんだ。しえみはそれを追って視線を空の方に向けた。
通学路から遠く離れた、空に近い屋敷の方に花びらは舞っていく。
正十字学園は町が上に上に積まれている構造になっているので、学校よりも上の方に
建物があるのは不思議ではない。
でも、しえみは疑問に思った。
その屋敷の―――窓のところに男の子がいたからだ。
「しえみさん、どうかしました?」
雪男が呼ぶ。しえみは屋敷に背を向けて雪男の方へ歩き出した。
あの男の子の顔。そうだ。
「なんだか、雪ちゃんに似た子がいた気がしたんだけど・・・」
「僕に?」
「うん、気のせいかな」
「もしかしたら悪魔でも見たんじゃないですか?」
「うん、そうかもしれないけど、でもね。なんだか」
「気になることでも?」
「その子、すごく寂しそうな顔してたの・・・」
「しえみさん、授業でもやりましたけど悪魔はそうやって油断させて取り憑くのもいるんですよ」
うん、と呟いてしえみは気持ちを切り替えた。
これから学校だ。神木さん達だっているし、雪ちゃんもいる。
楽しい時間が待っている。
そうだ、クッキーを作ってきていたのを忘れていた。
「雪ちゃん、私ねハーブクッキー作ってきたの!今回は特殊なハーブ使ったんだよ!」
しえみはカバンからどす黒い塊の入った袋を二つ取り出した。
その一つを雪男に渡す。
雪男の顔が歪んだが、一瞬で取り繕って笑顔になった。
「ありがとうございます」
「あれ、おかしいな。雪ちゃんにあげるつもりだったのになんで2個作ったんだろう?」
「神木さんの分じゃないんですか?」
「神木さんと朴さんのはまた違うのあげようかと思ってて・・・おかしいな」
一つだけ余ったそれをかばんに仕舞おうとするしえみに雪男は思わず声をかけた。
なぜだか2つじゃないといけない気がした。
「じゃあ、僕が2つ貰いますよ」
「いいの?ありがとう」
「いいえ」
二つ目を雪男に渡す時、しえみはふと思った。
「雪ちゃんに兄弟がいたらきっとあの子みたいなんだろうなぁ」
「さっきの?」
「うん」
「それくらい似ていたのなら見てみたい気もしますが、それはないですよ」
「だよね」
雪男は言った。
「だって、僕は一人っ子ですし」
銃の引き金はとても重い。
簡単には引けないようになっている。
例えば、訓練の受けていない者が片手で銃を撃とうとすると
発射の反動で肩を痛めてしまう。
両手で支えて撃ったとしてもやはりその反動で身を痛める。
銃を扱うにはリスクを伴う。
それはどの武器にも言えることだ。
命を奪う手段を持つものは、同時に自分も奪われる覚悟を持たなければならない。
勝呂は痛む頬を押さえて、一人縁側に座っている。
ここは正確には旅館の部屋に向かうための廊下だ。
しえみから頬を冷やす氷を貰って、部屋に戻る途中だった。
空を見上げたのは偶然だ。暗闇の空に青い月が灯っている。
青い―――奥村燐の出した焔のような光。
勝呂はそれを眺めて燐の言葉を思い出した。
父ちゃんに謝れ、今のうちに
まるで、自分のことのように怒っていた。
どうしてだろう。アイツの父親は魔神のはずだ。
父親に対してアイツはなにか謝ることがあったのか?
でも、奥村先生はアイツは自分が何者か知らずに育ったと言っていた。
祓魔の世界と関わらずに育ったということは、魔神との接点はなかったはずだ。
じゃないと、魔神を倒すなどどいう言葉は出ないはず。
魔神を倒したいと思うなにかが、アイツにあったのだろうか?
勝呂は考えて、首を振る。全ては仮定でしかない。
関係のないことだ。
魔神の息子のアイツのことなんてどうでもいいんだ―――
俺だって、好きで魔神の息子じゃねーんだ
でも、お前は違うだろうが
顔をしかめたせいで、頬がズキリと痛んだ。
いきなり携帯電話が鳴った。誰だろう。
気分が悪かった。確かめもせずに出た。
『もしもし』
携帯電話ごしで聞くと、アイツと区別がつかない。
その声にどきりと心臓が跳ねた。
ひとつ呼吸を置いて電話の相手に応える。
「奥村先生か」
『勝呂君、君が怪我したと聞いてね』
「いや・・・」
『言いにくいのもわかるよ。兄さんがやったんだろう』
沈黙は肯定。雪男は勝呂の言葉を待たずに話を続ける。
「えらい勢いで殴られましたわ」
『兄さんは殴ると決めたら容赦しないからね。すまない、謝るよ』
「いや、俺は別に。それよりアイツは大丈夫なんですか」
『シュラさんの術で気絶させられたみたいだしね。大丈夫とは言いがたい。気になるのかい?』
「・・・・・・いえ、そんなことは」
アイツは、志摩のじいさんと一番上の兄貴を殺した魔神の息子だ。
子猫丸の両親だって。寺の皆だって。俺の家族だって。
あいつの、青い焔のせいで。
『ねぇ勝呂君、君は祓魔師―――竜騎士になりたいって言っていただろう』
どうしてここでその話が出るのだろう。
でも、勝呂は黙って雪男の言葉を聞いていた。
燐が牢屋に閉じ込められたことも雪男は知っているのだろう。
兄が幽閉される喧騒を作った自分を、彼はどう責めるのか。
『銃ってね。引き金がとても重いんだ』
簡単には引けないようになっている。
例えば、訓練の受けていない者が片手で銃を撃とうとすると
発射の反動で肩を痛めてしまう。
両手で支えて撃ったとしてもやはりその反動で身を痛める。
銃を扱うにはリスクを伴う。
それはどの武器にも言えることだけどね。
『ねぇ、竜騎士を目指す君は引き金を引いて僕達を殺したいって思うかい?』
燐は魔神の青い焔を継いだ悪魔だ。
雪男はその弟だ。人間だけど、魔神の血縁者だ。
祓魔師として悪魔は祓魔の対象になるだろう。
でも、雪男は人間だ。祓魔師は人間を殺せない。
じゃあ、燐なら殺せるか?
お前は僕の兄を殺せるか?雪男は勝呂に問いかける。
勝呂は言った。
「まだ竜騎士になってないから、わかりません」
『そのはぐらかし方は上手いな。君は頭がいいね』
夜の静かな旅館の庭に、かしゃんという金属音が響いた。
それは、銃の安全装置をはずす音のように勝呂には聞こえた。
何故わかったのか。理由は簡単だ。
電話の向こうから同じ音が聞こえたからだ。
『僕は兄さんを殺せるよ。同時に、兄さんの刀で刺されて死ぬ覚悟もある』
もしも兄が焔に飲まれて戻ってこれなくなったら、僕は覚悟をもって引き金を引く。
そして、兄さんの刀に刺されて死ぬんだ。
『勝呂君。命を奪う手段を持つものは、同時に自分も奪われる覚悟を持たなければならないよ』
電話が切れた。銃の音も聞こえない。
勝呂は切れた携帯電話を操作して、電話帳を開いた。
画面にはグループ分けされたフォルダが表示される。
勝呂の性格と同じく、画面もきっちりと整理されている。
グループ1家族
グループ2旅館
グループ3友達
グループ4クラスメイト
等々
検索して、名前を開く。
「奥村燐」
この番号だけは、どこのグループに入れようか悩んで結局どこにも設定してない。
あいつと俺の関係はなんなんだろう。
俺は、あいつにどうしてやるべきだった?
あの青い焔は人を殺すことができる。
考えてもわからない。
でも、一つだけ確かなことがある。
「俺は・・・奥村を殺したくなんかないんや」
命を奪う手段を持ったとしても。
燐は突き飛ばされて、ベットの上に倒れこんだ。
勢い余って頭を壁にぶつける。痛い。
起き上がって、突き飛ばした張本人を睨みつける。
ニヤニヤした表情がとてもムカついた。
しかし、燐が口を開くより前にそいつはベットの上に乗り上げてくる。
起き上がった燐の肩を押して、燐はまたもや布団に押し付けられた。
耳元で、そいつは言った。
「奥村君、俺とええことしよ?」
旧男子寮には奥村兄弟しか住んでいない。
他に人がいないせいで、いつもはとても静かだ。
聞こえる声といえば、奥村兄弟の喧嘩する声くらいだろうか。
しかし今、兄弟の部屋から普段は聞こえないトーンの声が聞こえてくる。
辺りが静かなせいか、部屋の扉から漏れるように微かに聞こえる声。
知っているものが聞けば、すぐに中で何をしているかなど察することが出来る。
そんな声が聞こえた。
しかも、いつもの兄弟の声ではなかった。
兄の燐と、第三者の声だ。弟はいない。
いやだッ
ええやん、先生おらんのやろ?こんなの遊びと一緒やで奥村君
志摩・・・
ドンッと人が突き飛ばされる音。ベットの軋む音が聞こえる。
二人分の体重が乗ったベットが更に悲鳴をあげた。
志摩・・・なにす・・・
奥村君、俺とええことしよ?
やめ、離せ!
大人しくしといたら痛くはせぇへんよ。
燐の声が篭もる。黙らされたのだろう。
お互いの唇が絡んだせいで、静かな部屋に卑猥な水音が響く。
ようやく離れたのか、苦しそうに息を吸い込む音。
はぁ、はぁ・・・志摩、お前俺になにする気だよ
なに?ここまでされて気づいてない訳ないよな奥村君
だって俺達・・・
俺、奥村君とこういうことするために来たんや
俺はお前のこと友達だと思ってたんだ
友達でもええことはできるで、嫌なら逃げや
床を踏む音がする。燐が伸し掛かる志摩から逃げようとしたのだろう。
部屋の端まで走って、扉を開けようとする。
ガチャンと鍵が閉まっていて開かない。
自分はかけた覚えが無い、志摩か。
この部屋に入った時から相手はこういうことを考えていたのだろう。
鍵を開けて逃げる前に、志摩が何かを呟いた。
途端に、人が倒れこむ音。軋む床板。
い・・・てぇ
これ、君を戒めるための呪文なんやろ?
おまえ、そこまでするのかよ・・・
ゴメンな奥村君。逃がす気なんか最初からないわ。
志摩、お前
ほら、こっちおいで。流石にはじめてが床の上とか嫌やろ。
人を引きずった音の後、ベットが軋んだ。
ブチ、という布が裂ける嫌な音が聞こえる。
体に力が入らない燐は、なんとか逃げようともがく。
でも、志摩はそれを許さない。
前が開けた制服から、手が侵入して燐の体の線をなぞる。
もう片方の手は、燐の足を捕らえた。
足の間に志摩が入り込む。こうなってはもう逃げることは不可能だ。
ファスナーを降ろす音、これから始まる行為を示唆するようで耳につく。
志摩の手が、燐の下腹部を暴いていく。
最初は聞こえなかった燐の声が、志摩の手が動くたびに押さえられなくなって。
卑猥な水音とともに、漏れ出る性を孕んだ吐息。
う・・・ぁ
我慢するのはよくないで?奥村君。
やめろ、志摩・・・
ドアが気になる?ああ、奥村先生帰ってきたら言い訳しようもないなぁ
わかってるならやめろッ
奥村君確認したやろ?ちゃんと鍵閉めたで
嫌だ、こんなこと
なんで、気持ちいいくせに。悪い子やな、奥村君・・・
「悪い子にはどんな御仕置きが必要かな?」
ガチャっという音がして、扉が外から開く。
青筋を浮かべた雪男が立っていた。
鍵は内側からかけてあった。でも、ここは雪男と燐の部屋だ。
雪男が扉を開けるための鍵を持っていないはずはない。
「そして抵抗を封じるように尻尾を掴み、従属させるように頭を布団に押し付けた」
「そこはダメだ・・・!」
「ふふふ、ここが君の弱点なんやろ?どうや?気分は」
「雪男が見てるー」
「見られて燃える恋もあるんやでぇぇ」
部屋に入った雪男が見た光景。
二人はちゃぶ台の上でプリントを解いていた。
別にベットの上にいたわけでもないし、床で絡み合っていたわけでもない。
普通に座布団に座って、雪男から出された課題に取り組んでいただけだ。
お互いに卑猥な行為を口頭で行なっていたけれど。
職員室に参考書を取りに行っていた数分の間になに遊んでんだ。
雪男はキレそうだった。部屋からいやらしい声が聞こえるし、なんかガタガタと音もする。
自分の部屋のはずなのに入っていいのか悩んでしまった。
「そもそも!コレは補修でしょう!真面目に受けなさい!!」
「真面目に受けてますよ。ただ言葉遊びしとっただけですよー」
志摩はプリントを雪男に見せた。半分以上の問題は解かれているようだ。
あっているかは別にして、きちんと課題に向き合っていたのは本当らしい。
「いや、問題はそこじゃなくてそもそもなんでどうしてこうなった!」
「保健体育の授業ならヤル気出るよなっていう話になって、それからエロい話になってこうなった」
燐が平然と応える。視線はプリントに向かったままなので、なるほど。集中はしているらしい。
集中の仕方にはおおいに問題があるが。
「奥村君が真剣にプリント解きながら『やめろ、志摩・・・』とかいうから笑いそうになったわ」
「それ言ったらお前も笑えたな。特に『はじめてが床の上~』の辺り。官能小説かよ」
「ええな、詠唱騎士の副業が官能小説家とか。将来は二束の草鞋をはかんとなぁ」
しかも手が込んでいたのは、本当にベットの軋む音等を出していたことだ。
プリントを解きながら、片方の手でベットを軋ませたり、床を叩いたり。
効果音まで演出しながらやっていたので性質が悪い。
ちょっとこいつらの口黙らせたほうがいいだろうか。
人をおちょくりやがって。
雪男は手がホルスターに伸びそうになるのを必死に止めた。
「なんだよ、カリカリすんなって。次は雪男も混ざるか?」
「だれが混ざるか!!!」
「奥村君、次はソフトSMっぽくする?それともさっきの続きっぽくする?」
「えー、ソフトSMとか俺声出るかなぁ」
「出さなくていい!!!!!」
切れた雪男がついに発砲した。
だがしかし。後日そのプリントを採点した結果、二人とも最高得点を記録して補修には合格。
雪男をおおいに悩ませることになったのであった。
「なんで君がここにいるのかな志摩君」
自分の部屋に帰ってきたら、兄とその友人が鍋を囲んでいた。
しかもこの二人はつい先日、駆け落ち未遂を起こした二人だ。
なにを仕出かすかわからない。
雪男が志摩を警戒感するのは当然のことなのかもしれない。
しかし、志摩は全く気にしない様子で鍋に野菜を入れている。
「おかえりなさーい。奥村君に呼ばれたからお邪魔してまーす」
「・・・へーえ」
「雪男、怒るなよ、気にしすぎると眉間に皺寄るぞ」
「もう二人のせいで寄ってるよ」
「そう言わんといて先生、ほらお土産もあるから」
志摩はビニール袋に入った瓶を手渡した。
中身を見ると、ジュースらしいラベルが見えた。
雪男はため息をついてコートを脱ぐ。
この二人には何を言っても無駄だ。
部屋の中央にちゃぶ台を置いて、上にコンロと鍋が置いてある。
いいにおいだ。任務で疲れた空腹の胃を刺激する。
普通なら寮の食堂で食べるのだが、あそこだと寛ぐというより
ただ食事を食べるための場所だ。
三人で食事をするにはこの部屋はせまい。でも、たまには悪くない気がした。
用意がいいことに、座布団が三枚。雪男は燐の横に座る。
「なぁそろそろいいかな」
「奥村君豆腐食べる?」
「俺肉がいい」
「肉ばっかやと俺らの分なくなるやん」
「兄さん、野菜も食べなよ」
雪男は志摩の持ってきたジュースをコップに注ぐ。
オレンジの甘い匂いが香るそれを志摩に渡した。
「おおきにー」
それぞれにコップが渡ると、志摩がコップを上に掲げる。
「かんぱーい」
「カンパイー」
「・・・乾杯」
何に乾杯なんだろう。疑問はジュースを口にして喉の奥に流し込んだ。
この三人での食事は始めてだ。
昨日までの関係だと今の状態は考えられないな、と雪男は思う。
温かい鍋を囲んでいるせいか、ふと表情が緩んだ。
兄の表情は楽しそうだ。
燐はその力故にほとんど他人と関われなかった。
その笑顔は『友達』が作り出しているもので、『兄弟』の関係とは違ったものだ。
関係は多いほうが兄にとってはいいのかもしれない。
それに、自分達の関係性は揺るがない。
今回のことでわかった。自分は弟で、兄は兄だ。
それはずっとずっと変わらない。
だから、大丈夫なんだと思う。
・・・なんだか頭がぼうっとしてきた。
せまい部屋で鍋をしているせいだろうか。
雪男は冷たいジュースを飲んだ。
コップが空になったところで志摩がジュースを注ぐ。
「これ美味しいやろ」
「ああ、甘くて美味しいね」
燐のほうを見ると、顔を紅くしながらジュースを飲んでいた。
燐も雪男と同じらしい。志摩だけが一人涼しい顔だ。
「なんだか、暑くないこの部屋?」
「窓開けるかー?」
燐が立ち上がると、足元がよろめいた。
志摩は予想していたらしく、倒れこんできた燐を腕の中にキャッチする。
途端に、雪男がむっとした顔になる。
二人のじゃれあいは、許容はできるが納得はできない。揺れる心は別問題だ。
「あはははー、悪い志摩」
「ええよー奥村君抱き心地ええしな」
なんだか一気にムカついた。普段なら我慢できるのに、今は何故かできない。
雪男は印を組んで、禁断の言葉を呟いた。
「オン・マニパドウンッ」
「いだだだだだだ!!!!!」
痛がり出した燐に志摩が驚く。燐は尻を押さえている。
見れば、尻尾にアクセサリーの様なものがついていた。
なるほど、呪文で戒める仕組みか。志摩は悪い顔になった。
これほど痛がるのだから、きっと燐の―――悪魔にとっての弱点なのだ。
「雪男!てめぇらにすんだ!」
「のぼせて足元が覚束無さそうだったから・・・ひっく。目を覚ましてあげようかと」
「余計なお世話だ!!」
二人とも呂律がまわらなくなってきている。
計画通り
志摩は悪い笑顔になった。
志摩が持ってきたのはお酒だ。しかも甘口なので酒と知らなければまず味では気づかれない。
外見だけで雪男がわからなかったのは、ジュース瓶の中身を入れ替えていたからだった。
二人ともお酒に弱いんやなー。もしかして飲み慣れてないんかなー。
志摩の上の兄弟は成人しているので、家でも面白半分飲まされていた。
酒に耐性のない奥村兄弟はどんな面白いことになるのだろう。
志摩はいつもどおりだが、やはり酒が入っているせいか普段より積極的に燐をつつく。
「かわいそうな奥村君ー。俺が撫でたろか?」
「やめろ、尻を触るな」
「ちょっとなにしてるのさ二人とも」
背後には志摩、前にはにじりよってきた雪男に燐は挟まれている。
いつもならすぐ逃げる。なのに酒に酔った頭では危機に気づけない。
志摩が燐の耳元で呪文を囁いた。
アクセサリーが呪文に反応して燐を戒める。
しかし、先ほどのような鋭い痛みではなかった。
「・・・う、あ」
その痛みは少し辛い。足が反射で思わず閉じる。
雪男が何を思ったのか燐の足の間に入ってきた。
足は痛みで閉じてしまうので、雪男の体を締めるように動く。
雪男は触診するように燐の足を捕らえた。
「志摩君何したのさ」
「仮にも詠唱騎士目指しとるんやもん。呪文の唱え方にもコツがあるんやで奥村先生。
詠唱の仕方によって同じ呪文でも強弱つけれるんよー」
へぇそれは知らなかった。雪男は素直に感心した。
目の前にある兄の顔は、眉間に皺が寄って入るが耐えれない痛みではなさそうだ。
この時点で雪男は完全に酔っ払っていた。
いつもなら、警戒している志摩の前で燐を戒める呪文など言わなかっただろう。
志摩にとってはもうけものだが、今後の燐の身は確実に危険に晒される。
そこに雪男が気づく頃にはもう後の祭りなのだが。
「てめぇら・・・俺をいじめて楽しいか」
燐は不快そうに呟いた。当然だ。
しかし、雪男と志摩は平然と答える。
「楽しいか楽しくないかといったら、楽しい」
「知らんかったん奥村君。俺悪い子やねんで」
志摩の指が燐のシャツのボタンにかかる。
燐は嫌がるが、呪文を言われたら体が抵抗できない。
「暑いっていうてたやろー、窓開けるより早いで」
「君だけずるいな。僕も手伝う」
雪男の手がズボンのベルトにかかる。
おい、ちょっと待て。お前ら俺になにする気だ。
前門の虎。後門の狼。
燐の頭にふと思い浮かんだ言葉はこの状況に相応しい。
なんだどうしてこうなった。
背後の志摩を振り返ると、やっぱり悪い顔をしていた。
「奥村君、3Pエンドは予想だにせんかったやろー」
「あ、たり・・・まえだ、馬鹿野郎!」
燐は一先ず雪男を蹴って、志摩に頭突きを食らわした。