青祓のネタ庫
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サバト―――
魔女や呪術師が行う儀式のこと。
また、その儀式には生け贄、血、臓物などを要し
悪魔と通じる為の回線を開くことを目的とする。
運良く回線を開くことができれば、そこから悪魔の囁きを聞くこともできる。
悪魔崇拝者達はそれを予言とも言うが、悪魔の言うことなので信憑性は定かではない。
上級者になると、本物の悪魔を召還し代償と引き替えに使役することも可能となる。
しかし、大なり小なり儀式に犠牲が必要であること。
また、人類不変の敵である魔神と通じる行いであるため現在では教会が取り締まりを強化。
サバトを行う事は禁止されている。
だが、取り締まりを強化しても儀式を行うものが多数存在することもまた、
事実である。
「と、言うわけで今度はサバトの語源についてだけどこれは古フランス語の・・・」
「先生、ストップストップー」
「なんですか志摩君」
「奥村君の耳から煙が出ています。やめてあげて下さい」
「はぁ・・・またか」
雪男は教科書を閉じて、教壇から降りた。
目の前には、教科書を持ったまま微動だにしない兄の姿があった。
雪男は教科書をとって、軽く兄の頭を叩く。
「兄さん、わかった?」
「・・・え?ああ・・・おう」
「オーバーヒートやなぁ」
「要領と容量に問題があるね」
「お前等が俺を馬鹿にしてるのはわかった」
言って、燐は机の上に俯せに倒れ込む。
勉強は苦手だ。先ほどの雪男の説明を半分も理解できなかった。
「だいたい、なんで儀式のことなんか補習で勉強すんだ?
これどっちかというと手騎士っぽい気がするんだけど」
「あ、それ俺も思いましたわ。なんでサバトを主な題材にしてはるん先生?
悪魔薬学っぽくはない気が」
実は、先日兄を狙った輩が悪魔崇拝者の上、兄を使って実際にサバトを行おうとしたからですよ。
と、言おうとも思った。事実燐には授業の開始前にも説明しているが、
結局意味がわからなかったらしい。
だからこそ、こうして何度目かわからないくらい説明しているのだが、
進歩が見えない。雪男は深いため息をついた。
ちらりと視線を兄の隣に座る志摩に向けた。
志摩は運悪く一昨日の小テストでひっかかり補習を受けている。
志摩がいる中、本当のことを言っていいものか。
雪男はそれが気がかりだった。
「手騎士だけの管轄じゃないでしょう。
これは祓魔師に通じる常識の範囲内の勉強ですよ。
今から称号に捕らわれて勉強の範囲を区切るのはよくないですよ」
ひとまず、こう言っておけば支障はないだろう。
雪男は時計を見た。時刻は補習終了の30分前。まだ時間はある。
こうなったら補習で兄の頭に詰め込むのをやめて、帰ってからまた教えるしかないか。
そう考えて、残り時間の授業の埋め方を算段しようとした時。
「なぁ雪男これって昨日の襲撃者の奴らと関係あんの?」
「襲撃者・・・?何なんそれ物騒な話やな」
回路が繋がるのが遅すぎるよ兄さん。
何度も説明をした結果が今ここに。
しかし、よりにもよって話を終わらせようとした瞬間にこれか。
燐が口をすべらせれば、雪男は話すしかなくなる。
現に、志摩が何か言いたそうにこちらをみているからだ。
下手に話に尾ひれがついても困るので、雪男は志摩も含めて改めて説明をすることにした。
これで残りの30分の予定は決まってしまった。
一日でも早く危機感というものを覚えてもらおうと、焦ったのがいけなかったのかもしれない。
クラスメイトがいる中でするんじゃなかったなぁ、と雪男は今更ながら後悔した。
「事の発端は兄が言った通り、昨日学園内に襲撃者が現れた事が原因です。
目的はわかっていたので、泳がせて拘束することにしたんです。
ああ、今はもう大丈夫ですよ。昨日の時点でちゃんと捕まえていますから」
「俺を囮にしてな」
燐は不快そうに雪男に向けて呟いた。
それに驚いたのは志摩だ。
「それほんま?」
「だから、ごめんってば。昨日の時点ではフェレス卿に口止めされてたんだよ」
「だからってよー」
「え、何なん。先生ほんまに奥村君のこと囮にしたん?」
「同意しかねる作戦でしたけど否定はしませんよ」
「まぁ結果捕まえれたし、俺も無事だったから別にいいけどよ」
「・・・ははぁ、だから先生躍起になって奥村君に教えようとしたんやなぁ危機感薄いわ」
「でしょう」
初めて志摩と意見があった。
とにかく、自身のことに無頓着なのは頂けない。
今直しておかないと、取り返しのつかないことになってからでは遅いのだ。
雪男の心配は正にそこにあった。
「で、どんな風に襲撃されたん?」
「3人組の男だった。顔には仮面つけてたな。
魔神様がどうとか言って腹殴られるし、溺れるし散々だった。
あと確実に3人とも頭がおかしい。
気絶する前なんか儀式がどうとか話してた気がする」
「・・・先生、今日の授業と奥村君の話をかけあわせると、
つまるところ、昨日奥村君は頭のおかしいサバト集団に狙われたってことで
ファイナルアンサー?」
「正解です」
心臓食べようとしたことまでは伏せておいた。
話したら雪男も気分が悪くなるからだ。
志摩はうーんと頭をひねる。正直、内容が重い話だ。
それなのに当の本人がよくわかっていないため、楽観的。
志摩が若干ながら引くのもうなずける。
「奥村君、それはあかんわ」
「何がいけないんだよ」
「先生が補習で言うてることわかった?」
「いいやさっぱり」
そうして、志摩はまた頭をひねった。
雪男ですら悩ませる燐の理解力をどうやったら危機感にまで繋げられるか。
そうして、志摩の頭にあることが閃いた。
「よし、奥村君にもわかりやすく俺が例えたるわ」
「え、できるの志摩君?」
意外だった。この難問を、彼はどうやって解いてみせるのだろう。
雪男は半信半疑ながら興味を持った。
志摩は、さらりと言った。
「つまりな、昨日の男達が行おうとしたサバトいうんは
奥村君がメインディッシュの乱交パーティや」
教室内が静まり返る。
そして、志摩の言葉を聞いた燐の顔がどんどん青くなる。
「・・・う、嘘だ!」
「奥村君、これは事実や。
3人組の男に気絶させられて何をされそうになったのか、想像してみい!
怖いやろ!危機感が駆け抜けるやろ!」
「怖い!なんていう怖さだ!」
「そうやろ、そうやろ!そういうことや!」
と言っておもむろに燐の尻に伸びた志摩の手を雪男は止めた。
どさくさに紛れてなにをする気だ。
「いや、間違いじゃないけどもっと言い方があるだろう志摩君!
っていうかそれでわかったの兄さん!??」
「一応、サバトいうんは儀式内に『そういうこと』が含まれたやり方あるやん。
間違いではないし、手っとり早くていいやろ?」
「なんで僕が説明しなかったことまで知ってるのさ」
「俺、教科書に書いてあるエロいことから淫らなことまで。
一字一句抜けもなく、マーカー引いてます」
志摩の自信満々な言葉を聞いて、燐は震える声で言った。
「志摩、後でそれ俺に見せて」
「ええよ」
「よくわからない協定を結ばない」
ぱしっと教科書で二人の頭を叩いた。
叫ぶほど怯えたということは、兄も状況を理解したらしい。
ひとまず、危機感を覚えさせるということは成功したようだ。
自分が何時間かけてもできなかったことが、
志摩の一言で解決したことについてはあまりいい気分ではないけれど。
チャイムが鳴った。補習の時間は終わりだ。
「・・・お礼を言っとくよ志摩君」
「まぁ奥村君と俺はエロスで通じてますから」
「・・・撤回するよ」
「ははは、ええですやん。先生、さっきのお礼もろときますわ」
機嫌の悪くなった雪男から逃げるように、志摩は鞄に荷物をつめてそそくさと出ていった。
燐は、まだ顔色が悪かった。雪男は声をかける。
「だから、危ないと思ったときは、次からはちゃんと僕を呼ぶこと。わかった?」
燐からの返事はない。不審に思っていると、こぼれるような声が聞こえた。
「・・・なぁ雪男」
「何」
「いや。お前が、俺を・・・乱交パーティの男共を捕まえる為とはいえ、
おとりにするなんて・・・!いや、やっぱりなんでもない!!」
燐は雪男から逃げるように後ろに身を引いた。
それにショックを受けた雪男の手から教科書が落ちる。
落ちた教科書が床に広がった。
教科書の文章に赤いマーカーで「乱交」「サバト」「性交」とチェックがついていた。
さっき、教科書で二人の頭を叩いた。
あの時、机に置いていた教科書が、志摩のものと入れ替わったのか。
それを見た燐の顔がまた、青くなった。
これで燐の頭には、サバト=乱交とインプットされてしまった。
そして、雪男は乱交目的で燐が狙われていると知っていながら放置した、
裏切り者とでも思われているのだろう。
正直、ここまでタイミングが悪いと泣けてくる。
「待って、違うんだよ」
「お前の教科書にも、あるじゃねーか・・・確信犯かよ!」
燐は、雪男を振り払うように、教室のドアに向かって駆ける。
「待って兄さん!あいつらは兄さんの心臓を食べようとしただけであって、
決して犯ろうとしてはいないんだ!殺ろうとしてたんだよ!」
「ちくしょう、カニバリズムも込みかーー!!」
「兄さん、待つんだ!どこでそんな言葉を・・・」
兄は去ってしまった。雪男を置いて。
もうだめだ、完全にどん引きされた。
なんだこの状況。兄に襲撃者に対する危機感を持って欲しかっただけであって、
決して自分に対して危機感を持って欲しかったわけじゃないのに・・・
志摩の言葉が、余計に兄を混乱させているじゃないか。
「・・・この落とし前、どうつけてやろうか」
志摩にとって救いだったのは、雪男の怒りの矛先が志摩ではなく、
襲撃者に向かったことだった。携帯を取り出して、連絡する。
「フェレス卿。昨日の悪魔崇拝者達の尋問、まだでしたよね。
僕も行っていいですか」
「先生、なんだか怖いです」
「そうでしょう、だって僕も人間とはいえ魔神の息子ですからね」
そうして、雪男は今晩部屋に戻ってからどうやって兄への誤解を解くかを考えた。
ああ、しかし。これは最初よりかなり難しくなっている。
簡単には解けそうもない、予想外の難問だった。
(誰かいるな・・・)
それは闇の中で感じた気配。
燐は背後を振り返らなかった。
自分の後をつける奴らに気づいた素振りを取るのは得策ではないと考えたからだ。
時計を確認するフリをして、携帯電話を取り出した。
時刻は、夜の11時半。
いつもなら寮にいる時間帯だが、
今日は任務の終わった雪男と待ち合わせをするためにこうして出てきた。
携帯に雪男からの着信はない。
このまま連絡を取ることは不可能ではないが、
背後にいる奴らの目的がわからない以上ヘタに行動を起こしてもまずいかもしれない。
雪男をあまり巻き込みたくないという本音もあった。
燐は、携帯をしまってそのまま歩き出す。
後ろにいる奴らの足音が聞こえてくる。
1、2・・・少なくとも2人。いや、多分3人だ。
陽動で背後に一人。そして、自分の近くの茂みに一人。
数が把握できれば、なんとかなるかとも思ったがこれはあまりよくない結果だ。
2人なら振り切れるかもしれないが、3人は性質が悪い。
身に覚えの無いことで恨まれるのには慣れてるが、
こうして悪意に晒されることが愉快なわけが無い。
燐は、覚悟を決めた。
目的がわからない以上、吐かせるまでだ。
燐は一瞬立ち止まって、全力で走り出した。
雪男との待ち合わせ場所とは別方向に。
走って、走って、噴水の前にたどり着いた。
暗闇でわかりにくいが、ここは以前勝呂達にしえみとの仲をからかわれた場所だった。
噴水を背にして、背後を取られないようにする。
前には、気配が3人。正面同士なら、まだ勝機はある。
奴らはまだ、建物の壁に隠れたままだ。
ここを選んだのは、建物の少ない開けた場所だったからだ。
隠れる茂みが少ない上、隠れるなら正面の建物しかない。
襲撃の方向が限定されれば、迎え撃つことができる。
燐は、背負っていた倶利伽羅を袋から取り出した。
しゃん、という音が響いた。
青い月の光だけではない青色が燐の体に纏う。
「出てこいよ、目的はなんだ」
これで学校の不良とかだったら笑えるな、と思う。
しかし、現実は笑えなかった。
白い仮面を被り黒いコートに包まれた姿。3人とも同じ服装だ。
教科書で見た、儀式を行なう魔女やシャーマンのような異形の姿だった。
手には、銃を持っている。
まずい、飛び道具かよ。思った瞬間、黒コートは銃を放った。
足元に銃弾が飛んできた。慌てて避けて、姿勢がよろめく。
足を狙ってきている。動けないようにするつもりか。
噴水の後ろに回りこんで、銃弾を避けた。
石造りの噴水が銃弾の雨を浴びて砕ける鈍い音が響く。
接近戦ならなんとかなるが、相手の武装の方が上手だったか。
燐は先ほど雪男に連絡しなかったことを後悔した。
連絡するか。いや、今の状況で他に気をやることはまずいか。
携帯を開いたところで、画面に影が映る。
まずい、と思った時には遅かった。
噴水を正面から飛び越えて、黒コートの一人が燐の前に降り立った。
咄嗟にガードはしたものの、蹴り飛ばされて噴水の中に入ってしまった。
石造りの飾りに頭をぶつけた。痛い。水が制服に染みこむ冷たい感覚が不快だ。
めまいがして、倶利伽羅を持っていた手が離れてしまう。
男はそれを見逃さず、足で蹴って倶利伽羅を燐から遠ざけた。
黒コートは、燐の胸倉を掴んで持ち上げる。
白い仮面のせいで表情が見えないのが不気味だった。
「こん、の・・・調子に乗るんじゃねー!!」
青い炎が燐の体から湧き上がる。
黒コートに、青い炎が移って燃え上がった。
普通の人間ならば、ここで怯む。その隙に逃げれるかと思っていた。
だが、目の前の奴は怯むことなく、燃え盛るその腕で燐の体を更に拘束した。
燐に近づく度に炎は勢いを増して、目の前の黒コートを蝕む。
ついには仮面にまで、炎が宿りその半分が焼け落ちた。
目の前には、燃えながらも恍惚の表情で炎に焼かれる男の姿があった。
怯えたのは、燐の方だった。
「離せ!このッ!!・・・お前離れろ!死にてぇのかよ!」
「ああ、この炎に焼かれ死ぬことも厭いません。
我らの信仰せし魔神様の青き炎・・・やはり、魔神様の落胤は貴方でしたか」
「お前・・・悪魔か?」
「いいえ、私どもは人間です。少なくとも今は」
男は、焼け爛れた腕で燐の腹を殴った。
げほ、と息を詰まらせ、燐の意識は闇に沈んだ。
青い炎も収束していき男も、燐から手を離した。
燐はそのまま噴水の水の中に沈んでいく。
辺りには、男の肉が焦げた異臭が広がっていた。
男の背後から、同じ様相の男が二人噴水の中を覗き込んだ。
男達は異臭にも、仲間の怪我にも頓着せず意識を燐だけに向けていた。
意識がないせいで水に沈んだままの燐を仰向けにさせ、その顔を覗きこむ。
手を口元に持っていき、呼吸の確認をした。息はしている。
呼吸ができるように顔の位置を直して、そのまま燐を水に浮かべたままにする。
「こいつか?」
「そうだ、見ただろう。青い炎を纏っていた」
「では、始めよう」
男の一人が胸元から短刀を取り出した。
切っ先を燐の胸元に合わせ、祈りを捧げる。
仲間もそれに習い、柄に手を合わせていく。
三人で持った短刀の狙いは、真っ直ぐ燐の心臓を狙っていた。
『魔神様に栄光あれ』
短刀が、振り下ろされようとした時。
銃声が響いた。
三人の手は打ち抜かれ、短刀が弾かれて地面に落ちる。
応戦する暇もなく、銃声は響いた。
足、太腿、腕、連続で打ちぬかれて立つことすらできずその場に倒れこむ。
三人が倒れたのを確認して、襲撃者は現れた。
「・・・まったく、間に合ってよかった」
息を切らして、額は汗まみれ。
雪男が、どれだけ必死でこの場所を探したのかが伺えた。
雪男は銃弾を入れ替えて、三人に狙いを定めた。
動かないことは確認したけれど、安心はできない。
雪男は念のために頭を蹴って意識の有無を確認した。
三人のうちの一人は、蹴ったことで意識を失ったらしいが別にいいか、と考える。
そして、辺りを見回して噴水の水の中に浮かぶ燐を見つけた。
「兄さん!」
雪男は駆け寄って、燐の顔を覗きこんだ。
よかった。目立った外傷もなさそうだ。
青い月の光が燐を照らすせいで、まるで死人のように思えた。
手を、唇のところに持っていく。息をしていた。
「・・・よかった。本当に」
ようやく安心した雪男は携帯電話で連絡をとった。
「もしもし、フェレス卿ですか。悪魔崇拝者達のサバトは事前に止めることができました」
『お疲れ様でした、いやまさか奥村君が待ち合わせ場所にこないとは思いませんでした。
てっきり手遅れになっているかとヒヤヒヤしましたよ』
「そんなこと、僕がさせません」
『しかし、奥村君をおとりに使って正解でしたね。
悪魔崇拝者を一度に三人も捕まえることができれば芋づる式に組織の全貌が掴めることでしょう』
「・・・ですが、兄をおとりに使うなんて・・・一歩間違えれば今頃」
『結果オーライですよ。悪魔崇拝者の信仰の源は魔神だ。
その魔神の炎を使える奥村君でなければ今回の作戦は成功しませんでしたよ?
あなたは魔神の子供とはいえただの人間ですしね』
任務の後の待ち合わせは嘘だった。
本当は、悪魔崇拝者の行なうサバトの阻止が今回の任務。その囮が燐だった。
悪魔崇拝者は魔神の落胤の心臓を喰らうことで自身も青い炎を宿すことができると考え、今回の凶行に至ったようだ。
昔から、魔女や異形の力を得ようとして心臓を食らう話はよくある。
しかし、あくまでも儀式としての意味が強いため、食べたものに本当に力が宿ったりはしない。
それでも、凶行を行なうのは信仰心のためだ。
少しでも、自らの信ずる神に近づくための儀式。それがサバトだ。
「・・・ですが、次からせめて本当のことを話しませんか」
『おや?お兄さんに嘘をついて心が痛みましたかね?
まぁでも今回奥村君が助けを求めずに待ち合わせと反対方向に行ってしまったのはよくなかったですね。
奥村君の行動は読めないとはいえ、彼自身の選択が彼を危険に晒してしまった』
「つけられているのに気づいて逃げたんでしょうか」
『まぁ、予想はできますよね。彼のことですから、大方誰も巻き込みたくないとか思ってこうなったんでしょう。
そこらへんの教育は先生にお願いします』
「無茶を言う」
『それが上司と言うものです』
電話が切れた。
携帯をポケットにしまって、水に浮かんで眠る燐の顔を包んだ。
「兄さん、嘘をついてごめん。・・・起きたらちゃんと言うよ」
そして、叱ってやる。どうして自分を頼らなかったのかと。
言っても聞かないだろうけど、わかるまで何度でも言ってやる。
青い月が水面を照らし、眠る燐に光を灯す。
それは、どこか幻想的な光景だった。
雪男は惹かれるように、燐の唇に顔を寄せた。
「・・・生きてて良かった」
唇に、湿った呼気が当たる。兄が、生きている証。
その証拠を奪うように、キスをした。
青い月の光に照らされて、水に沈んで眠る悪魔にキスをした。
それは―――まるで儀式のような光景だった。
気がつくと、兄が寮の扉から出ていく所だった。
ひどいことを言った自覚はある。
でも、今は謝る気にはなれなかった。
謝れ!そうしないと後悔するぞ!
心の中から誰かが叫んだ。
今謝らないとどうなるのか、そいつは知っているようだった。
僕は、一瞬躊躇って、でも扉を開けて廊下を歩く兄に言った。
「兄さん!!」
予想外に大きな声で言ってしまった。
去っていく後ろ姿が止まった。
振り返りはしないが、引き留めることに成功したようだ。
僕は、逸る気持ちを抑えながら伝えた。
「ひどいこと言ってごめん。今のは嘘だよ。
なんていうか、任務で・・・納得できない結果になって、それがすごく嫌で。
なかったことにしたかったのかもしれない。でも、それは僕のせいだから。
兄さんに八つ当たりして甘えたんだと思う。だから、さっきのはごめんね」
廊下で立ち止まる背中はこちらを振り返らない。
ポケットから取り出したものを、投げた。
ぱし、と後ろを向いたまま兄はそれを受け取る。
「なんだこの消し炭は・・・」
「それ、しえみさんが僕らにってくれたんだ。そのクッキーは兄さんの分だよ」
「え、マジで!?しえみのクッキーか・・・」
うれしそうな声が聞こえる、つられて僕も嬉しくなった。
「ねぇ兄さん」
「なんだよ」
クッキーをポケットにしまって。
でも振り返らない、その背中。
それでもいい。
「後で、二人でお礼を言いに行こうよ」
そうして兄は振り返る。
僕が見たかった笑顔で。
「そうだな」
そのまま、俺行くとこあるからお前部屋で待ってろよ。
と言って廊下を歩いていった。
兄さんの背中が階段の方へと消えていく。
不思議と、焦燥感は消えていた。
約束をしたんだから、きっと兄はここに帰ってくる。
安心して、部屋に戻る。
足下にいたクロが嬉しそうに、にゃーと鳴いた。
クロの首には、神隠しの鍵を通した紐がかかっている。
「あれ、それ兄さんの鍵だろう。なんで君が持ってるの?」
その鍵を、雪男は不思議そうな顔で見ていた。
燐は、廊下を歩いていた。
歩くたびに首元がシャツでこすれて痛い。
ネクタイを乱暴にひっぱって緩める。
首には何かで締められた痕が赤く、くっきりと残っていた。
ネクタイを緩めた手には、手首の方に鎖の痕が残っている。
しばらくすれば、この痕は跡形もなく治癒するだろう。
でもそれまではこの痕を雪男に見られるわけにはいかない。
振り返らなかったのは、そのためだ。
あいつは聡い。
だから、少しだけ距離をとった。
ポケットの中で携帯の着信音が聞こえた。
一瞬驚くが、すぐに画面を確認する。
表示された名前に気分が萎えた。
だが、こいつには言わないといけないことがある。
恐らく、向こうもそうだろう。
「よぉド変態ピエロ」
「閉鎖された孤独な世界はお楽しみいただけましたか」
「全然」
「やっぱり君みたいな馬鹿でも、自分が何者かわからないまま放置されて、
幽閉されるとあんな風に不安定になるんですね。窓際に檻を置いた効果は絶大だ。
楽しそうな外と孤独な内。孤独感は一層増してもはや蜜の味。
精神不安定の君はなかなか忘れられるものじゃないです」
「・・・てめぇ今すぐ出てこいぶっ殺してやる」
「弱気な君が見たかったんじゃないですか?」
「何が言いたい」
「彼は、君に甘えて欲しかったんじゃないですか。と思ったことを言ったまで」
甘えて欲しかった。
そうなのだろうか。
あの世界は、雪男の望んだ世界だったんだろうか。
それが燐にはひっかかっていた。
「なぁあの世界は・・・」
「無かったことにされる世界、それが悪魔の安息日です。
このことは奥村先生にはお伝え済みだったんですがね」
メフィストが雪男の前から消える時、
メフィストが囁いた言葉はこうだ。
『最後にいいことを教えてあげますよ奥村先生・・・この世界はね。
なかったことにされるんです。
現に今まで誰一人としてこんな時間があるなんて知らなかったでしょう。
それは、なかったことにされてきたからなんですよ。
だから、ここでの出来事はみんな忘れ去られる為の出来事なんです』
メフィストの囁きは、確かに雪男に届いていた。
それを聞いて、燐はまた疑問に捕らわれる。
雪男がとった行動は、忘れられることを知っていながら
とったことだったのだろうか。
なぁ雪男
なかったことにされるのをわかってて
俺に―――
そして矛盾に気づく。
「・・・お前、雪男を騙したのか?」
「騙してなどいません。あの時間が忘れられることは本当だったでしょう。
ただ、『人間』だけが忘れるということを伝えなかっただけですよ」
「この悪魔」
「君も悪魔ですよ」
悪魔だけが覚えている世界の記憶。
記憶の戻った今ならわかる。
あのとき、雪男はやり直しをしようと言った。
そうして、俺たちはいつもそうしてきたとも言った。
『俺、覚えてないけど・・・』
『僕が、覚えているよ』
おい雪男。あんなこと俺達したことなかっただろうが。
この嘘つきメガネ!
そうやって罵ってやりたかったけど。
言葉とは裏腹に。結果として雪男が忘れて、俺だけが覚えていることになった。
あの世界の雪男の言葉を、俺は忘れていない。
忘れる事なんてできない。
首と、手首の痕をそっと撫でた。
そこは確かに熱を持って、存在を主張する。
俺は確かに、雪男の願いを叶えてやりたかった。
やり直しをしようと、雪男は言った。
そうして、俺達はもう一度やり直している。
今度は喧嘩をしなかった。
この結末が、俺たちの望んだ結末なんだろう。
きっとそれでいいんだ。
「―――貴方はそれでいいんですか?奥村君」
「・・・いいんじゃねーの」
「貴方が本気で拒めば、結末は違ったんじゃないでしょうか。
だって、あの世界は弟さんの願いを叶えようとしたとはいえ、
本質は『貴方の望み』を叶える世界だったんですよ」
「・・・それ、どういう意味だ」
「好意と行為は片方の望みじゃ成り立たないもんですよ」
電話は切れた。
プープーという電話が途切れた無機質な音だけが聞こえる。
好意と行為―――
それの意味することがわからないわけがない。
てめぇ見てたのかよ。
とりあえず、次に会ったら殴っておこう。
電話を閉じて、方向転換。今度は来た道を戻る。
あの世界の名残の痣が少しずつ薄れていくのがわかったから。
戻ったら、しえみにお礼を言いにいこう。
雪男との、約束だ。
ふと、立ち止まって、空を見た。
どちらの世界でも変わらず、青いままだ。
閉鎖された世界で、外の世界に憧れた。
その中に混ざりたいって、思っていた。
確かに起こったことなのに。
なかったことにされれば、
まるで、夢を見ていたかのように思えるのも事実だ。
あの日の雪男の本心を知ることは、きっともうないだろう。
それでもいい。
『兄さん、好きだよ』
思い出すと顔が赤くなる。
くそ、なんだよこれ。
こんなこと、初めてだ。
今から雪男のいる部屋に戻っても平常心でいられるだろうか。
ひとまず、顔の火照りは収まって欲しいものだ。
あの時の雪男の表情を思い出す。
苦しそうで、泣きそうで、嬉しそうな。
あんな顔初めてだ。
今から、それを全部忘れたお前に会いに行く。
ぱん、と顔を叩いて、前を向いた。
そうしてもう一度歩き出す。
「へこんでなんかいられるか、俺はお前に甘えっぱなしじゃいられねーからな」
この世界は、願うだけでは何も変わらない。
変えたければ、自分で動くしかないのだから。
「―――俺も好きだよ」
言ったら、どんな顔するのかな。
考えて少しだけ笑った。
例え、なかったことにされたとしても。
あの日雪男がくれた夢の残像は
今も俺の胸の中で静かに眠っている。
「そんなの、嘘だ・・・」
雪男は動揺していた。
確かに、この世界は居心地がよかった。
でも、それは兄を犠牲にして成り立っていた。
「まぁ今までのは、9割嘘で1割が本当です」
「何・・・」
「だけど、今の言葉自体が嘘かもしれないですね?嘘だと言ったことが嘘かもしれないし。
9割の嘘が嘘かもしれないし、1割の本当が嘘かもしれない。
でも今言ったことすべてが嘘で、実はどれも本当かもしれない。さて嘘と本当はどれでしょうかねぇ?」
「人をバカにするのもいい加減にしろ!」
雪男は銃を取り出して、反射的に撃った。
メフィストは立っていた扉の前から消える。
消えた、どこに逃げた。
雪男は背後を振り返る。長い廊下があるだけでメフィストの姿はない。
正面には閉ざされたドアが一つ。
どこだ。
考えているとメフィストの声が聞こえた。
「貴方、今私に『消えてほしい』と願ったでしょう?だから私は消えたんですよ」
「な、何を言って・・・」
「正確には、奥村君が願ったんでしょうけど」
「兄さんが・・・」
「さぁて、私の出番はここまでのようだ。選択の行く末を見させていただきましょうか。
ああそうだ、最後にいいことを教えてあげますよ奥村先生・・・」
雪男の耳元で囁く声が聞こえた。
「この世界はね―――」
それは、悪魔の囁きだった。
「待て!メフィスト・フェレス!」
メフィストの声が消えた。
廊下は、屋敷は、世界は、不気味なほど静まり返っている。メフィストは消えた。
だがあの男の言葉をどれだけ信用していいものかわからない。
何が本当で、何が嘘だ。
雪男の頭の中はめちゃくちゃだ。
ひとまず銃をホルスターにしまう。
深呼吸して、目の前を見る。
扉だ。
この奥に、兄さんがいる。
雪男は確信していた。
そしてもしもいなくても、願えばこの奥に存在するだろう。
メフィストの言葉を信じるならここはそういう世界だ。
雪男はドアノブに手をかける。
がちゃり、と金属の音が響く。
鍵はかかっていなかった。
広い部屋だ。でも、何もない。
一面に張られた窓の側に、鳥かごとソファがあるだけだ。
なんて寂しい部屋だろう。
窓の外には通学路が見えた。
きっとしえみはあそこから、この部屋を見つけたのだ。
外は見えるのに、決して外には触れられない。
通学路を楽しそうに歩く学生を見て、彼は何を思ったのだろう。
このひとりぼっちの寂しい世界で。
雪男はドアを閉めた。
バタンという音が妙に大きく響く。
歩いて、鳥かごの方に近づいた。
中にいる人物は、こちらに背を向けて外を眺めていた。
声をかける。
「兄さん」
振り返った。兄がいた。
もうずっと長いこと会っていないようで、どこか他人のようにも思えた。
黒い見たこともない服を着ているのも原因かもしれない。
「雪、男・・・」
「そうだよ、兄さん」
雪男は駆け寄ろうとした。
でも、燐は近づく雪男に不思議そうな顔を向けている。
「俺、お前の兄貴だった・・・のか?」
雪男の足が止まった。
「な、何言ってるの・・・?」
「悪い、お前の名前はわかるんだけど・・・初めて会う、よな」
「・・・違うよ」
「ここからさ、外見てたらお前と・・・しえみがいて。
あの女の子の名前ってしえみ・・・だよな。お前も呼んでたし」
「・・・兄さん」
「お前ら二人とも楽しそうだったから、羨ましかったんだ。
俺、気がついたら一人ぼっちだったし。ずっと会ってみたくて・・・」
「違うよ!」
「・・・?何が、違うんだ?」
「全部違うんだ。全部、僕が悪いんだよ!」
雪男は駆け寄って、檻ごしに燐の体を抱きしめた。
燐の首には鎖がついていて、しゃらんと檻と鎖が当たる金属音が響く。
抱き寄せた燐は、なにかに気づいた表情で雪男の手から逃れようともがく。
「離せ!」
「兄さん!」
「お前も俺に変なことするのか!」
青い炎が沸き上がって、雪男はソファに突き飛ばされた。
しかし、青い炎が出ると同時に燐は首に手をかけて苦しそうにしている。
見れば、首に架けられた輪が炎に呼応するかのように燐の首を戒めていた。
天罰―――メフィストの言葉が思い出される。
雪男は急いで燐に話しかけた。
「兄さん、落ち着いて!」
「・・・うっ・・・」
「大丈夫だよ、落ち着いて息をして。炎を押さえるんだ。兄さんならできる!」
青い炎がゆっくりと収束していった。
燐の呼吸も、荒いが落ち着いてくる。
雪男は燐の背を撫でてやろうかと思ったが、やめた。
また同様のことが起きるかもしれないからだ。
仕方なく、そのままソファに座ってそこから話しかけた。
「大丈夫?」
「・・・なんとかな」
「ねぇ、兄さんには・・・記憶がないの?」
「いや、おぼろげなんだけどあるんだ。
でも、霧がかかっている風にもやもやしてて、思い出せない。
お前を知っているようで、何も知らないんだ」
「うん、知らない相手にいきなりあんなことされたら、びっくりするよね。ごめんね・・・」
知らない相手、と自分で口にするのは予想外に堪えた。
でも、雪男は話しを続ける。
「ねぇ、ここから出よう」
燐は、雪男の顔を見て視線を逸らした。
「僕と、目も合わせたくない?」
「・・・そうじゃない」
「じゃあ、出たくない?」
「いや、外に出たい。閉じこめられてからずっとそう思ってた」
「じゃあ、どうして答えてくれないの?」
燐は、ためらいがちに口を開こうとした。
でも、閉ざした。
「言ってよ、兄さん」
雪男は燐の言葉を待った。
燐は、答えた。
どこか、諦めたかのように。
「俺がいたら、お前の迷惑になるだろう」
寂しそうな声だった。
「夢でさ、俺はお前と学校の寮で暮らしてるんだけど、喧嘩するんだ。
で、お前は俺のこと邪魔だって思ってた。そこはよくわかるんだ。
今までも、考えなかった訳じゃない。
そのときも、俺がいなかったらお前は幸せだったんじゃないか。
そう思ったんだ。そう考えたら、ここから出られなくなった」
「それは、違うよ・・・」
「俺がいなくてよかったって、思ったんだろ?」
「違うんだ」
「だから、俺は・・・」
燐は雪男にまた背を向けた。
雪男は立ち上がって、鳥かごの周りを歩いた。
金属でできたそれは、簡単には抜け出せないようにできている。
でも一カ所だけ、開く部分があった。
手をかけて開くと、簡単に入り口が開いた。
「入るよ、兄さん」
「ちょ、お前・・・」
「入るなっていっても聞かないよ」
中に入って、入り口を閉めた。
鍵はかかっていないから簡単に入れる。
檻の中に、二人。
雪男は燐に近づいた。
燐は逃げるように、後ずさりした。
でも、檻に背が当たってもう逃げられない。
雪男は檻に手をかけて、燐が逃げられないように檻と腕の間に閉じこめた。
視線が絡む。
「兄さんが出ないなら、僕もここにいる」
「なんで・・・」
「ねぇ、兄さんがいない世界に僕の幸せがあると考えているんなら、それは間違いだ」
あの悪魔の兄弟を雪男は任務で殺した。
もしかしたら、自分たちが辿っていたかもしれない末路にいた二人の兄弟。
兄は弟をかばい、弟も兄を生かそうと必死だった。
そんな願いを持った悪魔を、無惨に殺した。
後味の悪い、最悪の任務。
でも、引き金を引いたのも、殺したのもすべて雪男が決めてやったことだ。
「祓魔師になったのも、引き金を引いて何かを殺すことを決めたのも、全部僕が決めたことなんだ。
それは全部、兄さんを守りたくて決めたことだ。
だから、望まない結末があったとしてもそれは僕が受け止めることで、兄さんが悪いんじゃないんだ」
例え、どんな未来が待っていたとしても。
「ひどいこと言ってごめんね」
燐の目から、涙がこぼれた。
その言葉を、ずっと待っていたのかもしれない。
燐は、何度も頷いた。
雪男はそれを優しく指で拭う。
指で唇に触れて、そのままキスをした。
動揺する燐を逃さないように腕を燐の背に回して、
首から伸びた鎖をつかむ。
キスに不慣れな燐は、ついていくのに必死で気づかない。
腕を頭上に上げさせて、両手を鎖で檻に繋いだ。
そうして、唇を離す。
燐は、ようやく自分のおかれている状況に気づいた。
「雪、男・・・なにして」
「やり直しをさせてよ、兄さん」
「やり直し?」
「そう、仲直り。僕らいつもそうしてきたでしょう」
「俺、覚えてないけど・・・」
「僕が、覚えてるよ」
雪男は放心している燐の足を引っ張って、そのまま下に敷かれている白いクッションの上に燐の体を横たえさせた。
燐の足の間に、雪男は体を入れ込んだ。
足が閉じれないように。
雪男は、燐の胸元のリボンに指をかける。
そうして一生隠しておこうと思っていたことを、口にする。
「兄さん―――好きだよ」
世界が目覚める時間がやってくる。
神は、6日かけて世界をつくりました。
そして、最後の一日に休息をとったのです。
世界を創造した後の休息。
それが、7日目だったのです。
では、その次の日は一体いつでしょうか。
「来るだろうとは思っていましたよ奥村先生」
メフィストは扉の前で、雪男と対峙していた。
雪男の方は、無表情だが冷徹な殺気がにじみ出ている。
かたやメフィストの方は余裕があり、飄々とした態度を崩さない。
「兄は、ここにいるんでしょうフェレス卿」
「さぁてどうだか」
メフィストは扉の前から動かなかった。
雪男が部屋に入ることを阻止しているようだった。
「今のでわかりました。外の世界の人間は兄の事を誰も覚えていなかった。
僕の兄と言われて「そんな人いたか」という存在に対する疑問ではなく、
居場所に対しての疑問「どうだか」と答えるということは、
僕に兄がいることを知っていないと出てこない答えだ。ここにいるんでしょう」
メフィストはわざとらしく眉間に皺を寄せて悩むような仕草をとった。
「青い炎に触れたことで、記憶が甦ったようですね」
「なぜこんなことをした」
雪男はまだ銃を持ってはいない。
だが、いつでも弾丸を撃ち出せるように準備はできている。
「そうしなければならなかったから、ですかね」
「何が言いたい」
「今日は何曜日ですか、奥村先生」
「質問で返すな」
「質問は答えに繋がりますよ」
「・・・日曜日だろう」
教会は休みだった、今日は安息日だから。
「本当に、今日は日曜日なんでしょうか奥村先生?」
「・・・?」
何か含みのある言い方をされる。
雪男の感覚では、そのはずだ。
「日曜日は安息日だ。休む日。これは誰でも知っている。
厳密に言うと「何も行ってはならない日」だということは知っていましたか?」
「何が違う」
「いいですか、何も行ってはならないのです。
でも、存在すること自体何かを行っていると捉えればそうなります。
だから我々は隠れなければならなかった」
メフィストは我々、と答えた。
メフィストと燐。それ以外にも何かが隠れたといえば―――
「悪魔という種族そのものが隠れなければならなかった、
ということですか?何故・・・」
メフィストはご名答、と答える。
リーパーもゴブリンもコールタールもいなくなった。
属する所が違うのに、みんな一斉に示し合わせたかの如く人間の前から姿を消した。
種、そのものの消失。
それはいったい何を意味するのか。
「物質界と虚無界は表裏一体。しかし悪魔の中ではね時間の流れは物質界―――人とは全く違うんですよ」
祓魔師―――正十字騎士団の側に寄り添い、悪魔を祓う知恵を貸す悪魔。
彼の姿は何百年たっても変わらない。
「たとえば貴方が何百年もその姿で生きているということも、でしょうか」
「そうです。今回のことは私一人のせいではないのですよ奥村先生。
世界がそうさせている。気づいていますか?奥村君が消えて何日たっているかを」
言われて雪男は思い返す、そして思い出せなかった。
喧嘩して兄が消えて何日たった?
3日、くらい・・・いや、でももっとたっている気がする。
記憶力には自信があるのに、答えは出てこない。
本当に、今日は日曜日なのか?
それすらも疑問に思えてきた。
時間の感覚が、メフィストが質問するごとにわからなくなっていく。
「今日は8日目なんですよ、少なくともこの時間軸ではね」
「8日・・・?」
「ええ、一週間と1日ではないんです。
一週間の終わり7日目と一週間の始まりの一日目の狭間。だから8日目」
「それだと、一週間が8日の計算になる」
「言ったでしょう?悪魔は時間の流れが違うと」
神は物質界を創造した7日目に休息をとった。
悪魔は神の休む日を足がかりに物質界に進行を進める為、
神の眠りと目覚めの狭間―――8日目に休息をとった。
「つまりね、今は狭間の日。魔神が眠り、神が目覚めるまでの間。
悪魔の安息日なんですよ」
実際には人間時間で何日たっているのかを人間は知覚できない。
ここは悪魔の時間だから。悪魔は別の時間軸を生きている。
だから、日が昇り、落ちてもそれを一日とするか一時間とするか、一分とするかは人間にはわからない。
そんな悪魔の時間の中、人間は危険にさらされる。悪魔も人間を狙って物質界へやってくる。
当然、神は物質界への悪魔の進行を許すわけにはいかない。
だから、悪魔の安息日には「神」が目を付けたものに天罰を与える仕組みになっている。
そうして、物質界は守られてきた。
「我々ほどの上級悪魔になると、神にも目を付けられやすい。
そうしていつしか、悪魔は神から隠れ、
協定のように「何も行ってはならない日」になっていった。
悪魔は神から隠れなければならない。なにもしてはならない。その仕組み。
我々は神に一度負けている、だからこの世界では神の意志が悪魔よりも有利に働く。
だからこそ彼をここに閉じこめる必要があった」
メフィストは扉を叩いた。
この奥に、いるのか。
閉じ込められている間、酷いことをされなかっただろうか。
不安が雪男の心によぎる。
「閉じこめる必要はなかったはずだ!」
「では聞きますが、奥村君は一度たりとも魔神の青い炎を出さずに生活できたと思えます?」
雪男は答えなかった。おそらくそれは不可能だっただろう。
燐はまだ炎を完全にはコントロールできてはいない。
何かの感情の発露で炎を出す可能性は十分ある。
そうして、「神」に目を付けられる。
「兄を天罰から守ったとでも言いたいのか?」
「そうとは言いません」
「では、兄の存在そのものをみんなの記憶から消す必要は、あったのか?」
「おや、その言いぐさは心外だ。お兄さんを「いらない」と望んだのは貴方自身でしょう?奥村先生」
その言葉が雪男に突き刺さる。
「あなたは、任務で兄弟の悪魔を殺していましたよね。
そして、その結末を奥村君のせいにした。
確かに、奥村君がいなければ君は祓魔師にもなっていなかった。
そうすれば、あんな風に君が彼らを殺すこともなかったでしょう」
「うるさい・・・」
「悪魔という存在は人間にとってとても都合が良い。
何か悪いことがあれば悪魔のせいにできるし、悪事を侵した人間も魔が差した。
悪魔が囁いた。と言えばそれも悪魔のせいになる。
例え、それが自分自身が招いた事であっても。悪魔は人間にとっての恰好の逃げ道なんですよ」
「黙れ!」
「だから、あなたがあの兄弟を殺した原因を悪魔である奥村君のせいにしても
それはとても自然なことだ。だって貴方は―――人間なんですから」
兄さんがいなければ。
「この世界は、あなたの望みでこうなった」
ただの喧嘩の延長だったのに、世界は雪男の望むほうへ変貌したと言いたいのか。
「僕が望んだから、兄さんが記憶から消えたと?」
「ただの人間にそれができるとでも?」
「じゃあ貴方が?」
「私に何の得がある」
「じゃあ誰が・・・」
「いるじゃないですか。
ここは悪魔の時間。魔神は眠り、神が目覚めるまでの間。
魔神の炎を継いだ、物質界で唯一の存在が。その意志が、この世界を変貌させた。」
悪魔の時間は、世界が壊れないように悪魔よりも神の意志が優先される。
しかし、人間よりも悪魔の意志が優先されるようにできている。
だからこそ、神は協定と天罰を作った。しかし、魔神が眠り、神も目覚めない中。
力あるものが「あること」望み、世界は変貌した。
ここは悪魔の時間だから。
「まさか・・・」
雪男の手は震えていた。
自分が言ってしまった言葉を反芻する。
兄さんがいなければ、僕は祓魔師にもなっていなかった。
今頃医者になるために勉強をしていただろうね。
それに、兄はなんと答えた?
「そうだな」
この一言で、世界は変わった。
人は奥村燐を忘れ、いなかったことになった。
でもこれは兄が望んだことじゃない。
僕が望んだことを兄が叶えてしまった。
じゃあ、この世界は。
「この世界は、貴方にとって居心地がよかったでしょう?奥村先生」
僕の為に、兄さんが作った。
兄さんがいない世界だった。
それを僕は、確かに心地良いと感じていたんだ。