青祓のネタ庫
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最近、兄の様子が変だと雪男は思っている。
元気そうにしているのに、ふいにどこか遠くを見ている時がある。
そんな時、兄はここにはいないと雪男は強く感じた。
どこを見ているの、どこに行きたいの。
兄さんがいるべき場所はここでしょう。
そんな遠くにいかないでよ。
雪男はそう思いながらも、それを伝えたりはしない。
言ってしまえば、雪男が燐に甘えているという証拠になってしまう。
自分から離れて欲しくないと。
自分のそばから離れないで欲しいと。
なんという身勝手な欲求だろうか。ほの暗い気持ちが心の隅で疼いている。
小さな頃ならいざ知らず。今の雪男は燐に甘えてなどいられない。
守るべき対象に自分が甘えているなど、許されるはずもない。
ただでさえ、燐の周囲の状況は刻一刻と変化しているのだ。
わずかの油断が、そのまま燐の命を危険にさらしてしまうことになる。
そうなれば雪男は自分が許せない。
「でも、最近の兄さん少し変だな」
昼休憩の時もそうだった。
女子に囲まれて身動きの取れない雪男を置いて、燐はどこかへと消えていった。
雪男は、朝燐からお弁当を貰っていなかった。
わざわざ届けに来てくれたのか。
そう期待していたのに、女子を撒いた時には燐はおらず、昼休憩も残り少なくなってきていた。
雪男は仕方なく、購買で残り物のパンを買っておいた。
もし燐に出会えて、お弁当をゲットできても、パンとお弁当両方を食べきれる自信はある。
育ち盛りだからだろうか、胃は燐のおいしいお弁当から、大量生産のパンまで受け止めてくれる。
もちろん、一番は兄の食事だが。
空腹のまま授業を受けるのも寂しいので、ここは腹の虫に従った。
周囲の女子は手作りのお弁当を渡してくれるが、雪男はそれを食べるつもりは毛頭ない。
一度食べてしまえば、ずるずると周囲からの貰いものを受けてしまうことになる。
それよりは、小さな頃から慣れ親しんだ兄の料理の方が何倍だって欲しい。
いつだって、どんな時にだって雪男のためを思って作ってくれたものを、雪男は無駄にしたくない。
燐の姿を探している最中でも、思い出しておなかがすいてきた。
パンで誤魔化したとは言え、お腹はやはり燐のお弁当が恋しいようだ。
昼休みが終わりに差し掛かった頃に、雪男はようやく燐の姿を見つけた。
「兄さん!」
呼ばれて、燐は振り返る。その顔はふつうのはずだった。
しかし、雪男にはなぜだかとても不自然に思えた。
まるで、何かに耐えるかのような表情に見えた。
朝の姿と差異はないか、瞬間的に探してしまったが燐はそんな様子をすぐになくして雪男にいつもの通り話しかける。
「雪男、どうした?」
不自然さを取り払った笑顔だった。
雪男は疑問に思いながらも、先に用件を告げる。
「さっき、教室まで来てくれたでしょう。ごめんね、手間かけさせて」
「いいよ、別に特に用事があったわけじゃねーし」
「え?そうなの?じゃあ今日僕のお弁当ないの?」
「悪いな、朝忙しくて作ってられなかったんだ。明日は作ってやるからさ」
燐はそう言うと、教室に向かって歩きだした。
なぜだろう、違和感がちくりちくりと雪男の疑問を刺激する。
普通科と特進科は階が別だが、途中までは一緒だ。
雪男は燐に続いて歩き出す。雪男は変だな。と思う。
燐が教室に来たときには、確かにお弁当の包みらしきものを手に持っていたのに。
雪男は何気なく、後ろを振り返った。
廊下の先の方にピンク色の頭が見えた。目の悪い雪男でもわかる派手な色合いだ。
そんな色の頭をしている人物は一人しかいない。
でも、彼の周囲にいつもいる勝呂や子猫丸はいなかった。
「・・・志摩君?」
思わず漏れた言葉を聞いた人物はいなかった。
別に、あの三人はいつも三人一緒に行動しているわけではないだろう。
その片割れがいたからといって、なにかがあったわけでもない。
雪男は特に気にすることなく、前を向く。
後ろに気を取られていたせいか、兄とは距離ができてしまう。
いつもだったら、自分にだけは作ってくれていたのに。
今日に限ってどうしたのだろう。
雪男は偶然だろう。と自分に思いこませて話しかける。
「兄さんのお弁当がなくて残念だ」
「別に、俺のじゃなくってもいいだろ。お前モテるんだし」
暗に、ないなら女の子が作ったやつを食べればいいと言われたようで、腹が立った。
女の子にモテる。
だけならいいが、あの手この手の攻めをみせる女子のやり方に正直雪男は引いている。
好意も度が過ぎれば迷惑だ。
好きではないものにいくらモテたって、しょうがないと雪男は思っている。
それよりは自分の心の中心においている人がかけてくれる何気ない言葉の方が、何倍も雪男の心を動かすのだ。
雪男の口は、腹いせのように言葉を放つ。
「僕は、兄さんの作ったものが好きなんだよ」
いいわけのような言葉で、好意を隠した言い方をするのが雪男の癖になっていた。
そうして兄の反応を試しているのだから、我ながら最悪のやり方だと思う。
別れ際に告げた一言。
聞こえなかったふりをして。
燐は雪男の言葉に返事を返さないまま、足早に去っていった。
「兄さん・・・?」
おかしい。おかしい。おかしい。
なにかがおかしい。
でも、その答えを知ってしまえばなにかが壊れてしまうと本能が警鐘を鳴らす。
どうして、僕を避けるの。
遠ざかる兄の背中を見て、雪男はなぜだか、やけに不安になった。
兄に疑問を投げるのは簡単だ。
でも、そうすれば兄の存在がもっと遠ざかる気がする。
距離が空いたのはいつからだろう。
小さな頃とは違うこともわかっている。
中学生時代はすれ違っていた。
だが、決定的なのは、春以降。
兄が悪魔として目覚めた時から、すべてが変わっていった。それでも。
「それでも、僕は・・・兄さんの事が好きなんだよ」
そのことを、燐はこれっぽっちも知らないのだ。
雪男がぽつりとつぶやいた言葉の先。
背後から、奥村君。と声をかけられた。
まさか、人がいるとは思わなくて、雪男は動揺した。聞かれてしまっただろうか。
いや、小声だし、独り言だったし。言い訳が頭の中を巡る。
しかし、雪男に声をかけた女子生徒は雪男の様子を気にかける様子はない。
聞こえていなかったようだ。
女子生徒は、雪男に申し訳なさそうな顔で告げる。
「奥村君、お兄さんの事ごめんなさい。私・・・」
「え?何のことです?」
唐突に兄の話題が出て、雪男は驚いた。
燐は学校の方では不良みたいだと言われて、あまり積極的にクラスに関わっていないようだったのに。
女子生徒は雪男の言葉に首をかしげながら、話を続ける。
「さっきお兄さんと話していたから、てっきりもう知ってるのかと思ったの」
女子生徒は、昼休憩中の出来事を雪男に伝えた。
自分を守って野球のボールが当たってしまったことを、申し訳なく思っていると。
そして、感謝していると。
もしも傷を作ってしまったなら、申し訳なかった。と伝えて欲しいと雪男に告げる。
雪男は、話を聞いてどんどん自分の心が冷えていくことが理解できた。
野球のボールは、打ち所が悪ければ骨を折ってしまうことだってあるのだ。
あの不自然に感じた違和感の正体を知って、雪男は不快感を隠せない。
なんで話してくれなかったんだよ。
それを、燐に隠し事をしてきた雪男が言う資格はないことはわかっている。
でも、納得はできない。
そして、雪男は自分でも意識せずに嘘と建前を口にした。
「怪我は大丈夫だったんでしょう。兄は頑丈ですからね。
さっき自分でお昼を食べたようですし。気にしなくていいですよ」
「よかった。志摩君がお兄さんのこと心配そうに見てたから、余計に気になったの。
二人とも、お昼は一緒にお弁当食べていたようだし。大丈夫だったんだね。
ちょっと気が楽になった。ありがとう、奥村君」
女子生徒はそれだけ言って、去っていった。
お礼と謝罪を告げたかっただけなのだろう。
そのおかげで、ひっかかりが解けた。疑問の答えは他人が持っていた。
そして、女子生徒の言葉で雪男は燐の嘘を知った。
志摩君といたんだ。
なんで、それを隠すのさ。
彼は知っていたんだろう。
知らないのは僕だけか。
「なんで、嘘つくんだよ・・・」
予鈴が鳴っている、もう戻らなければまずいだろう。
雪男は燐とは違う教室へ続く道を駆けた。
こんな時、優等生を通している自分がひどく不自由に思う。
授業をさぼって、燐を探して問いつめたかった。
しかし現実には授業をさぼることも、燐を探すこともできない自分を知っているからこそ夢想した。
きっと、授業をサボれば教室にいるクラスメイトから噂がたつだろう。
その噂は周り回って燐の耳に入らないとも限らない。
雪男のことを一番に気にするのは、雪男ではない。燐の方だ。
昼休憩の出来事も、当人からではなく他人からの伝達の方が早かった。
そうして先の先まで考えて、今という時間を未来の仮定に拘束される。
こんな風だから、燐は雪男になにも話さないのだろうか。
そう思うと、また気分が重くなる。
この心に沈む想いを言えばいいのだと、本能が囁く。
しかし、言えばもう今までのようにはいられないと理性が止める。
この気持ちの終着点をどこに決めるのか。
それはまだ、雪男には決めることができない。
「言ったら、いけないんだ・・・」
好きだというたびに歪む燐の顔を思うと、ひどく心がささくれたった。
逃げ込んだ空き教室で、燐が血を吐いていることを雪男は知らない。
奥村雪男はイケメンである。
勉強ができて、スポーツもできて、名門の正十字学園にはトップで合格。
挙げ句の果てに、史上最年少で祓魔師の資格をとって、将来の夢は医者。
これほどまでに完璧な存在を、年頃の女の子が放って置くわけもない。
いつも、雪男の周りには人だかりができていた。
燐は、それを遠くから見つめていつも声をかけずに立ち去っている。
悪魔の世界。祓魔師とは関係のない時間は雪男にとって貴重な時間だ。
塾の講師も兼任する雪男は休む時間がない。
せめて、高校の時くらい自由にすればいい。燐はそう思っていた。
持っていた二人分のお弁当。
雪男に渡せなかったそれを持って燐は中庭に向かう。
たぶん、学校に忍び込んだクロがまたご飯をねだりに来るだろう。
雪男のお弁当は、クロのお弁当に早変わりだ。
雪男のことだから、ご飯がなければ食堂で食べるなりするだろう。
歩いていると、危ない。という声が聞こえてきた。
声の方向を見れば、野球のボールが中庭を歩いている女子生徒に向かって飛んできていた。
まずい。燐は思うより早く駆けだしていた。
女子生徒の前に燐が立ちふさがる。
どか、という鈍い音がして燐の腕に野球ボールが当たった。これは痛い。
燐が腕を押さえていると、庇われた女子生徒が不安そうな顔で燐を見た。
大丈夫ですか、すみません、と何度も頭を下げてくる。
「大丈夫だ、気にすんな」
燐は女子生徒に話しかけて、すぐそばに落ちたボールを拾う。
ボールを駆け寄ってくる男子生徒に渡した。
どうやら、体育の授業中誤ってこちらの方向へ投げてしまったらしい。
男子生徒は燐と女子生徒に何度も謝った。
野球のボールは硬球だ。当たり所が悪ければ、骨にヒビくらい簡単に入る。
女の子に当たっていればどうなっていただろう。間に合ってよかった。
腕はずきりと痛むが、顔には出さなかった。
燐は傷のことを言われる前に、さっさと立ち去ることにする。
男子生徒には一応、気をつけろよ。とだけ言っておいた。
女子生徒は、燐の背中に向かってありがとうございました。とつぶやいたのが聞こえた。
それがうれしい。でも、燐は駆け足になってその場を立ち去る。
傷については、ばれてはいないはずだ。燐はそのことを心配していた。
燐は人がいない場所を見つけて、怪我をした腕を庇いながら中庭の木陰に腰掛けた。
さわさわとした気持ちのいい風が揺れる。
燐は片手で自分のお弁当を開いて、食べ始めた。昼休憩も時間が限られる。
怪我をしていて食べにくいが、仕方ない。
自分で作ったものだから、まぁ味についてはわかっている。
たまには自分で作ったもの以外のものも食べたいと思わないでもないが、
ここはお金のない高校生。我慢するしかない。
燐が黙々とご飯を食べていると、草むらから黒いネコが現れた。
にゃーと鳴く声に、燐が笑って答える。
「クロ、やっぱ来たか」
『おれもごはんたべたい!』
「はいはい、この魚の天ぷらやるよ」
人間にとっては、なにを言っているかわからないクロの言葉も、燐にはわかる。
春に悪魔の力に目覚めて以降、燐には今までにない力が宿った。
それは悪魔との会話だったり、青い炎を使える能力だったり様々だ。
人にはない治癒能力もその一種。怪我をしても、すぐに治る。
だから今までみたいに、雪男に手当をしてもらわなくても大丈夫だ。
燐は、制服をめくって腕を見た。そこには青い痣がある。
たぶん、痛みからしてヒビくらいは入っていたかもしれない。
だが、時間がたつにつれて痛みも引いてくる。
打ち身になったそれも、今はもうだいぶ腫れが引いている。
昼休憩が終わる頃には完全に治っているだろう。
人にはあり得ないほどの治癒力。
この力は祓魔師を目指す身としては便利だが、日常生活ではかなり危うい。
一般人とは。人とは違う悪魔の身であることがバレてしまわないとも限らない。
燐は幼い頃から自分が人とは違うことを自覚していた。
でも、信じたくなかった心だって確かにあったのだ。
自分は人間ではない。雪男とも、神父とも違う存在だと。
怪我をした燐を雪男はいつも手当してくれた。
うっとおしい、放っておいてくれとは思わなかった。
雪男はやさしい。だから、燐のことも気にかけてくれていた。
いつだって、燐の傷を治すのは雪男だった。
しかしそれも、今は過去の話。
本音を言えば、そのことが少し寂しい。
喧嘩に明け暮れて、修道院に戻った朝。文句をいう神父と手当をする雪男。
雪男に手当されていると、ああ家に戻ってきたんだなぁと実感できた。
思い出したその風景は遠い昔の話のようだ。神父は死に、燐は悪魔になった。
悪魔に、手当は必要ない。
春先に言われた雪男の言葉を思い出す。
死んでくれ。
今でも時々思い出す。その言葉。
しかし、胸はあまり痛まない。
「なんでだろ、俺あんま長生きできない気がするんだよな」
それは漠然とだが燐の心に宿る思いだった。
別に早死にする気は毛頭ないが、それでもそう思ってしまう自分がいる。
放っておいても治る傷を、燐は雪男に話さない。
ずきりと痛む傷も、燐にとっては慣れた痛みだ。
雪男のお弁当から、おかずを一品取り出してクロにやる。
クロは心配そうに燐を見た。
『りん、うでいたいのか?いつもとちがう』
「ああ、大丈夫だって」
クロはくんくんと燐の腕を匂った。
舐めてくれようとしたのだろう、手に当たる猫のざらざらとした舌がくすぐったかった。
燐は、弁当のおかずを取って、またクロの口元に投げてやった。
クロは燐のことを心配そうにみるが、食欲が勝ったのだろう。
はふはふと美味しそうにおかずを食べた。
こういう素直なところがかわいいと思う。
燐もクロに続いて、おかずを口にした。
弁当箱のサイズをみて、やっぱりもっと量を増やすべきかなと考える。
二人は高校生で成長期真っ直中。いつもおなかが空いているような状態に等しい。
燐ですらそうなのだ。長身の雪男はもっと量がいるだろう。
栄養面は燐がカバーしているからいいとして、今度からごはんの量は増やしてやるべきかもしれない。
もう一品。と思っておかずを箸で摘む。
ずきん、と腕が痛んだ。
思わず走った痛みに、ぽろりとおかずが地面に転がった。
腕を押さえてうずくまる燐。
りん、りん。とクロの呼ぶ声の他に、もう一人。声が聞こえる。
燐は肩を引っ張られた。その人物と目があう。
怪我をした燐に向かって、その人物は実に場違いな台詞を吐いた。
「奥村君、みーつけた」
「志摩・・・ッ」
志摩はにやりと笑った。
燐は傷を押さえていた腕を離すが、もう遅い。
志摩は燐の右手を持って、袖を捲り上げた。腕には青い痣ができている。
志摩は眉をしかめながら燐に言った。
「奥村君、これ結構ひどいやん」
「さっきよりマシだっての。触んな。痛い」
「女の子庇って怪我するとか、俺の専売特許やで。マネしたらあかんよ。キャラ被ってまうわ」
「誰の専売特許だって?白々しいなおい。俺とお前のどこに共通点が・・・ってお前まさか」
燐が嫌な顔をして志摩に問うと、志摩はピースサインをした。
そして、携帯を取り出して画面を見せる。
そこには、燐の腕に野球ボールが当たるシーンが撮影されていた。
よく、こんな瞬間が撮れたな。
お前、もしかして坊主よりパパラッチの方が才能あるんじゃないのか。
そんな思いが頭をよぎるような写真だった。
燐は携帯電話を取り上げようとするが、志摩はそれよりも早くポケットにしまう。
志摩の携帯には、塾生のアドレスが入っている。
当然ながら講師の雪男のも。
この携帯に画像がある限り、雪男に送られないとも限らない。
志摩は、今燐を強請っているのだ。
「ふふふ、さあて口止め料をもらわなあかんな奥村君」
「この悪徳坊主、俺になにを要求するつもりだ。金はない。あるのはクロとこの俺だけだ」
「難しいことやあらへん、そのお弁当ちょうだい」
「おまえ、お昼また忘れたのかよ・・・俺にたかるな」
「ええやん、奥村君のお弁当おいしいんやもん。なーなーええやろー?」
「・・・ったくしょーがねーな」
自分の作った物を人に食べてもらうのはやっぱり燐としてもうれしい。
雪男に渡せなかったお弁当。
クロにやってしまった分を引いても、まだ余りある。
燐は雪男の弁当を志摩にやろうとした。しかし、志摩はそれを手で制す。
「俺、こっちのお弁当がいい」
「はぁ?俺の食いかけだぞ」
「だって、そっちのお弁当食べたらなに言われるかわからんもん」
志摩はよくわからないことをいいながら、燐のお弁当を取り上げておかずを口にいれた。
相変わらずおいしいわーと幸せそうな声で志摩は言う。
燐は特になにも考えずに、雪男のお弁当をつついた。
食いかけがいいなんて変な奴だ。
志摩と話していたおかげだろうか、腕の痛みも気にならなくなってきた。
お弁当を口に入れた志摩は、燐の腕をとって頭上に上げさせるようにした。
「お弁当のお礼ー。いたいのいたいの飛んでいけー」
「はは・・・飛んでけー」
燐もつられて笑った。なぜだろう。痛みは、もうなくなっていた。
燐は、本当はちょっと寂しかったのかもしれない。と自分の心に気づく。
雪男に弁当を渡せなくて、せっかく作ったのに。という気持ちもあった。
でも、今は志摩が食べて、笑ってくれている。それでいいか、と思った。
志摩は、燐に言った。
「俺、奥村君のこと好きやで」
好きという言葉で、あの男子寮での出来事を思い出す。
志摩に燐の致死節がバレたあのときから、志摩は燐に好きという言葉をささやいている。
それは、たとえばこんな昼休憩の時だったり、放課後の時だったり様々だ。
志摩は燐に好きだという。
その言葉は雪男が放つものとは違い、燐の体を苛んだりはしない。
それがわかっているから、燐も志摩に冗談めかして返すのだ。
「・・・ふーん、そっか」
「ほんまやで」
「なんかさぁ」
「なに?」
「俺あんま長生きできない気がする」
「俺の愛で?」
「窒息って?するか馬鹿」
「ひどいわぁ」
二人で木陰に座ったまま、話した。
その好きという言葉の意味に裏があることを、もう二人は知っている。
志摩が好きだといえるのは、燐が志摩のことを好きではないと知っているから。
本当に好きな人からの言葉は、燐は聞くことができない。
だから志摩は何度だって燐に好きだといってしまうのだ。
昼休憩が終われば、二人は別々の教室に帰ることになる。
げた箱で別れて、そのまま何事もなかったかのように日常に戻る。
志摩が背後を振り向けば、そこには女子から逃げてきた弟を迎える燐の姿があった。
それをはらはらとした目で見ながら、志摩は見送るしかない。
燐は雪男に、決して腕の怪我のことを言わないだろう。
そして、自分の致死節のことも。
雪男がなにかの拍子に好きだと言えば、それはまた燐の負担になってしまう。
彼が傷つかなければいいと志摩は思う。
でも同時に自分の言葉で彼が苛まれればいいとも思う。
彼が血を吐くことは、己を好きだという証明になるのだから。
「なんや、奥村君。そら長生きできんて思うわけやな」
二人の祓魔師に致死節を握られている悪魔は、なるほど。
そう思うのも無理はない。
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「・・・うっ」
燐が目を覚ますと、畳のにおいがした。視線の先には木目の天井がある。
体には薄い布団がかけられていることから、布団に寝かされていたようだ。
不浄王を倒した後、雪男に殴られて、そのまま倒れ込んでしまった。
あんな気絶するように倒れるなんて初めてだ。
意識を失う前に見た、慌てた雪男の表情を思い出して少し笑う。
頬の痛みはもうなくなっていた。
自分の状況がわかっているのか。と雪男は燐に怒っていた。
燐は、自分のことを。自分が魔神の落胤だと認めることが怖かった。
でも、自分のことから。力から逃げてはいけないのだと知った。
今回のことで、燃やし分けることには自信がついた。
みんなとも仲直りができた。
雪男に会うとまた怒られそうで少し怖いが、終わったのだ。
燐は安心したようにふう、と一息ついた。
視線を横に向ければ、お盆の上に乗せられた水差しとコップがあった。
のどが渇いたのを自覚して、その水差しに手を伸ばす。
が、手がうまく動かずに、水差しを倒してしまった。
かしゃん、という音が部屋に響く。
倒れた水差しから水が盆の上に移っていくのをみて、燐は慌てて起きあがろうとした。
しかし、起きあがる勢いはあったものの、また布団の上に逆戻りしてしまう。
腕だけは伸ばして、どうにか水差しだけは元に戻すことができた。
よかった。畳を濡らすことだけは阻止できた。
しかし、力尽きてその場に腕が落ちてしまう。
動いては倒れ込むその姿は、まるで、地面の上でのたうち回る蝉のような動きだった。
「な、なんだこれ・・・体が動かねぇ・・・」
力が抜けて、ヘたり込んでいるという感覚だ。
まるで、夏場にプールで泳いだ後のような。
燐が起きあがろうともがいていると、どたどたという床を駆ける音が聞こえた。
かと思うと、一番近くの襖が開いた。
視線が合う。そこには自分を殴って怒って、
おそらく一番心配をかけただろう弟がいた。
「ゆき、お・・・」
「兄さん、よかった目が覚めたんだ」
襖を閉めて、雪男は燐に駆け寄った。
気絶する前に殴ってダメージを与えたのは雪男であるので、やはり気が気ではなかったのだろう。
雪男は布団で虫のように動く燐に話しかける。
「どうしたの?まさか、起きあがれないの?」
「そのまさかだ。力が抜けて動けねー」
「え、ちょ、大丈夫なの?見せて」
雪男は慌てて燐の体を抱き起こす。
見れば、水が盆の上にこぼれていることに気づいた。
膝を立てて、燐の腰に挟み込んで、肩を抱いて姿勢を支えた。
雪男は片手でコップに水を注ぐと、燐の口元に持っていった。
「飲める?」
コップを傾ければ、燐はのどを動かして飲んでいく。
すべてを飲み終わるのを見て、雪男は安心した。
ものが飲み込めるなら、回復は早いだろう。
雪男は燐の体を起こしたまま、体に手を這わせた。
足から腰まで触って、燐に問いかける。
「感覚ある?」
「くすぐってぇ」
「動かせる?」
「なんとか」
足は先ほどよりは動いたが、まだ全快というわけにはいかないようだ。
山を覆い尽くすほどの力を使ったのだ。
燐の体になんらかの異変が出てもおかしくはない。
おそらくは炎の使いすぎで、体がついていかなかったのだろう。
雪男は燐のおでこに手をやって、体温を計る。
「体温計がないから正確ではないけど、熱はなさそうだね」
「たぶん大丈夫だって。おおげさだよな」
「そう、ならいいや」
雪男は燐を支えていた膝をよければ、燐はあっけなく布団に沈み込む。
布団があるといっても受け身がとれないので、背中を打って痛い。
燐が、雪男をにらみつける。
「おま、兄ちゃんに向かってなんてことを・・・」
「そう?僕はまだ兄さんを100万回くらい殴り倒したいくらいだけどね」
倒れた燐の上に、雪男がのしかかる。視線が絡んだ。
雪男は怒っていた。
燐が勝手に独居房を抜け出したことも、塾生と一緒に洛北へ行ったことも。
不浄王を倒したことも。全部。許せなかった。
たった一人の兄が処刑されると知って、雪男がどれだけ衝撃を受けたか知りもしないで。
燐は一人で歩き出す。
燐の肩を押さえつけて、雪男はささやいた。
「知ってる?兄さんの処刑は、まだ撤回されていない。現時点では保留状態だ。兄さんは、まだ囚人と一緒だ」
死刑執行を待つような状態で、自分の身を危険に晒して仲間と友を救うために走った。
そんな燐のことが心配で、不安で、うらやましくて、許せなくて、でも好きで。
死んでほしくなかった。
雪男は誰よりも近くで見てきたからこそ、燐に対しての思いが深い。
今回、藤堂は雪男のその部分をついてきた。
燐は、言っていた。ずっと魔神の息子だと認めることが怖かったと。
雪男も怖かった、自分の中の黒い部分を認めることが。
今も、その言葉は雪男の心に陰を落としている。
でも、それはきっと誰にだってあるものだ。雪男にも、燐にも。みんなにも。
雪男は燐の頬に手を添える。燐は雪男の様子をじっとみているだけだ。
燐がいなくなれば、雪男は自由になれたのかもしれない。
そう考えたことだってあった。
でも、いざ亡くすことを考えたら、怖くて仕方がない。
今だって、雪男は怖い。
家族がいなくなることが、神父が死んだ春先のような消失感を味わうのだ。
そして、今度こそ雪男はひとりになる。
兄を亡くして、自分だけが生きる人生が始まるのだ。
そうなったら、きっと雪男は自分が許せない。
どこにもいない燐の影を思いながら、雪男は生きたくない。
隣で歩いて生きていきたい。
うらやましくても、憎くても、むかついても、離れることはやはりできない。
だって、自分たちは双子なのだから。
燐は、動かない腕を伸ばして雪男の頭を撫でた。
動かない体はつらいだろうに、それだけでも雪男を慰めるように。
「頼むから、おとなしくしててよ兄さん」
「大丈夫だって、俺は殺されたりなんかしねーよ」
「実際、殺されそうじゃないか。今だって」
「平気だって」
「僕が平気じゃない、謝ってよ。僕に」
「えー、俺悪いことしてねーもん」
「・・・本当、自覚ないんだね。殴りたいよ」
「ひどい奴だな」
「どっちがだよ」
雪男は燐から離れた。
燐はまだ自分の意志では起きれないことで、ひとまずどこかに逃げ出すことはないと
安心したのだろう。
燐は雪男に問いかける。
「なあ、いつ学園に帰るんだ?」
「明日だよ、兄さん以外の人は事後処理してる。
今日は旅館を貸りてるけど、いつまでもいられないしね。
また来るけど、動けるようになったら教えて」
「わかった」
「また動けないようにするから」
「絶対教えねーわ」
燐の体に布団をかけると、動けないことを確信してから雪男は部屋を出ていった。
一人残された燐は、ため息をついた。
暇だ。部屋の外を見れば、もう日も高い。
朝方に倒れたので、結構な時間寝ていたのだろう。
寝ようにも、目は冴えている、体が動かないだけだ。
燐の意識は外へと向いていた。
雪男が知ればまた怒るだろうが、燐は勝呂との約束を果たしたかった。
「京都タワー、行きてぇな・・・」
勝って、帰れた。誘えば、みんなも来てくれるかな。
体が動けば、すぐにでもみんなのところへ行くのに。
燐がそう思っていると、庭の方で、影が見えた。
不思議に思っていると、縁側に続く襖に人影が見える。
少しだけ隙間が空くと、視線が絡んだ。
燐が起きているのを確認して、その人物は襖を開けた。
「勝呂、よかった無事だったんだな!」
「・・・アホ、人の心配しとる場合か」
勝呂は燐の側に来ると、燐の顔色を確認した。
ふつうなら起きあがるであろう燐が起きあがらないことを不審に思ったのか、
勝呂が燐に話しかける。
「どないしたんや」
「いや、炎使いすぎたせいか体が動かねーんだ」
「なんやて!?ああ、くそ・・・ほんま人の心配しとる場合やないやろ!」
「大丈夫だぞ、体動かないだけだし、時間たてば治るだろ」
「平気なんか?」
「おう、それ以外は本当に大丈夫だぞ」
勝呂は再度燐の顔色が悪くないのを確かめると、布団をはいだ。
勝呂が燐の着ていた浴衣に手をかける。
その行為に、燐が驚いた。なにをする気だろう。
「勝呂、おい!なにやって・・・」
「ほんまお前体動かんのやな、ええわ俺が全部やったるわ」
浴衣を剥がれて、アンダー一枚にされてしまう。勝呂が、燐の体を転がした。
「勝呂、なにすんだよ!」
「このままやったら間にあわへん、覚悟決めろや」
「痛ぇ!!ちょ、どこ触ってんだ!」
「俺かて初めてなんや、大人しくしとれ!」
勝呂は燐に手を出しながら、携帯電話を取り出した。
雪男が廊下を歩いていると、廊下の先から誰かが駆けてきた。
見れば、塾生の子猫丸が慌てた様子で走ってきていた。なにかあったのだろうか。
「先生!ここにおったんですか!」
「三輪君、どうしたんですか。そんなに慌てて」
「ぼ、僕。奥村君の様子が気になって部屋に行ったんです、そしたら!そしたら!!」
「な、なにがあったんですか!?」
「とにかく来てください!こっちです!」
子猫丸に導かれて、雪男は走った。燐の部屋ではない。
玄関から出て、外に向かう。
「あそこです!!」
子猫丸が指さした先には。
五十メートル先くらいだろうか。雪男は目をこらして確認した。
間違いない。あれは。
「兄さん!!」
誰かにおんぶされて、外に連れ出されていた燐がいた。
浴衣姿ではなく、制服姿だった。
勝呂に着替えさせられたことがショックだったのか心なしか、ぐったりとしている。
その様子を見た雪男は、すぐさま銃を取り出そうとしたが、子猫丸に止められる。
「あきません!坊と奥村君に当たってまう!銃はあきません先生!」
「え・・・ちょ、勝呂君!?なにしてるんですか!!」
勝呂は子猫丸と雪男の姿を確認すると、燐を連れて走っていく。
雪男も兄を連れ出されて放っておくわけにもいかず、走り出す。
子猫丸もそれに続いた。塾生と講師の追いかけっこが始まった。
一定の距離を置いて、そのまま勝呂は逃げ続けた。
流石に人一人背負って走るのは疲れる。
息があがりながらも、勝呂は燐を落とさなかった。
「おい勝呂、降ろしてもいいぞ!雪男がすごい形相でこっち来てる!」
「あかん!俺は約束は守る男や!絶対にやったる!」
「約束?」
「一緒に、京都タワー行く、て!いうたやろ!!」
不浄王に追いつめられながらも、燐が言った一言。
その空元気に、勝呂は励まされた。
そして、燐は言葉通りに勝って帰ってきた。今度は自分が答える番だ。
勝呂は燐を連れて京都タワーへ行く道を走った。
地元の人間なので、迷うことはない。
明日へは、学園へ帰ってしまう。
だから、今日のうちに、なんとしても京都タワーへ行くつもりだった。
燐との約束を守るために。
そして、一本道に出た先で声が聞こえてきた。
「おーい!こっちですー!杜山さんと出雲ちゃんも呼んでますよー!」
ピンク頭の志摩を目印に、後ろにしえみと出雲がいた。
燐はその様子を見て、気づく。
「みんな、来てくれたのか」
「当たり前や、先生の場合は言うても来てくれそうになかったからな、お前をおとりに来てもろた」
「ははは・・・!すげぇな勝呂!」
この一本道を行けば、京都タワーへいける。
その道を、勝呂に背負われて、雪男に追いかけられて、みんなで京都タワーへの道を駆けている。
ここへ来た当初は、一人だった。
でも、今はみんなといれる。
まだ、自分がこれからなにをすべきかはわからない。
なんのために生まれてきたのかもわからない。
でも、これだけは言える。
みんなと仲直りできて、本当によかった。
燐は、叫んだ。
「勝呂ー!ありがとな!!」
「アホ、礼いうんは俺の方や!!ありがとうな!」
たぶん、雪男には後でこっぴどく怒られるだろうけど。
あの塔の下で、友達が待っている。
びゅうびゅうと吹きすさぶ雪の勢いに燐は眉をしかめた。
候補生の任務で雪山に入ることになったのだが、
途中で天候が変わってしまったのだ。
雪山に入るということで、防寒装備はしているが、
このまま吹雪にまみれているとさすがにまずい。
今回の任務では、雪山にしかない雪の結晶を探すために来た。
普通の雪の結晶とは違い、手のひらサイズで、なおかつ溶けない。
魔力が集結した雪の結晶だ。
滅多にとれない希少な結晶らしく悪魔薬学では薬を作る材料として珍重されている。
雪男も、本では知っているが実際に見たことはないらしく、
この結晶採取の話が出た時には目に見えて興奮しているのが燐にはわかった。
雪男は悪魔薬学の天才だ。
燐を守る為に祓魔師の資格を取ったが、薬学が好きなのは雪男の性だろう。
将来医者を目指すだけあって、こういった分野の話になると雪男は目を輝かせる。
そして、弟の好きなもの。といったらあげたくなるのが兄としての性だろう。
燐は、この結晶を見つけたら一番先に雪男にみせてやりたかった。
「ふふふ、どうだ弟よ!お前が欲しがっていた結晶を俺が見つけたんだぜ!」
「うわあすごい、兄さんそれ見せて!」
そんなやりとりを夢想した燐は、俄然今回の任務に対してやる気満々だった。
普段は雪男に小言やため息ばかりつかせているのだ。
たまには、兄としての威厳を見せてやりたい。
雪男とシュラを筆頭に、塾生と隊を組んでいた時のこと。
山の上から、雪玉が転がってきた。落石ならぬ、落雪玉。
それはまっすぐに燐達めがけて転がってきていた。
「右に寄れ!」
先頭にいたシュラが、すぐさま号令をかけて隊列移動で雪玉を避けようとした。
しかし、ここは雪山だ。
右に避けようとしても、雪に足を取られてすぐに体は移動できない。
雪玉がこのまま直撃すれば、人間である雪男やシュラ。
塾のみんなが危険に晒される。
決心した燐は、青い炎を纏って雪玉に体当たりした。
普通の雪玉なら、青い炎の熱で溶かされ、砕けただろう。
しかし、予想に反して、雪玉から手が生えてきた。
手は、燐を抱きしめて離さない。
「雪玉・・・じゃない!スノーマンだ!燐離れろ!」
シュラが叫んだが、もう遅かった。
スノーマンに抱きしめられた燐は、転がるスノーマンもろとも崖下に転落した。
気がついた時には、周囲には誰もいなかった。
転落した際に燐の下敷きになっていたスノーマンは、砕けたせいか、
今や手のひらサイズの大きさまで縮んでいる。
スノーマンは悪魔だが、クロのように人間の言葉を解さなかった。
しかし、まるでついてこいとでも言うように雪道の先頭を歩き、
燐の方を振り返ってはついてきているかを確認している。
正直、このままついていっていいかはわからない。
でも一面銀世界のこの場所では、目印になるようなものなんてない。
燐は、スノーマンの導きに従うしかなかった。
「お前が転がってこなきゃー、こんなことにはなってねーんだぞ・・・」
にー?というグリーンマンと同じ鳴き声をあげながら、スノーマンは燐に返答した。
なにが言いたいのかよくわからん。
そのまま歩いていくと、雪の中に一点だけ黒いものがあるのが見えた。
スノーマンはそこをしきりに指さしている。燐は首を傾げながら黒い点を目指した。
びゅうと寒い風と雪が燐を苛む。
くしゃみをしながら、黒点に近づくと、どうも雪の中に穴が空いているようだ。
燐がつつくと、雪が崩れていった。洞窟のようだった。
「ここに入れってか?」
燐がスノーマンに問いかけると、スノーマンはこくりと頷いた。
どのみちこのままでは凍えて死んでしまう。
燐は意を決して洞窟の中に身を潜り込ませた。
ひやりとした感覚はするが、外に比べれば数段ましだ。
幾分暖かい場所を得たことで燐はほっとした。
落ち着いたところで、携帯電話を取り出す。
「・・・圏外か」
電波は雪で遮られている。このまま、雪がやむのを待つしかないか。
燐が思っていると、背後から殺気を感じた。
「誰だ!」
洞窟と同じ闇色が、燐に覆い被さった。
どさりと引き倒された燐に向けられたのは刃物だった。
それも、刀だ。鋭利な刃が首もとに向けられている。
のしかかっている人物の顔は暗いため見えにくい。
この人物がちょっとでも刀を動かせば、燐の首は切れる。
このまま死ぬわけにはいかない。燐は全身から炎を吹き出した。
青い輝きが、洞窟を照らす。
「どけよ!!!」
「く・・・ッ!」
その人物は燐から飛びのき、二人の間に距離ができる。
燐は青い炎を纏ったまま、その人物を観察した。
黒い祓魔師のコートに、刀。黒髪。瞳は赤く染まっていた。
「祓魔師・・・?」
燐が話しかけようとすると、その人物は刀を納めて、その場に座った。
どうも、体勢からいうと跪いているようだ。
「若君様とは知らず、無礼をしました。お許しを」
「は?」
若君?誰?俺のこと?祓魔師がなんで俺のことを?
ぽかんとする魔神の落胤と跪く祓魔師。
意味がわからない状況に、燐は青い炎を納めた。
洞窟の中が、再び暗闇に包まれる。
雪男は非常にいらいらしていた。
燐が無茶をするのはいつものことだが、今回も最悪の事態だ。
雪男達は今、非常時の避難場所に指定されている山小屋で暖をとっている。
騎士團指定の場所だけあって、山小屋の中に不自由はない。
問題は、メンバーが足りないことだ。
欠けた一人は。今どこにいるのだろうか。
窓の外を見ても、吹雪はまだ続いている。
先ほどよりは、ましにはなったが、人間が動くには危険だろう。
「兄さん・・・大丈夫かな」
「まさか、スノーマンが転がってくるとは思わなかったよな。
しかも燐を離さないとか、名前の通りまるでお前みたいな・・・」
「ちょっと黙って頂けますかシュラさん」
「いらいらしてもいいことねーぞ?燐のことだ。
炎でも纏って暖をとっていると信じようぜ。悪魔は人間よりも頑丈だ。
雪が止んだら、探しにいこう」
「・・・はい」
雪男はもう一度、窓の外を見た。
吹雪はまだ続いている。外に黒い点がちらりと見えた。
「気のせいかな?」
真っ白の雪の中の黒い点が、雪男は妙に気になった。
「へぇ、夜っていうのか」
燐は、洞窟に腰掛けて、横に座っている夜に話しかけた。
目の前には、たき火が焚いてある。
炎の色が青いので、燐が発火した炎の残り火で火種を作ったことがわかる。
「俺も悪魔ですが、祓魔師になったのはかなり前の話です。
こんな所で若君様に会うとは思ってもみなかったのですが」
「敬語やめろ。年上のくせに。なんか若君様って呼ばれるの気持ち悪ぃんだけど」
「悪魔にとっては共通の認識です・・・いや、怒るなって。
わかった、敬語やめるから」
「悪魔ってそういうもん?」
「そういうもんなの。たぶんスノーマンがお前を助けたのも、
若君だっていうのに気づいたからじゃないか」
「ふーん・・・なぁ」
「なんだ」
「なんでそんな距離空いてんだよ夜」
「いや、ちょっと近寄り難いというか・・・」
夜は、自分の身の上を話した。
夜は、祓魔の技術で悪魔討伐という仕事をやっているが、悪魔としては下級だ。
これはもう生まれ持ったことなので変えようがない。
つまり、燐には申し訳ないが魔神の炎は畏怖と恐怖の対象なのだ。
悪魔としての本能には逆らい難い。
「・・・なんだよ、せっかくお仲間に会えたと思ったのに」
燐がふてくされたように、膝に顔を埋めた。
燐の周囲には仲間がいてくれる。しかし、みんな人間だ。
弟である雪男もそうだ。悪魔で、人型で。祓魔師の夜。
燐の将来なりたい理想像みたいな存在が目の前にいる。
しかも、二人そろって遭難しかけていることまで同じだ。
仲良くしたいと思うのは、当然のことだろう。
夜は、青い炎のたき火をみた。手をかざせば暖かい。
隣に座っている燐は、上級悪魔が好むように下級の悪魔を殺害したりはしないだろう。
それはわかる。
ふてくされている姿は、子供そのものだ。
夜はため息をついて、燐の頭を撫でた。
そして、体を燐のそばに寄せる。
「寒いからな」
「・・・おう!」
燐はへへへ、とうれしそうに笑った。
目の前の青い炎は暖かい。二人は、吹雪が止むまでの間ずっと話し続けた。
眠れば、体温が奪われるという理由もあるが、
二人とも同族に会えた喜びというのがやはりある。
「夜も任務できたのか?」
「ああ、俺の所属は日本支部じゃないんだ。お前とは別の任務だよ」
内容までは、教えてくれなかった。極秘の任務なのだろう。
夜は、立ち上がって入り口を塞いでいた雪を取って外を見た。
吹雪はもうやんでいる。外に出ても大丈夫だろう。
「たぶんお前の仲間は山小屋に避難しているだろう。途中までなら、送ってやるよ」
「いいのか?・・・って、そうだ。まだ結晶見つけてないんだけど」
「なんだよ、そんなに弟に見せたかったのか?」
夜がからかったように言うと、燐は顔を赤く染めた。
「だって雪男見たいって言ってたし・・・やっぱ見せてーじゃんか」
「立派なお兄ちゃんだな」
「からかうなよ!」
「いや、褒めたんだよ」
夜は笑った。家族がいる。大切な者がある燐は、きっと大丈夫だろう。
自分がそうだったように。記憶の中の少女の姿を思い出して、そう思った。
「でも、今はお前の無事を知らせてやったほうが、喜ぶと思うぞ」
入り口の雪をすべて壊せば、外から光りがあふれてきた。
空は青く、太陽も照っている。もう荒れることもないだろう。
燐が洞窟の中の残り火を消そうと思い背後を振り返る。
すると、奥の方できらりと何かが反射したのが見えた。
「なんだ?」
燐が光りの方向へ向かうと、そこにはガラスのような欠片が転がっていた。
手に取ってみるとひんやりと冷たい。しかし、溶ける気配もない。
「ああ、それが雪の結晶だよ。よかったじゃないか派生場所を見つけたってことは、
調べれば定期的に取ることもできるかもしれないぞ」
「これがそうなのか!?やったー!!」
燐は、結晶を数個とってポケットの中に入れた。帰ったら雪男に見せよう。
うれしそうな燐に、夜も笑う。
「ほらいくぞ若君様」
「若君じゃねーし」
「はいはい」
外に出たら、スノーマンがいた。
吹雪のおかげで周囲に雪がついたのか、元の大きさまで膨れている。
そのままスノーマンに案内されながら、夜と燐は雪山を下山した。
しばらく歩けば遠くの方に山小屋らしきものが見えてきた。
「俺が先に行って仲間がいるか見てきてやるよ」
夜が言うと、燐は夜のコートの端を掴んだ。
別れの時を察したのかもしれない。
少しだけの邂逅だったが、二人の仲はもう近くなっている。
燐は、ポケットから雪の結晶をひとつ取り出した。
「これ、やる」
「いいのか?」
「まだあるからいいんだ。よかったら使えよ。薬になるみたいだし」
「・・・わかった、ありがとな」
「近くに来ることあれば、寮に遊びに来いよ」
「ああ、お前の料理食べてみたいしな。近くに行ったら必ず寄るよ」
「約束だぞ!」
「わかった、じゃあまたな」
夜はその場から消えた。
燐は、スノーマンの後をゆっくりとついていった。
また、と夜は言ったので。夜とはまた会えるだろう。
その日を楽しみに思いながら、燐は雪道を歩いた。
ポケットには、雪の結晶がある。
「雪男、喜んでくれたらいいなー」
のんびりと歩きながらそう思った。
こんこん、という音がして、雪男は扉を見た。
もう吹雪は止んでいる。もしかして、帰ってきたのだろうか。
しかし、ここは悪魔もいる山の中だ。
雪男は、いつでも銃を手に取れるようにホルスターに手を置いたまま、扉を開けた。
そこには、兄がいた。
「兄さん、心配したんだよ!!」
雪男が叫ぶと、相手は少し怯んだ。
いつものように叱ろうと雪男は口を開こうとするが、目の前の人物はどうも何かが違う。
顔も姿も燐そっくりなのに、なんというか。
燐が成長したらこうなってそうな、大人の姿なのだ。
自分の兄は十五歳である。目の前の相手は、もう少し年上に見えた。
「あー、えっと・・・」
「お前の兄ちゃんはすぐ来るよ。迎えに行ってやれ雪男」
指さした先には、遠目だが燐の姿が見えた。
雪男は走りだそうとする。しかし、その人物が誰かも気になった。
振り返った先に、その人物はいなかった。
消えた。どこに。でも、相手から害のようなものは感じなかった。
それよりも、今は兄の姿を追いたかった。
雪男は走って燐の元にたどり着いた。
「兄さん!」
「ふふふ、どうだ弟よ!お前が欲しがっていた結晶を俺が見つけたんだぜ!」
燐がポケットから取り出した結晶を雪男に見せた。
雪男は、燐の手を掴んだ。
「怪我してないよね!?低体温になってない?!みせて!!」
「あれ?そっち?」
想像していた答えと違って、思わず燐がつぶやいた。
雪男は、燐の頭をはたいた。
「結晶はまた探せばいいけど、兄さんは一人しかいないだろ!」
ぎゅっと抱きしめられて、燐は夜の言葉を思い出した。
今はお前の無事を知らせてやったほうが、喜ぶと思うぞ。
燐は、雪男を抱きしめ返した。
「あー、心配かけてごめん」
「わかればいいよ」
二人の体温でも溶けない雪の結晶が、手の平できらきらと光っていた。
雪山を歩く夜に、空から客人が降りてきた。黒い鳥。カラスのようだ。
雪山で見ればまるで黒点のようにも見える。
夜はカラスに向かって腕を差し出した。
カラスは夜の腕を止まり木にして一声鳴いた。夜はカラスに告げる。
「カモフラージュはいいから要件を」
「今回の任務は如何でしたか?夜君」
カラスから、人の声が聞こえてくる。
それは、夜もよく知る人物の声だった。
正十字騎士團日本支部長、メフィスト=フェレスだ。
夜は、たまにメフィストからの指令を受けて任務を行なっている。
今回もその類だった。
「若君様には一度会ってはみたかったが、
まさか若君様に会うことが任務になるとは思っても見なかった。しかも、遭難中かよ」
「でも、彼面白いでしょう?」
「それはわかるが・・・もしかして若君様のこと、フェレス卿も心配だったのか?」
「そこはノーコメントで」
「今度会ったら伝えておくよ」
「それはいいですから、次の任務お願いしますよ」
夜は少し笑って、カラスの足についていた手紙を取った。
今度は、南の方か。夜は刀を抱えなおすと、了解した。とひと言カラスに告げる。
カラスは、一声カァと鳴いて飛び立っていった。
メフィストの使い魔は、主人の下に帰っていく。
その姿が、昔の自分の姿のようで笑えた。
「南か・・・寄れたら、寮の方にも行ってみるか」
夜のために、美味いご飯作って待ってるぞ!と燐は意気込んでいた。
その意気込みを無駄にするのは忍びない。
夜は新たな楽しみを糧に、また歩き出す。
南の方なら、燐が見たことのない花があるかもしれない。
それを土産にしてもいいだろう。薬草だったら、雪男も喜ぶかな。
記憶の中で、花の種類を嬉しそうに教えてくれた少女の面影を思い出し、夜は笑う。
燐の目に入ってきた光景は単純なものだった。
怪我をした弟。
その先に立つ敵。
次の瞬間。燐は雪男の目の前から消えていた。
雪男の背後で、ぐしゃりと何かがつぶれる音がした。
振り返れば、そこには悪魔を殴りとばしている燐がいた。
悪魔を守る黒い影は、燐に反応できなかったようだ。
悪魔の顔に、拳が入っており体がぐらりと揺れる。
雪男が止める間もなく、第二撃が入る。
悪魔の体は床に倒れ込んだ。燐の力は普通の人間のそれではない。
紛れもなく、悪魔のものだ。
幼稚園の時には神父のアバラを折り、同級生に大けがをさせた力。
そして、その力の源はすべての悪魔に通じる悪魔。魔神のもの。
防御しようとしたのだろう、悪魔の影が燐の片腕を捕らえた。
燐はまだ、魔障を受けていない。悪魔の姿も、影も見えていないだろう。
しかし、何かが自分の動きを封じたことはわかったようだ。
燐は残った腕で、悪魔の体を殴った。悪魔は床に倒れ込んだ。
燐は頭に血が上っていて不良の様子がおかしいことにも、雪男が銃を持っていることにも、気づかなかった。
悪魔は確かに笑っていた。燐の人ならざる力で殴られて、口から血が出ていたのに笑っていたのだ。
雪男はその狙いに気づく。
悪魔が取り憑いているとはいっても、その体は生身の人間だ。
悪魔の憑依。度重なる戦闘。そして燐の攻撃。
普通の人間が耐えられるわけがない。
悪魔は、燐に人間を殺させようとしているのだ。
燐は、倒れる悪魔の胸ぐらを掴んだ。
「言ったよな。家族に手出すなってッ・・・許さねぇ」
背を向ける兄の姿を見て、雪男はぞっとした。
冷たい言葉だ。表情は見えない。
兄は、あの優しい兄は今いったいどんな顔をしているのか雪男からは見えない。
燐の腕が、また上がる。
雪男は持っていた銃を捨てた。
燐の背中に、すがりつくようにして叫ぶ。
「ダメだ!!!!兄さん!!!」
殺しちゃダメだ。戻れなくなる。
やめて、お願いだ。
兄さんが兄さんじゃなくなってしまう。
そんなのイヤだ。
悪魔になっちゃうなんてイヤだ。
燐は、怒りのせいか雪男をも振り払おうとした。
その手を雪男は全力で止める。
すごい力だ、振りほどかれそうになる。
だが、ここで燐を止めるのは雪男の役目だ。ここには雪男しかいないのだから。
悪魔としての力を使おうとしている燐を祓魔師としての雪男は銃で撃つべきだったかもしれない。
それをしなかったのは、雪男の甘えだ。覚悟はできていたのに撃てない。
銃を捨ててしまった。
悪魔としての本当の力に目覚めていない燐。
まだ、兄は人間だ。いつか来るその時を、今はまだ見たくない。
雪男は自分の心の悲鳴を聞いた。
変わらないで。
まだ、このままがいい。
まだ、三人で、あの家で暮らしたい。
帰ろう。ここは、兄さんがいる場所じゃない。
僕や神父さんがいるから。
お願いだから、僕たちに兄さんを守らせてよ。
「離せッ!!!」
「イヤだ!!!!」
雪男の声で燐は初めて背後を振り返った。
そこには、髪を振り乱しながらも自分を止める弟の姿が。
雪男の目は悲しそうだった。必死だった。
こんな雪男はそれこそ、見たことがない。
燐は、途端に怖じ気づいてしまう。
どうしよう、雪男にみられてしまった。
こんな、喧嘩ばっかりする俺の姿。
見られたくなんかなかった。
ただ、俺は。
守りたかっただけなんだ。
燐の腕から力が抜けていく。
雪男は燐を背後から抱きしめるようにして止めていた。
間に合った。
燐はまだ人間だ。
目の前の悪魔は、それが気に入らなかったらしい。
黒い影が、燐ごと雪男を吹き飛ばした。
教室の壁に背中を打って雪男はせき込む。
腕には、燐を抱えていた。
燐は頭を打ったのか、ぐったりと雪男にもたれ掛かっている。
雪男は、落ちていた銃を拾う。
銃弾を装填。
悪魔は呟く。
「我らの・・・若ぎみ」
悪魔は燐に手を伸ばす。
雪男は悪魔の言葉を許さない。
迷い無くトリガーを引く。
目の前の悪魔に、雨のように銃弾が降り注いだ。
撃って撃って撃って撃って。
悪魔の足が少しだけ、後退する。
これ以上、近寄らせるわけにはいかない。
弾丸は黒い影がすべて弾く。悪魔には届かない。
同時に雪男は怪我をした手で、十字を切った。
「邪悪なる物の行動を禁ずる!!!」
悪魔の足下、聖水が動きを縛る。
雪男の手持ちの聖水は、切れている。
今悪魔の足下にあるのは、結界を張る為に聖水で設定した中心点だ。
電気が伝って無効化されたのは、五点で結ばれた線の方だった。
独立した点は、まだ生きている。
陣もなにもあったものではないが、少しの足止めくらいはできる。
腕に抱える燐の体を自分の方へと抱きしめて、雪男は、動けない悪魔に向けて言う。
「兄さんは、僕たちの家族だ」
おまえ等なんかにやるもんか。
ドン、という音と共に悪魔は倒れた。
周囲の黒い影も、霧散して消えていく。
黒い影の中から、不良が出てきた。意識はない。
聖水入りの弾丸と銀弾が利いたのだのだろう。
ぐったりと床に倒れ込んでいる。
おそらく、彼は長時間適合しない悪魔を体に取り込んでいたので、体を害している可能性がある。
日常生活に戻るまで時間を要するかもしれない。
だが、息をしていた。
彼は生きている。彼自身が変わらなければまた悪魔に取り憑かれるだろうが。
危機は去ったのだ。
雪男は額から流れ落ちた汗を拭って、腕の中にいる燐の様子を見た。
顔色が悪い。どうしたのだろう、打ち所が悪かったのか。
焦って状態をよく確認すれば、燐の腹からドス黒い血が流れ出していた。
「にいさ・・・傷が!!まさかッ」
黒い影に吹き飛ばされた時に、雪男の前に燐は立っていた。
黒い影の攻撃を、一人で受けたのか。
雪男に怪我をさせないために。
なんてことだ。雪男は燐の上着をたくしあげた。
血が出ている。傷口をよく見ないと、状態がわからない。
動揺して揺れる雪男の手を燐が握った。
そこには、燐が雪男を突き飛ばしたことでできた傷があった。
「雪、男・・・怪我させて。悪い・・・俺・・・」
「そんなこと、今はどうだっていい!兄さん意識を持って!!寝ちゃだめだ!!」
「ごめん、な・・・」
謝罪の言葉を最後に、ぐったりとした燐を床に横たわらせる。頭が混乱する。まずは、止血を。布が。
動揺しているせいか、手が言うことを聞かない。
雪男は自分の頬をひっぱたいた。
ここで怯えてどうする。
冷静になれ。何のために、僕は医者になろうと考えた。
兄さんの傷を治せる人に。人を助けられる人になりたかったからだろう。
僕を守って傷ついた、兄を助けるんだ。
雪男は応急処置をする為に、燐の傷口をよく確認しようとした。
声が聞こえた。教室のスピーカーから流れてくる。
『見た、ぞ・・・奥村燐・・・我らが若君は・・・生きておられた!』
ぞくりとした寒気。雪男は思い出す。
藤本は言っていた。この学校が廃校になった理由を。
「祓魔師でも祓いきれない悪魔がいたってこと?」
「下っ端の悪魔自体は祓えるんだけど、どうにもその親玉が見つからなかったらしい。
出入り禁止にして、結界で封じておいたらしいが・・・」
あれは、下っ端の方の悪魔だったのか。
悪魔はまだ、いる。生きている。兄を連れていこうと見つめている。
雪男は悪魔の視線から隠すように燐に覆い被さった。
すると、放送に雑音が入る。雪男の表情が変わった。
「俺の息子が何だって?」
藤本は誰もいない放送室に向けて話しかけた。
返事はない。夜の闇だけでは説明できない黒い闇の中。
藤本の勘は確かにここに悪魔がいると告げている。
ブツリ。という電子音が聞こえて、闇の中に声が生まれてきた。
『貴様・・・祓魔師か・・・』
「そうだよ、お前には手を焼いた。
以前も部下から報告だけは聞いていたんだがな、もっと前に俺が来ればよかったよ」
そうすれば、こんな面倒なことにはなっていなかった。
燐も雪男も巻き込まれなかっただろう。
藤本は内心舌打ちをした。
少しでも兄弟に危険が及ぶ可能性があるのならどんな小さな芽でも摘んでおくべきだった。
「燐を、どうするつもりだった」
『簡単なこと。我らの若君をお連れするだけだ』
「首謀者は誰だ」
『わかっているのだろう、偉大なる君のことを』
「ッチ・・・虫酸が走るな」
『しかし、若君は未だお目覚めにならない・・・
体を暴いたが、尾も牙もまだない・・・どういうことだ、人間風情があの方になにをした』
「・・・てめぇ。今なんて言った?」
体を暴いた。脳裏をよぎったイヤな予感に、悪魔は下品な笑い声を返す。
『味見をさせていただいたのだ。お体を隅々までな。
その体に流れる全てのものが、悪魔を高ぶらせるものだと気づいた。
イヤだと抵抗されればされるほど、その身に眠る力は強くおなりになられた。
あのお方はやはり・・・魔神様の』
藤本は、持っていた見取り図を放送室のマイクに向けて投げる。
がん、と音がして、悪魔の声が揺らいだ。
これ以上聞いていると、なにをするか自分でもわからない。
「いるんだろ、『そこ』に。どうりで親玉が見つからないわけだ。目に見える部下はおとり。
部屋自体にに・・・放送室に悪魔が取り憑いているとは誰も思わなかったんだ」
藤本が床を蹴れば、キイインという反響音が響いた。
ここは、悪魔の腹の中。放送室に取り憑いた姿なき悪魔。
不良に取り憑いていたのは、こいつのほんの一部分。
手足がちぎれても、頭が残れば何度でも蘇る。
藤本は、この悪魔を生かすつもりはない。
頭を潰しても残るのならば、何度でも殺して、二度と起きあがれないようにしてやる。
バチバチと音を立てて、放送室に雷が走る。
藤本は、聖水を取り出してマイクに投げた。
聖水が飛び散る。しかし、雷は聖水を物ともせずに弾いた。
雪男の結界を壊したように、電気で聖水を無効化したのだ。
それを見た藤本は、再度聖水を投げる。
放送室に響くのは、聖水を排除する電気音と、悪魔の声。
マイクや機材とは離れた床の上にまき散らされるそれを、悪魔は見逃さない。
(親子だな・・・戦術が同じだ。同じ手を食うか!)
藤本の狙いが、結界を張ることだと踏んで悪魔は聖水を焼き付くした。
何度か聖水をまかれるが、同じだ。
藤本が聖水を投げる手をやめたのを見計らって、悪魔は藤本に狙いを定める。
どんなに早く自分を祓おうとしても、それよりも早く相手を殺す自信が悪魔にはあった。
なによりも早く人間の心臓を貫いて、息の根を止めてやる。
今までのように。恐怖で染まる人間の顔。
死を予感して、慌てふためく姿を楽しみながら殺してやる。
次は、あの祓魔師の息子だ。
父の丸焦げになった姿を見せてやる。その絶望を味わわせてから殺す。
そして、邪魔物を排除した暁にはあの方を虚無界へお連れするのだ。
人間の世界に捕らわれているあのお方を。我らの若君を。
我らのもとへ。喜色ばんでいる悪魔とは対照的に、目の前の藤本は冷静だった。
放送室の、マイクの元へ。何かを向けている。
あれは。悪魔はぎくりと体をこわばらせた。
「変わった悪魔だな・・・まさか、電気を媒介に取り憑く悪魔がいるとは思わなかったよ。
この放送室全てに流れる電気。それがお前の正体だ。汚染された電気で、聖水を無効化とは恐れ入った」
姿のない悪魔。声は、放送室の機材を操って出していたのだ。
実体があるようで、人間の目には触れない悪魔。
以前ここを訪れた祓魔師が見つけられなかったのはそのためだろう。
言葉とは裏腹に、藤本の顔はなんの感情も見いだせない。
冷静で、冷酷な。男の顔。
藤本が、手に持つもの。それは、悪魔が持っていたものと同じ型のスタンガンだ。
ここは、不良が根城にしていた場所。予備があっても不思議ではない。
スタンガンの矛先は、悪魔の本体ともいうべき放送機材に向かっている。
悪魔は、スタンガンを破壊しようとした。
しかし、どうだろう。体が引っ張られる。なんだ。これは。
見れば、自分は無効化したはずの聖水に引っ張られているではないか。
バカな。これはただの水なのに。
「水ってさ、電気を通すんだってな。気づかなかっただろ」
聖水を部屋にまいたのは、この為か。
雪男がやったように、結界を張って足止めするようなやり方ではなく。
もっと原始的なやり方だ。水は電気を通す。取り付いた物質の性質が、悪魔を水に引き寄せる。
悪魔は、藤本を殺そうとした。しかし、藤本の方が早く、無慈悲にスイッチを押す。
悪魔が取り憑く機材に流れる、高圧の電流。己のものとは異なる電気。
機材が電気できしみ、悲鳴を上げる。それは悪魔の悲鳴だった。
『ギャアアアアアアアアアアアアアアア!!!!』
そして、スイッチをそのままにして藤本はドアを開けた。
去り際に、口元でピンを外して、中にそのまま投げ込んだ。静かに扉を閉める。
直後。背後で、爆発音が響く。電気と爆炎で、放送室は跡形もなく焼け落ちていく。
どうせここは、廃校だ。いまさら部屋の一つや二つ壊そうがなにも気にならなかった。悪魔は残らず焼け尽くされる。影も残すつもりはない。
藤本は、手榴弾のピンを口元にくわえてたばこを吸うような動作をした。
喫煙していた時の癖のようなものだ。
今、肺の中に入る煙は背後の放送室が、悪魔が焼け落ちたものだ。
「あいにく、俺は雪男みたいにスマートじゃないんでね」
周囲の迷惑を省みず、悪魔を祓えばオールオーケー。
それが冷徹と恐れられた藤本獅朗のやり方だ。
双子を引き取ってからは、なりを潜めていたのだが、
若い頃に身についた手法というのはやはりなかなか抜け出せないらしい。
たばこじゃないし。まずいな。と独り言を言って、
藤本はピンを床に吐き捨てる。藤本は駆けだした。
父の向かう先はひとつ、息子達のところだ。
階段を上がれば、廊下まで破壊された一角があるのが見えた。
藤本は、急いで教室の中を見た。
雪男のことだ、うまくやってくれるだろうと言う信頼はあるが、雪男も怪我をしていた。心配だった。
見れば、服を血塗れにした雪男が教室で座り込んでいた。
「雪男・・・!大丈夫か!!?」
藤本が駆け寄れば、雪男はこくりとうなずいた。
痛がるそぶりもない。これは、返り血か。
雪男の目の前には、腹から血を流して横たわっている燐がいた。
藤本の表情に焦りが見える。
「燐・・・ッ」
「だいじょうぶだよ。神父さん」
雪男は藤本を落ち着かせるように言葉を発すると、燐の上着をめくった。
そこには、大量の血液がこびりついている。
しかし、目立った外傷は見あたらなかった。
どういうことだ。藤本は燐の体に手を当てる。
この出血量なら、間違いなく致命傷なのに。
藤本は、気づいた。雪男は俯いている。
何かに耐えるように、じっと手のひらを握りしめていた。
その手を取って、藤本は雪男に話しかける。
「話せ、雪男。聞いてやるから」
「・・・うん」
雪男は燐の意識がないことを確認してから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「兄さん、僕を庇って悪魔の攻撃を受けたんだ。すごい血が流れてて。
兄さんが浚われる前、僕たち路地裏で喧嘩したんだ。兄さんがお前には関係ないって言うから頭にきてさ。
その時に喧嘩して腕怪我しちゃったんだけど。兄さん、それがすごくショックだったみたい」
「・・・そうか」
「だからかな。怪我をしてたのに、僕に謝るんだ。ごめんって。
僕、急いで兄さんの傷を見たよ。傷。神父さんも見た?」
「ああ、傷。なくなってた。燐は大丈夫だ」
悪魔の治癒力。人間なら致命傷だろうそれも、悪魔である燐にとっては問題にならなかった。
傷は、常人ではあり得ないスピードで塞がっていた。
藤本は、雪男の言いたいことがわかった。
人間ならば、腹に受けた傷がこんな短期間で治るわけがない。
つまり、今日あったことは燐にとっては夢の中の出来事だと思わせるしかない。
そうでなければ、燐が自身の「異常」に気づいてしまう。
受けた傷がなくなっているのだ。おそらく信じるだろう。
燐が、まだ人間としていられる日常に帰ることができる。
「僕さ、思ったんだ。よかった。これなら。まだ。嘘、つけるかなって・・・」
いつか来る燐の目覚め。同時に失われてしまう日常。
それが、まだ続けられることにひどく安堵している自分がいる。
打算的に動く頭。嘘がばれることに怯える心に。
自分への嫌悪感が止まない。
藤本は、雪男の頭を撫でた。大きくて暖かい手だ。
それに包まれて、雪男は顔を上げた。
「あんまり、背負いこむなよ」
家族で過ごす日を一日でも長く持ちたい。
例え嘘があったとしても、その思い出はいつか来る別れの日の支えになるだろう。
それを信じて藤本は戦っている。雪男もそうだ。
嘘つきだと言われても、それが今の二人の真実だ。
藤本も、ふと思うときがある。
燐に、嘘つきだと糾弾されて自分は平静でいられるだろうか。
藤本も、雪男も。同じものを抱えて生きている。
この選択が吉とでるか凶とでるかはわからない。
それでも、それを最善だと信じて生きている。
「帰ろう雪男。帰ったら燐にうまいものいっぱい食わしてもらおうぜ」
「・・・神父さんは湿布も貼ってもらわないとね」
「ははは、そうだな」
藤本は雪男の肩を叩く。
大きく息を吸って、吐き出す。
雪男は、もう俯かなかった。
「・・・あれ?」
燐が目を覚ますと、見慣れた天井が見える。
ゆっくりと起きあがると、そこは神社でもなく、公園のベンチでも、ましてや廃校でもなかった。
家だ。修道院に帰ってきている。
いつの間に。しかも、自分は怪我をしたはずだ。
燐は自分の服をめくった。そこにはあったはずの傷はない。
確かに、血が大量に出ていたはずなのに。
触ってみるが、特に痛みも感じなかった。どういうことだろう。
混乱していると、ドアが開いた。雪男だった。
びくりと体を震わせる燐にかまわず雪男は言った。
「やっと起きた。兄さん、不良に突然殴られて気絶するんだもん。
あの後大変だったんだよ。神父さんも呼んで危うく警察沙汰になるところだったんだから」
「え?そうなの?・・・俺確か校舎に行って」
「夢でも見たんじゃない。それよりも。兄さん、僕に言うことない?」
雪男はずいっと自分の腕を燐に見せた。
そこには真新しい包帯が巻かれている。
燐はそのシーンを思い出したのか、顔を真っ青にしてベッドの上で雪男に向かって土下座した。
「ごめん!雪男!俺、お前に怪我させちまった!」
「いいよ、かすり傷だしね。それより、神父さんの腰に湿布貼ってあげてよ。
年なのに。兄さん捜してあちこち走り回ったんだからね。早く顔見せて安心させたげて。まったく」
「・・・わかった」
燐はすごすごとベッドから降りて、リビングの方へ向かっていった。
途中そっと自分の腹に手を当てる。
雪男は、怪我をしていた。治ってなんていなかった。
自分がいくら怪我の治りが早いといっても、こんなスピードで怪我が治るなんておかしい。
雪男の言ったとおり夢を見たんだろう。
燐は、一抹の不安を覚えながらも自分を納得させるようにそう思い込む。
雪男は背後から声をかける。
「兄さん、僕今日は魚料理がいいなー」
「ああ、ったくわかったって!!」
ばたばたと足音を鳴らして燐は出ていった。
様子を見た限り、燐が魔障を受けたような形跡はなかった。
普通悪魔に傷を付けられたら魔障を受けるのだが、
やはり燐の体に流れる上級悪魔の血が魔障を受け付けないのだろうか。
まだ、この日常は壊れない。
雪男は部屋の中で一人、暗い気持ちに捕らわれる。
本当に謝らないといけないのは僕のほうなんだ兄さん。
僕を庇って怪我をして、家族を庇って一人になった。
そんな兄さんのやさしさをなかったことにして、僕は嘘をつくんだ。
本当は。本当は。本当は。
言えば、キリのない言葉を、雪男は飲み込む。
兄がいる日常に戻れた幸せと、嘘をつく自分への自己嫌悪。
雪男は、そんな兄との日常が、好きだし。
嘘をつき続ける自分は、やはりもっと大嫌いだった。
ふと、声が聞こえてきた。リビングの方で、兄が自分を呼んでいる。
どうやら魚がないので買い物に出かけるらしい。
自分も荷物持ちに来いと、文句を言っている。
しかし、その声にトゲはない。
兄が、自分を呼んでいる。それだけで、雪男の心は温かいものに包まれる。
暗い気持ちが、消えていく。
「今、行くよ」
呼ぶ声が聞こえる方へ。その声をなくさないように。
苦い思いを飲み込んででも。
雪男は何度でもこの道を選ぶのだ。