青祓のネタ庫
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燐は祓魔の資料が保管されている図書館で、本を読んでいた。
勝呂は燐の姿を見て驚愕のまなざしを向ける。あの奥村燐が勉強をしている。
感動で目の前がぼやけてしまった。
燐が勉強しているところなんか、命がかかっていた祓魔師試験の時以来だった。
しかし、感動している場合ではない。
勝呂は燐の前に近づいて、肩を叩いた。
「珍しいな、お前が勉強しとるなんて」
「うん」
燐は本を捲って、一旦閉じた。そして一冊の冊子を鞄の中から取り出す。
勝呂はその冊子を興味深そうに眺めた。表紙は白いし、この図書館の蔵書でもなさそうだ。
しかし燐はその冊子を真剣に読みふけっている。
閉じた本の表紙には、やさしい暗記の仕方。と書いてあった。
なにを覚えようとしているのだろうか。
ちらりと冊子の隙間から除いた文章にやや驚きながら、勝呂は燐に問いかけた。
「奥村、なんやそれ」
「ああ、暗記しなきゃいけない資料なんだ。お前暗記得意なんだよな?
なんかいい方法ないか?」
「そんなもん、覚える他ないわなぁ・・・そうや、読んで書いてを繰り返すと
案外頭に入るもんやで」
「ふうん、じゃあ後で書いてもみるわ。ありがとな」
「礼はいらんて、頑張りや」
「うん」
勝呂はこれ以上邪魔してはいけないだろうと思い、燐の傍を離れる。
燐は冊子から目を離そうとしない。
もしかしたら、次の任務の資料なのかもしれない。
ならば邪魔してはまずいだろう。
勝呂はちらりと見えた文章を思い出す。しかし祓魔の仕事を生業にしていると
見かけることもある文章なので特に突っ込みはしなかった。
間もなく。図書室の扉が開いて、雪男が入ってくるのが見えた。
勝呂はぺこりとお辞儀をする。雪男も同じ動作を返した。
今は同じ祓魔師だが、雪男に対してはやはり講師と教え子の立場という感じになってしまう。
もしかしたら、さっきの資料は雪男が手ずから作った兄の為の資料なのかもしれない。
燐は未だに漢字を苦手としているので、読み仮名を振った資料を雪男が作っていても
おかしくはない。愛されとんなぁ。と勝呂はしみじみと感じ入る。
違和感に気づいたのはまもなくだった。
雪男は燐に気づきながらも、すたすたと本棚の方に行った。
燐も雪男に気づきながらも、資料から目を離さない。
いつもなら挨拶くらいは交わすのに。
勝呂は首を傾げながら、奥村兄弟を見つめていた。
喧嘩でもしたのだろうか。それならばいつものことだ。放っておくことにしよう。
勝呂はその選択が間違いであったと、後で気づくことになる。
***
勝呂が上司から任務を言い渡されたのは、図書館で奥村兄弟の冷戦を見た数日後のことだった。
祓魔対象の悪魔は、腐属性の上級悪魔。森で瘴気をまき散らし、木々を枯らしているらしい。
今はまだ山深い場所で暴れているだけなのでいいが、数キロ先には町があった。
人間の住む場所までたどり着けば、被害は甚大である。
悪魔が町に辿りつくまでにケリを付ける。時間制限付の任務だった。
勝呂はすっかり手に馴染んだ銃を持つと、森の中へと踏み入った。
胞子が飛んでいるので、マスクも忘れない。
木々は枯れ、胞子が飛び交い、足元の土は腐っている。
どこかの映画の話ではないが、マスクを外せば5分で肺が腐ってしまいそうな有様だ。
「ひどいな・・・」
不浄王の時を思い出す。あの時もこんな状況だった。
勝呂は同僚の祓魔師と共に、目当ての悪魔を目指した。
同僚の祓魔師が声を上げる。勝呂はすぐさまその場にしゃがみこんだ。
どうやら、目当ての悪魔の進行方向へと回り込むことができたようだ。
注意深く、その姿を確認する。その悪魔は、キノコのような姿をしていた。
キノコの根本から無数の触手が伸び、それが足のように動いて前に進んでいるようだ。
キノコの笠の部分には人型を象った胞子の塊がくっついている。
ぶつぶつと言葉を放っていることから、あの胞子の塊には意志があるのだろう。
悪魔の核となる部分のようだ。
勝呂は同僚と目配せをして、その胞子部分に銃を向けた。
決めるなら今だ。後方の部隊とも連絡を取り合い、火力で一気に叩くことを決める。
「今やッ!!!」
勝呂の合図と共に、火炎放射器と銃口が火を噴いた。
キノコ型の悪魔は一気に炎に包まれる。核となる部分を打ち抜き、身体を炎が焼き尽くす。
辺りには木々が焼ける匂いと、悪魔が焼き尽くされる異臭が立ち込める。
吐き気がするほどの匂いだが、悪魔討伐現場ではよくあることだ。
悪魔の姿は、炎に包まれて徐々に見えなくなってきていた。
おそらく身体が燃え尽きたせいで、小さくなっていっているのだろう。
勝呂は悪魔の進行方向に目を向ける。まだ遠いとはいえ、この先には町がある。
ここで食い止められてよかった。そう思った矢先、同僚の悲鳴が聞こえてきた。
「う、うわああああ!!」
見れば、触手に足を取られて宙吊りにされているではないか。
勝呂は驚きながらも、その触手を銃で打ち抜く。
地面に落下した同僚を支えながら、なんとかその場から逃げだした。
すると、先ほどまでいた場所から無数の触手が針のように生えてきたではないか。
一歩遅ければ串刺しになっていただろう。ぞっとしながらも勝呂は次の手を考えた。
近くの地面に銃弾を撃ち込み、聖水をばら撒けば、触手の進行は止まった。
勝呂は同僚に声をかける。
「大丈夫か、あれはたぶんさっき焼いたキノコの触手やろ。まだ生きとるみたいや」
視線を燃える悪魔の方に向ければ、焼いたはずの悪魔の体が地面から再生されている最中だった。
触手とは、根のようなものだったのだろう。キノコの形をしていることから菌糸とも言えるかもしれない。
菌糸がより集まって、幹をつくり、笠を象る。その笠の上には胞子でできた人型がケタケタと笑っている。
不浄王の時もそうだったが、腐属性の悪魔は再生するから厄介なのだ。
勝呂が舌打ちして、カルラを呼び出すべきか考える。
しかしその召喚の間は自身が無防備になってしまうので、騎士の前衛が必要だ。
今いる同僚は、医工騎士だった。勝呂は今回の任務で竜騎士として参加している。
騎士を持った称号のものはこの部隊には少数だ。
それも騎士がメインではなく、他の称号と併用している場合が多数だろう。
腐属性の悪魔は、遠距離からの攻撃が普通だ。
極少数いる悪魔とのハーフなら別だが、人間があの瘴気の中生きれるはずがない。
よって任務の際には前衛の騎士はあまり入れないことが慣例となっていた。
勝呂は唇を噛む。ここに奥村がいれば。そう思わずにはいられない。
奥村燐は騎士としてはおそらく最高の素質を持っている。
悪魔としての身体能力に、瘴気への耐性、加えて全てを浄化する青い焔。
まったくもって、最強の同期を持ったものだ。しかし、その同期に頼るわけにはいかない。
勝呂は燐に負けたくはなかった。今、自分にできることをやらなければならない。
勝呂がカルラ召喚の陣を描こうとしたとき、声が聞こえた。
『足止めは、俺がする』
それはよく知る声だった。勝呂はハッとするが、カルラの召喚に力を入れることにした。
同僚に声をかける。
「悪い、しばらく俺無防備になるわ。なんとか持ちこたえてくれ」
同僚は勝呂の言葉に動揺しながらも、手に聖水と銃を持った。銃を持つ手が不恰好なのは、
竜騎士の資格を持っていないからだ。それでも剣とは違って引き金を引きさえすれば銃は打てる。
間違って、俺に当てんなや。と願いながら勝呂は詠唱に入った。
ほぼ同時に、悪魔が動き出そうとしていた。触手を動かそうとしたのだろう。
ずずず、という地面を削る音があたりに響いていた。音は、すぐに止んだ。
悪魔の目の前には人影があった。その影は青かった。
視界を遮っていた胞子が風で消えていく。
そこには、祓魔師姿に青い着物を羽織った燐がいた。
燐は悪魔に声をかける。
「静まれ!下賤なる者よ!!」
その声を聞いて、勝呂はぎょっとした。あの燐が難しい言葉を使っている。
驚きだ。図書館で勉強した成果だろうか。
悪魔は燐の声に反応して、触手を燐へと伸ばした。
その触手は燐にたどり着く前にあっという間に燃やされてしまう。
燐は青い焔を全身に灯して、冷徹な瞳で悪魔を見た。
悪魔が慄いたことが、感覚で分かった。悪魔は恐れている。
「ここでお前がしたことを俺は許すつもりはない。
大方腹を満たすために町を襲おうとしたのだろう。
人間に害を成し、森を壊し、お前が物質界に与えた損害は命を持って贖うがいい」
悪魔はなにかを燐に訴えていた。しかし、燐はそれをばっさりと切り捨てる。
「俺の名前を言ってみろ」
悪魔はその場に傅いて、言った。若君様、と。
燐は満足そうに笑った。
そして、勝呂の詠唱が終わり、カルラが召喚される。
カルラの炎は、燐の目の前にいた悪魔を焼き尽くす。
不死鳥の炎だ、重火器の炎とは性質が違う。
燃える炎に染められて、燐の羽織がはためく。
燐は手を翳して、カルラを。勝呂を助けるように青い焔を繰り出した。
「焼き払え!!」
まるでどこぞの殿下のような口ぶりだが、今の燐の姿から見ると妙に様になっていた。
カルラはこくりと頷いて、燐の焔を増長させるように炎を燃やす。
燐の声と共に、森が燃えていった。
その日、数キロ先にあった町では森の中で青と赤の炎が燃えている姿が見えたという。
全ての胞子が燃えて浄化された後、燐の姿はどこにもいなくなっていた。
次に目撃したのは志摩だった。
志摩が任務にあたっていると、廃ビルにいたゴーストの親玉に命令している悪魔がいた。
「消えろ、目障りだ下級が」
「申し訳ありません、若君様」
次に目撃したのは子猫丸だった。
子猫丸が任務にあたっていると、古い神社に住み着いていた化け狸を踏みつけている悪魔がいた。
「俺に従え」
「若君様の仰せの通りに・・・」
そしてその京都組の遭遇した出来事は勝呂によって集約され、雪男への直談判へと繋がった。
***
「先生!奥村がおかしなったんです!悪魔の親玉みたいになったんです!」
「今は先生じゃないですけど・・・って、え?なんですかそれ?」
雪男は首を傾げた。旧男子寮では冷戦が続いているが、普段と変わったことはないように思えた。
しかし、勝呂達の説明を聞いて、徐々に眉間にしわを寄せて考える。
兄さん、一体どうしてしまったんだ。
雪男も任務があるため、ここ最近はすれ違いが続いていた兄弟だ。話もまったくしていないに等しい。
会っても、図書館のように無視し続けるのが常であった。雪男としてもここまで長い喧嘩は初めてだった。
しかし昨日寝ているところを見たが、特に様子は違わなかった。
燐の豹変は任務での時だけということだろうが、学生時代とは違って今は社会人である。
オフの日の方が少ない。つまり、燐はほとんどの時間を悪魔の親玉みたいにして過ごしていることになる。
これは由々しき事態だ。騎士團の上層部に見つかれば反逆罪と見られかねない。
雪男と勝呂達が燐を探しに行こうとすると、ちょうど任務帰りの燐が歩いている姿が。
そして、その背後にいるものたちに雪男たちは驚愕した。
燐の後ろには、またもや取り憑かれている白鳥と、無数の悪魔が群がっていたのだ。
「寄るな、穢れる」
「ああ、若君。ようやくご自分の立場を理解されたようで私は大変うれしく思います。
若君から発せられる言葉すべてが私の身に染みわたります。なんという甘美・・・なんなりとご命令ください。
我らは貴方様の手足です。この身を焼いても我らは貴方に忠誠を誓いたい。足を舐めさせて下さい」
「さりげなく自分の欲望を混ぜるなッ」
燐は背後に群がるアスタロトにも、悪魔にも冷たく帰れと命令していた。
しかし、その命令すら今まで貰えなかったのだ。
燐に傅く悪魔にとっては、命令も冷たい視線も、全てがご褒美である。
雪男は悪魔に命令する燐の前に立ちふさがった。
「なにしてんだよッ」
そして、そんな雪男を燐は無視した。
無言で立ち去って行く兄の姿を、雪男は呆然と見つめていた。
喧嘩をしていた自覚はある。でも、燐にここまでの対応を取られたのは初めてだ。
勝呂達も、普段と違う燐の姿になにも言うことができなかった。
まるで、燐が遠いところへ行ってしまったように四人は感じたのだ。
***
雪男たちからも、アスタロト達からも逃げ出して、燐は学園の隅に設置されている
ベンチで、メフィストに連絡を取っていた。
手には、図書館で読んでいた冊子がある。
「メフィスト、お前の台本すごいな。雪男たち呆然としてたぜー」
「でしょう、なにせ私の構成は完璧ですからね☆貴方用に考えて、
ルビまで振った『悪魔としてグレる方法』ですから!」
燐は中学時代に既にグレている。その様子を知っている雪男からしたら、
生半可なグレ方では驚かすことはできないと燐は考えたのだ。
そして、悪魔としての振る舞いに力を入れるグレ方を取ったのだ。
燐は、魔神の落胤である。悪魔にとっては神にも等しい存在だ。
誰も逆らったりしないし、迷惑をかけても悪魔だからかまわないというわけだ。
それでも燐は内心すごく悪いことをしている自覚があった。
だから、雪男にちょっとだけ思い知らせることができたら、すぐにやめようと考えていた。
「なぁメフィスト、台本の1章『台本の暗唱』2章『悪魔としての権威の示し方』
3章『下僕の作成』もできたし、4章から5章もほぼできるから、そろそろ終わりにしたいんだけど」
「いいですよ☆では今夜、私の部屋に来て下さい」
「わかった、最終章『メフィストの夜伽話』ってあるけど、これなんて読むんだ?ここだけふりがなないんだけど」
「それは今夜教えて差し上げますよ、夜は長いのですからじっくり・・・ね」
メフィストは燐をハメたのだ。兄弟の不仲に乗じて、燐を美味しく頂いてしまおうという魂胆である。
見た目15歳の燐に手を出そうというのだから、教職に就く身としては限りない冒涜だ。
しかし、メフィストは悪魔であるのでそんなタブーは関係ない。
そんなことは露知らず、燐は携帯電話を切って、台本を閉じる。
燐の心の中には、雪男や勝呂達の呆然とした表情が浮かんでは消えていた。
悪いことしたなぁ。
そう思っていても、してしまう時がある。それがグレるということである。
それでも、今夜で終わるようだからいいかと燐は考えた。
燐は自分の貞操が狙われていることに、これっぽっちも気づいていなかった。
「で、兄さんは僕に何か言うことはないのかな?」
雪男は椅子に座って膝を組みながら床に正座する燐に向かって言った。
なぜこんな状況になっているのだろうか。
二十歳を超えるまで、つまり塾に通っていた当時ならば
課題忘れやらテストの点やらでお仕置きと称してこんな扱いを受けたことはあった。
むしろ今日の床に正座はぬるい方である。
正座した上にバリヨンを乗せられたり、床にぶちまけた釘の上で足踏みさせられたりした頃に比べれば。
燐はちらりと雪男の顔を見上げた。
雪男は無表情だった。怒った顔はしていない。
それが余計に燐の額に冷や汗をかかせる原因となっている。
これは、確実に怒っている。
それも心の底から冷え込んだ怒りだ。
おそらく塾講師時代にやった数々のお仕置きが行われていないのは、
怒りで道具を準備する暇がなかったからだと思われる。
さて、雪男は何の件について怒っているのだろうか。
燐は内心必死で考えた。何か言うことがないのか。と雪男は言うが、
言うべきことがないから黙っているのである。それのなにがおかしいのだろうか。
しかし雪男はそんな黙っている燐の態度も気に食わなかったらしい。
「なに?庇ってるつもりなの?それなら僕にも考えがあるよ」
「いやちょっと待ってくれ雪男。
申し訳ないんだけど俺お前が何に怒っているのか全然わかんねぇ・・・」
燐は素直に告げることにした。
だって燐は頭で考えてもいい答えが出てくるタイプではないのだ。
それなら素直に言った方がまだましだ。
むしろ言い訳した方が事態が悪化しそうである。雪男はため息をついた。
「そう、兄さんにとっては忘れられるようなことなんだね。
この前の任務の時、自分がフェレス卿に言った言葉。覚えてる?」
「この前・・・」
燐の脳裏にあの悪夢が浮かんだ。
ジュースを買おうとして警察に補導され、アスタロトに付きまとわれ、
挙げ句の果てにメフィストに言ってしまったあの言葉。
燐はサァ、と顔色を青く染めあげた。その色はどこか燐の青い炎の色と似ていた。
「な、なんでお前そのこと知って・・・ッ」
「わからない?僕がフェレス卿に兄さんが任務に来ないって連絡したからだよ。
兄さんが合流して、任務が終わった後にね、フェレス卿から連絡があったんだ。
メールでね。しかもデコレーションメール。デコメだよ。お祝いって書いてあったな。
題名はこう。祝、末の弟がお兄ちゃんと呼んでくれた件について。
内容は兄さんがどういう経緯でフェレス卿をお兄ちゃんと呼んだか。
その全てが事細かに詳細に書かれてあったよ。なんなら見る?」
雪男が自分の携帯電話を開こうとした。燐はそれを止めた。
「やめろ思い出したくもない」
「自覚はあるんだ?自分がまずいことしたって」
「お前・・・あん時すんげぇ大変だったんだぞ!」
燐はもう成人済みの大人だ。しかし外見は未だ高校生で通用する。
それもこれも十五歳で悪魔として覚醒してしまったからなのだが、
こればっかりは燐としても対応しようがない。
今では雪男と歩いていると雪男の方が完全に年上に見られるような有様だ。
いくら頑張ったとしても、燐の外見がすぐ変わるわけではない。
そんなどうしようもないことで怒っているのか。燐は雪男に怒った。
「俺が補導されたことで怒ってんのかよ!
あれはもう仕方ないだろ!俺だって好きでこんな若いわけじゃねぇ!」
「・・・そうじゃないよ、何でわからないかな!!」
雪男は机をバン、と叩いた。普段冷静な雪男にしては珍しいことだ。
燐は目を見開いた。雪男は燐に怒鳴りつけた。
「兄さん、フェレス卿のことを兄と呼ぶなんてどうかしてるよッ!!」
燐はびくりと肩を揺らした。
雪男の先ほどの説明と、燐はあの時自分で言った言葉を思い出す。
おにいちゃん。
あれは別にそんな変な意味で言ったわけではない。
あの警察官は燐の保護者を要求していたのである。
そして目の前に以前後見人をしていた人物が現れた。
メフィストと燐の関係を一言で表すなら、この言葉ほど的確な言葉はないと思う。
悪魔の家庭は人間に一言で説明できるようなものではない。
九人の異母兄弟。その末弟が最高権力者である神の跡継ぎ。
悪魔の世界を知らない一般人からしたらどこのファンタジー設定だと言われてしまうようなレベルだ。
メフィストと燐は同じ魔神を父に持つ虚無界の超上級悪魔である。
超上級悪魔がまさか警察に拘束されて動けなくなるなんて、
もはやコントにしか思えない状況だった。
燐の精神も、アスタロトの言葉と警官に追いつめられて正常だったとは言いがたい。
そのことについて、雪男はわかっていない。
燐はキレた。あのとき自分がどれほど大変だったかも知らないで。
燐は雪男に噛みついた。
「あのときはしょうがなかったんだよ!
俺だって好きで言ったわけじゃねぇ!状況がそうさせたんだ!
そうじゃなきゃ、誰があんな奴のこと・・・お、おにいちゃんだなんて呼ぶか馬鹿!!」
「実際呼んでるだろ!そう思う心がなかったら呼ぶわけないじゃないか!
それに、何でよりにもよってフェレス卿なんかに頼ったんだよ!」
雪男は緊急性があった為メフィストに連絡を取りはしたが、迎えまでは頼んでいない。
雪男の思惑よりも先にメフィストがしゃしゃり出たことで、今回のようなことになってしまった。
兄弟間の不仲をじゃれあいにしか捉えられない悪魔にとって
今回のことは笑い話にしかならないのだ。
そんな悪魔の笑顔を知らず、奥村兄弟の喧嘩はどんどんエスカレートしていった。
「だってお前その場にいなかったじゃねーか!」
「だから最初から僕に連絡すればよかったじゃないか!
警官に電話借りればよかっただろ!僕だって兄さんの身分を証明できるんだから!!
携帯なくったって、僕の番号くらい覚えてるだろ!」
「ば・・・弟のお前に補導されたからなんて言ーえーるーかーッ!!!」
二人は今や立ち上がって、メンチを切りあっている状態である。
お互い一歩も引く気配がない。
燐の方が喧嘩慣れしているので、ガンつけるのは燐の方がうまい。
雪男は慣れていないせいか、もう完全に目が人殺しの目をしている。
「いつもそうだ、兄さんは肝心な時に僕を頼ろうともしないんだから!!
だったらもういいよ!」
「あーあー!だったら俺ももういいよ!お前に頼るなんて恥ずかしくてできるか!
お前は俺の弟だろうが!」
「数時間先に生まれただけで兄貴ぶるなってんだよ!
今は兄さんの方が弟みたいなもんじゃないか!!」
その言葉に、燐が黙った。
雪男は自分の言った言葉に、思わず手で口を押さえてしまう。
しかし、一度言った言葉は覆らない。
お互い息が切れてきた。肩で息をしている。
動いたのは、燐が先だった。六○二号室の扉を開ける。
成人した今でも、騎士團に監視化に置かれている燐の為に、兄弟は旧男子寮に住んでいた。
その部屋を、燐が出ていこうとしている。
雪男は燐に声をかけようとした。しかし、燐がそれを言わせなかった。
「俺だって、好きでこんな外見なんじゃない」
扉が閉まって、燐が去っていく音が聞こえても雪男は動けなかった。
雪男が言いたかったことはそんなことではない。
燐が年を取らないとか、外見がどうという話をしているのではない。
なんで肝心なときに自分たちはすれ違ってしまうのだろうか。
「兄さんの家族は、僕と神父さんだろッ!!!」
雪男が許せなかったのは、ただそれだけだったのに。
***
燐はメフィストの執務室の扉を蹴り破った。
蝶番にヒビが入るような音が聞こえたが、この際無視だ。
メフィストはずかずかと部屋の中に入ってくる燐をこれまたおもしろそうな目で迎えた。
「ノックもできないとは失礼な弟ですね」
「俺はお前のこと兄貴だなんて思ってねぇよ!」
「そうは言っても、この前の件で貴方の弟さんは完全に誤解しているようですけどね。
まぁ誤解も何も真実ですけど」
燐は旧男子寮を飛び出してしまった。行き場など他にない。
学園を飛び出してしまえば、監視役である雪男に迷惑がかかってしまうだろう。
そう思ってここへ来た。燐は考えなしなわけではない。
そんな弟への気遣いが雪男を怒らせる原因なのだが、
兄としての威厳を保ちたい燐からしたら譲れないものもあるのだ。
しかし、今回のことは久しぶりに頭に来た。
兄弟喧嘩をすれば、燐の方が謝ることが多かったのだが、今回ばかりは譲れない。
燐は、メフィストに宣言した。
「俺は、グレることを決意した!」
こうなったら、雪男を全力で困らせてやろうではないか。
そして、どうにもならない状況に追いつめられたら、あの時の燐の気持ちを理解できるだろう。
燐はそう考えた。やはり、燐が考えた末に出した結論はろくなことにならない。
燐は頭脳型ではない。つまり、計画的な行動は絶対に向かないのだ。
燐は怒りでそこに気づいていなかった。
メフィストは完全にずれた燐の言動に、思わず拍手を送ってしまった。
「すばらしい!その計画。私も協力致しますよ奥村君!」
そして、奥村兄弟の最悪の日が幕を開ける。
監視のない道を
ちょっとそこまで二人で歩く。
携帯電話が鳴って、メールの着信を告げる。
開けば、志摩からの連絡。
「今から遊びに行かん?」とのお誘いが。
ベットに寝ころんでいた燐は、起きあがって机で仕事をする雪男の方を見た。
時計をちらりと見れば時刻は午後11時。
雪男は燐の言わんとすることがわかったのか、首を横に振る。
「なんだか知らないけど、ダメ」
「えー、なんも言ってねぇじゃん」
「それよりも、明日の宿題やったの?」
「・・・まだ」
「だからダメ」
「いいじゃん」
「兄さん、僕が監視役なの知ってるでしょ。夜も遅いし、許可できません」
雪男の言葉に押されて、燐はうなだれた。
もう一度、ベットに横になる。
メールに返信。
「今日はダメだ。悪い」
送って、そのまま目を閉じた。返信はない。
かりかり、とドアを爪でひっかく音がした。
「ああ、クロ帰ってきたんだ」
雪男がイスから立ち上がって、ドアを開けた。
外に出かけていたクロが部屋に帰ってきたようだ。
にゃーんという声が聞こえて、クロは燐の眠るベットへ飛び上がる。
ごろごろと喉を鳴らして、クロは燐に甘えだす。
燐は、クロの喉を撫でて、また目を閉じた。
兄さん宿題は、という声に後でする。とだけ返してそのまま寝た。
朝にはやってよ。という声には聞こえなかったふりをして。
深夜、燐は目を覚ます。
横を見れば、雪男が寝ていた。時刻は午前3時。
真夜中だ。ベットから降りて、木刀を持つ。
雪男にバレないようにこっそりと支度をしていると、クロが話しかけてくる。
「りん、あそびにいくのか?おれもいく!」
「しー、静かに。雪男起こすと機嫌わりぃから静かに」
そうして、部屋を抜け出した。
ドアが閉まったところで、雪男が目を開ける。
(・・・またクロと修行に行ったんだな)
いつものことだ、バレてないとでも思っているのだろうか。
雪男はクロと会話はできないので、内容はわからない。だがおおよその予想はついた。
今は深夜だが、このことに関しては雪男は燐の行動を咎めるつもりはない。
自分も、燐に隠れて祓魔師の修行をしていたからだ。
帰ってきた時もちゃんと寝たふりをしないとなぁと考えて、雪男は目を閉じた。
もう日付が変わっている時刻だ。眠くないといえば嘘になる。
そういえば、今月のスクエアはもうコンビニでは発売されているかもしれない。
修行の帰りに買ってきてくれないかな。とふと思う。
瞼の裏に、兄がコンビニに行く姿が見えた気がした。
「奥村君遅かったな」
「志摩、おまえよくこんな夜中に待ち合わせできるよな」
「最初は11時の予定やったんやけど?」
「だって雪男がダメだっていうしよ」
「まぁそう思って、3時頃におるっていうたんやけど」
「携帯で言やいいじゃねぇか」
「だって、携帯じゃ誰が見とるかわからんし。ええやろ?」
燐と志摩はコンビニで、立ち読みをしながら会話している。
深夜のせいか、店内には眠そうに瞼をこする店員1人しかいない。
静かな真夜中の空気があった。
コンビニの外で、クロがにゃーと鳴いた。
「クロなんて?」
「今日はかにかまが良いってさ」
「よしよし、伝言役のクロ様に買うてやるわ」
志摩は読んでいた雑誌を置いて、食品コーナーに行く。
燐はその後ろ姿を見送って、雑誌の中に埋もれるスクエアを手に取った。
今日発売らしい。たぶん、雪男は買ってないだろう。
ふと思いたってそれをレジに持っていった。
二人で、コンビニから出るとクロが待ってましたとばかりに飛びついた。
「しま!おれちゃんとでんごんしたぞ!」
「おおきにークロ。ほい。かにかま」
「かにかま!」
クロの言葉は、燐にしかわからない。志摩はたぶん勘で会話しているのだろう。
携帯電話では言いにくいことも、クロだったら伝えてくれる。
志摩は食べ物をあげる代わりに、燐への伝言を頼んでいた。
その伝言も、なんてことのないものばかり。
今日の夜ちょっとだけ会おう。とか。
クロの言葉は人の目を盗んで待ち合わせする時には、とても都合がよかった。
「じゃあ、俺修行あるから」
「うん、俺も帰って寝るわ」
そうして、コンビニを後にする。
このまま燐は当初の目的通りに、クロと修行へ。
志摩はそのまま、寮に帰って寝る。
燐が修行を始める前のちょっとした時間。
それが、二人の会う時間。
「おまえ、そうまでして会いたい?」
「うん」
「クロに」
「・・・いや、クロにも会いたいねんけどな」
「おまえも物好きだよな」
「奥村君とおると楽しいしな」
「そうか?」
「うん」
「眠くないか?」
「奥村君こそ」
「俺は授業中寝るし」
「俺も帰ったら寝るからええの」
少し会って話すだけ。それだけで楽しい。
だから、真夜中でも待ち合わせして会いに行く。
燐は昼間でもできるのに、なぜ深夜なのかと理由を聞いた。
「だってさ、誰にも見られてないところで逢い引きってなんかええやん?」
それってなんか燃えん?
と言われて、燐も。まぁ内緒だからこそ少し楽しいな、とか思ってしまう。
燐は普段、雪男かシュラに監視されている。
常に行動を供にしているので、この時間は息抜きをしているようなものだ。
流石に四六時中二人と一緒というのは疲れる時もある。
きっと、携帯電話にもなにかしらの細工がしてあるだろう。
こうして会うときは携帯電話は持ってきていない。
以前言われた窮屈だぞ、というシュラの言葉も今では少しわかってきた。
だから、こうして志摩に会っているのかもしれない。
ふいに、志摩に呼ばれた。
なんだよ。と返す前に唇を塞がれる。
「おやすみ。奥村君」
「・・・お前もしかしてこれが目的なんじゃねーの」
「そうとも言う」
触れるだけのキスは何の味もしなかった。
真夜中の待ち合わせの、さよならの合図だ。
「じゃあ、俺あそこの角で曲がるわ」
「じゃ、俺は直進で」
そこまでの距離をいつもよりゆっくりと。
監視のない道を、ちょっとそこまで二人で歩く。
これが俺たちに許されたささやかな戯れ。
「ここにいるお方をどなたと心得る!
虚無界の魔神様の実子にして唯一の力を受け継ぐ若君様であらせられるぞ!
警察などという人間に拘束されて良い方ではないのだ!なぜそれがわからんのだ!」
白鳥、ことアスタロトは堂々と言い放った。ここは交番だ。
時間帯は深夜。アスタロトの隣で燐が机の上につっぷして泣いていた。
もう嫌だ。帰りたい。と泣きながら訴えていた。
警察は燐に同情しつつも、これも仕事のうちなんでね。
ごめんね。と言葉をかけながら調書を書いている。
「で、なんで学生さんなのに深夜の繁華街なんかにいたの。
疑われるようなことするからこうなるの。わかる?」
「だから俺は学生じゃない!俺はもう立派な大人なんだよ!」
「そうだ!こちらの方は王子と呼ぶにふさわしいお方なのだぞ!」
「・・・これはあれかな。そういうファンタジーごっこが今の若い人には流行ってるの?
それともゲームの中の話かなぁ」
警官は先ほどから堂々巡りの会話にやや疲れた声をあげた。燐だってそうだ。
ことの始まりは燐が深夜、祓魔師としての任務に向かう途中のことだった。
朝から立て続けに任務についており、
乾いた喉を潤そうと自動販売機でジュースを買っていた所。
見回りを行っていた警官に声をかけられた。
「なんで学生さんがこんな深夜にうろついているのかな?」
「は?」
燐は自分の背後を見た。人はいなかった。
燐は立派な成人だ。高校を卒業して、祓魔師としての資格も取った。
まだ魔神を倒すまでには至っていないが、祓魔業で立派にお金を稼いで税金も払っている。
ただ、一つ問題があるとすれば十五歳の時点で悪魔として覚醒したため、
肉体的な成長が見られないことだ。
燐は年は取っているのに、見た目は若々しい十代という人間社会では非常に困った外見をしている。
未成年は深夜に出歩くことは日本では許されていない。
つまり、これは俗に言う補導であった。
「ちょっと一緒に来てね。保護者の人に連絡するから」
「え、ちょ待って待って!!俺これから仕事があんの!」
「仕事?こんな時間にかい?いかがわしい仕事じゃないの?
こんな時間に未成年働かせるなんて」
「いえ、だから誤解です!!」
燐は中学の時点で何度も補導された経験がある。
そして経験上補導されるとすごくやっかいなことになることも理解していた。
一度交番まで連れて行かれると、保護者なる人物が迎えに来るまで帰れないのだ。
昔は父が迎えに来てくれたが、その父ももういない。
二十歳になるまではメフィストが後見人になってくれていたが、
成人しているのだから連絡するわけにはいかない。
雪男は一足先に任務の待ち合わせ場所に行っているはずだ。
もう燐は成人している。頼れる者は己自身。
ここは伝家の宝刀、祓魔師免許を見せて無実を証明するしかない。
あれには生年月日も書いてある。燐はポケットに手を入れた。
しかし、そこにあったはずのものがない。
「え?え?ない!!」
落としたのか、いや。記憶を探るとなくしたわけではない。
忘れたのだ。確か今日免許証も携帯も家に忘れて、同僚に頼んで雪男に連絡してもらった覚えがある。
それを受け取るのは今回の任務先だったはずだ。
つまり、今携帯もなければ免許証もない。
燐には自分が何者であるかを証明する物がないのだ。
あわてる燐の腕を掴んで、警官は連れていこうとする。
どうしよう。このままでは任務に間に合わないどころかピンチだ。
燐がいくら未成年ではないと言おうが、経験上相手には通じない。
だれか知り合いでも通らないだろうか。燐は辺りを見回した。
すると、誰かが慌ててこちらに近づいているのが見えた。
燐はその姿を見て絶望した。
「若君!どうされたのです!?」
「お、お前なんでこんなとこいんだよアスタロト!
あ、さては今回の任務の騒動もてめぇのせいか!」
「若君にお会いしたい一心で・・・その」
白鳥に取り憑いているアスタロトはもじもじと指を合わせて恥じらうが、可愛さなど微塵もない。
任務の内容は腐の眷属が繁華街で大暴れしているという通報が入り、その駆除が目的だった。
アスタロトは燐のことを崇拝しているようで、ことあるごとに事件を起こして燐に会おうと画策していた。
なぜなら広範囲の汚染に対応できるのは今のところ燐の青い炎しかないからだ。
それをいいことにアスタロトはやや過剰な主従根性を燐にぶつけてきている。
燐はそれに対して心底迷惑だと思っているのだが、それに気づくアスタロトではなかった。
彼は悪魔で自分の欲に忠実なのだ。正直、燐の気持ちは二の次である。
警官はアスタロトに質問した。燐の知り合いかと。
アスタロトが憑いている白鳥は悪魔に何度も取り憑かれるような
性根の腐った外道だが、外見は大人だ。
燐の保護者とも取れるような発言に対して訝しげながらも対応しようとしたのだ。
「君、この子のお知り合い?」
「知り合いではない!下僕だ!」
「・・・そっちの道の人かな?どういったご関係で」
「血縁で言えば異母兄弟と言ったところだろうか。
偉大なる父君は他にも七人の兄弟を作ったが、若君は末の弟にあたる。
しかし、私がお仕えするべきお方だ」
「へぇ九人兄弟・・・すごいね。子沢山だね。近くの組にそんな子沢山なところあったかなぁ」
「全員母親は違うがな」
「・・・複雑なご家庭だね」
「もうやめてくれアスタロト!ますます誤解されてんじゃねーかよ!」
今言ったことはすべて真実だが、一般人に理解されるものではない。
燐もアスタロトも悪魔だ。まず、人間の感覚で語ることが間違っている。
そして、アスタロトはさらなる爆弾発言を繰り返した。
「この場は私が若君をお救いするのが筋というもの!聞け下賤なる人間よ!
こちらの方は悪魔の中の悪魔の王、魔神様のお世継ぎであるぞ!
人間ならば頭を垂れて従うべき高貴なるお方なのだ!
お目通りが叶うだけでありがたいと思え!
普通なら殺しても足りない程だが、これもすべて若君が人間に害を成すなという
お言葉故私は我慢しているのだ!」
「じゃあ君も一緒に行こう。薬持ってないか調べよう」
「俺の保護者候補が薬中確定じゃねぇかああ!!!」
誤解が誤解を生んで取り返しがつかないことになっている。
燐はそれでも連行される間中アスタロトに人間に手を出すなと説得して、
決して警官を殺さないようにお願いにお願いを重ねた。
アスタロトが公務執行妨害に、薬物所持。その上殺人罪まで犯せば
燐は容疑者の家族としてめでたく新聞に載ってしまう。
雪男に顔向けできなくなってしまう。
白鳥も、自分の知らない間に刑務所行きだ。
そして冒頭に至るのだが、延々と続く調書の作成に燐はとうとう涙を流した。
本来ならアスタロトと燐は別々に事情聴取されるのだが、
今回運悪く当番の警官が不在だったのだ。
一人の警官に同じ質問を何度もされて、燐は精も根も尽き果てた。
別々だったらいっそアスタロトを見捨てることも考えれたのに、それも無理だ。
それに、燐は結局人間を見捨てることができないだろうから、
警官と八候王を同じ場所に置いて去ることなどできなかっただろうが。
朝から任務について、深夜まで働かされて、休日出勤当たり前。
魔神の落胤だからと、手当も満足にでない。
そんな職場でもがんばってきたのに。任務に行こうとしただけなのに。
なんで自分がこんな目に遭うのだろう。
神様。俺のことがそんなに嫌いですか。
魔神の落胤だからですか。それでもいくらなんでもあんまりです。ひどいです。
選んだ道は茨の道なれど、二十歳過ぎて補導なんて道はあんまりです。
任務をサボる気なんて更々なかったのに、これでは完全に遅刻だろう。
今まで築き上げてきた信頼が一気に崩れてしまう。
魔神の息子だからとまた口さがない言葉が飛び交うのだ。
ごめん雪男、俺は駄目な兄貴だった。
燐は連日の過酷な労働環境に加えてあまりの世間の理不尽さに涙を流した。
確かに免許を忘れた自分が悪いこともわかっている。それにしたってあんまりだ。
「・・・うっ・・・うう・・・父さん・・・ッ」
唯一頼れる父の名を呼んで、燐は泣いた。その父も今はもういない。
保護者のありがたみが本当に身にしみてわかった。
無条件に自分を守ってくれる存在とはありがたいことなのだ。
アスタロトが泣く燐の背中を撫でながら言った。
「そんなにも魔神様が恋しかったとは・・・不覚でした。
今すぐ虚無界へ帰りましょう若君」
「違ェよ馬鹿!!お前結局それが目的か!!!」
燐がアスタロトをぶん投げた。
警官が暴れる燐を拘束しようとしたところで、全く違う第三者の声が聞こえてきた。
「やれやれ、時間になっても来ないという連絡を受けて来てみれば。
なんて騒ぎですか・・・」
そこにはピエロの格好をしてメフィストが立っていた。
足下にはアスタロトが伸びており、それをふんずけて交番の中へと入ってくる。
雪男から連絡を受けて探していれば、一つの交番から上級悪魔の気配が二つも出ているではないか。
メフィストはアスタロト対策の為かピンクのマスクをつけており、
怪しいことこのうえなかったが、極限状態に陥った燐には正に救いの主と見えた。
そして、普段なら絶対に言わないであろう言葉を口にした。
「お、お兄ちゃーーーん!!!」
そのままメフィストに抱きついた。
燐に投げ飛ばされて伸びていたアスタロトは、メフィストにより祓われて虚無界へと強制送還された。
白鳥の体はこの際目覚めるまで警官に預かってもらうことにする。
メフィストは人間界でも正十字学園の理事長という立場があり、燐の後見人でもあった人物だ。
権威ある人物による身元保証により、晴れて燐は自由の身となった。
「それにしても、君から兄として扱われるとは貴重な体験でした。
一種のプレイのようですね。興奮しますね。ねぇもう一回言ってくださいよ奥村君」
にやにやしながら語る姿は、まさしく悪魔のようだ。
今回の燐の不遇を心の底から楽しんでいる。
燐は顔を真っ赤にして二度と言うかと怒鳴り散らしている。
この男に弱みを見せてしまったのは奥村燐一生の不覚だ。
雪男にこの男を兄呼ばわりしたことがバレれば、きっと恐ろしい目に遭うだろう。
月明かりの中、二人を見送る警官は、こうつぶやいた。
「長男がピエロで、下僕扱いの兄がいて。
高校生の末弟が跡継ぎ・・・か。どこの組かマークしておいた方がいいのかなぁ」
結局誤解は解けないままだ。
悪魔の家庭は複雑怪奇なのである。
メフィストは騎士団からの回線に通信が入っていることを確認すると、通話のボタンを押した。
通話相手はアーサー=オーギュスト=エンジェル。現聖騎士だ。
悪魔嫌いで有名なエンジェルはよっぽどのことがない限りメフィストに連絡を取ったりはしない。
今回はそのよっぽどの事に当たるのだろう、メフィストはどうやって
彼に恩を売ってやろうかと考えながら、言葉を発した。
「もしもし、貴方から連絡があるなんて真夏なのに雪でも降りそうですねエンジェル」
「ああ、こちらは雪が降っているがわかったのか。悪魔め」
「え、今夏なのに降ってるんですか」
「吹雪だがそれがどうした」
「・・・いえ、貴方の言葉にいちいち突っ込んでても
前に進みませんね。どうしました」
「ああ悪魔の討伐用に借りていた奥村燐なのだが、
熱で再起不能になってしまってな。取りに来て欲しいのだが」
「は?奥村君が熱・・・?」
「すごいぞ、三十七万度八分もあるんだ。日本にいる監視役の奥村雪男とは
連絡が取れなくてな、一応後見人に当たるお前に連絡をとったのだが。
来ないならいいぞ、雪の中にでも突っ込んでおけば熱も下がるだろう」
「それだと悪化するでしょう、っていいです!今どちらですか?
奥村先生は今電波の届かない僻地へ出張中ですからどの道連絡は取れませんし」
「ヴァチカンの地下にある氷結術式の中に突っ込んでいるが」
「だからそれ悪化しますって!」
言うやいなや、メフィストは指を鳴らし急いでヴァチカン地下に続く鍵を出現させた。
あの健康優良児。奥村燐が熱。ただ事ではない。現に夏のヴァチカンで雪が降っている。
天変地異の前触れに違いない。メフィストは燐の心配というよりこれから何が起こるか
わからない点に危機感を覚えて急いでいた。奥村燐は悪魔だ。
それも自分と同じ魔神を父に持つ虚無界でも超上級の。
滅多なことでは死なないだろう。しかし、悪魔が熱を出すなど聞いたことがない。
どういうことなのだろうか。まさか勉強し過ぎて知恵熱が出たのだろうか。
彼ならありうる。
鍵を回して扉を開ければ、そこはもう目当ての場所だ。
氷結術式をはめ込んだ独房で燐は拘束されているのだろう。
きっと寒いだろうな。そう考えてメフィストは急いで燐の元に向かおうとしたが、
扉から一歩中に足を入れた瞬間に驚いた。真夏と呼ぶにふさわしい暑さが房の中全体に広がっていた。
暑い。ここは地下のはずなのに何故こんなにも暑いのか。氷結術式はどうした。
メフィストが熱源の中心にたどり着くと、そこにはいつもの祓魔師姿のアーサーがいた。
「来たか悪魔め、こんな事態でなければ絶対に連絡を取らないのだがな」
「こっちだってそうですよ失礼な。というか貴方暑くないんですか?そんなコート着て」
「大丈夫だ、コートの下は全て脱いでいるので汗はコートが吸収してくれる。
それに生地は夏仕様なので薄手だ。問題ない」
「それ、公然猥褻という意味では問題ある気がしますけど」
メフィストがちらりとアーサーを見れば、なるほど下に何も着ていないことがわかる。
夏仕様、ということは生地が薄い。生地が薄い上に白地となると
どうしても下が透けてしまうのが世の理だ。アーサーはスケスケのコート一枚で、全裸。
しかも汗で生地が肌に張り付いていて体のラインが出て余計に卑猥だ。
大事なところが微妙に見えそうで見えないところがまた絶妙な猥褻行為に当たりそうだった。
視界の暴力から目を反らして、メフィストは燐がいるであろう房を見た。
そこにはじりじりと熱を発しながらもぐったりと横たわる燐がいる。
「奥村君ー聞こえますか?」
「人間では近寄れなくてな、先ほど私も熱に聞くという
ネギを買ってきたのだが使いようがない」
「いや使わないでください。っていうかなんで貴方
日本のマイナーな風邪治療の方法知ってるんですか」
「シュラが教えてくれたのだ、熱を出したら尻にネギを突っ込めばいいのだと。
上司思いの部下を持ったものだ」
「・・・ええそうですね」
おそらくシュラはアーサーのことが嫌いで教えたのだろう。
本人が気づいていないのならそれに越したことはない。
いつか熱を出したときにアーサーが自らの手で尻にネギをねじ込めばいいのだ。
誰に迷惑をかけるわけでもないだろう。
しかし、人間が近寄れない熱を出していなければ、
奥村燐の純潔はネギによって奪われたということになるのだろうか。
恐ろしきは人の親切である。
メフィストは焼け付くような暑さの中、燐に近づいてその額に手を乗せた。
これはヒドい。メフィストの手のひらですら焼けそうな熱だ。
現に燐は苦しそうに胸を押さえてうずくまっている。
その様子にすら悪魔の中の悪魔であるメフィストは興奮を覚えた。
いつも元気な奥村燐が苦しんでいる。それだけでああ、胸が高鳴るじゃないか!
「では、連れて帰りますけどよろしいですね?」
「ああ討伐用に借りてただけだしな、さっさと帰るがいい。
しかしあの討伐した悪魔も倒す前からなにやら苦しそうにしていたのだが、
何か関係があったのだろうか」
「さぁそれはわかりませんね」
メフィストはアーサーの言葉を耳に入れつつ、いつものスリーカウントで燐を連れて部屋に戻った。
燐の周囲が熱で燃えそうになったので、慌てて彼の周りに結界を張る。
結界は熱を吸収して適温となり大気中へ気化するので火事になることもないだろう。
メフィストは天蓋付きのベッドへ燐を寝かせると、着ているものをはぎ取った。
汗で濡れているのでこのままだと余計気持ち悪いだろう。
体に薄手の布をかけてやり、体温を調節できるようにしてやる。
燐は裸に近い格好で、メフィストのベッドに横たわっている。
苦しそうに息を乱し、額には汗がにじんでいる。
こんな場面でなければ扇情的な姿だ。メフィストは燐の耳元に唇を寄せた。
「はしたない子ですね。子供のくせに」
「・・・う、あ」
燐の言葉にならない声はメフィストを刺激するには十分だった。
子供のくせに。メフィストが改めて思うと、脳裏にふと思い当たることがあった。
メフィストは再度アーサーに連絡を取った。
「アーサーだ、ネギは使ったか」
「ネギの信憑性はともかくとして、聞きたいことがあります。
その討伐した悪魔ですが、年齢というか・・・いつ頃生まれたとかわかりますか?」
「わかるぞ、あの悪魔は孵化して間もない。たぶん悪魔の中でも赤子に当たるのではないか。
あの種族は成体になるとやっかいなので生まれてすぐに叩くのがセオリーだ」
「なるほど、わかりました。あとネギはとてもよく効きますよ」
「では今度試してみよう」
「そうしてください」
電話を切ると、メフィストは燐に向き直った。
つまり、孵化して間もない悪魔から移されたのだろう。
燐は悪魔として覚醒して一年にも満たない。
年は十五だが、悪魔としてはひよっこもひよっこだ。
何百年も生きる悪魔にとっては赤子とそう変わりない。つまり。
「これ、悪魔はしかですね。いやぁ懐かしいアマイモンが生まれてすぐなって以来ですね。
あれもぎゃんぎゃん泣きわめいて自力で治るまでうるさいことこの上なかったですが」
数百年も前のことをしみじみと思い出して感慨に耽る。
メフィスト自身も気の遠くなるほど昔になった覚えがある。
悪魔が一番最初になる病気だ。
これを越えてこそ強靱な肉体と病にかからない体を手に入れるのだ。
メフィストは笑いをこらえて燐をみた。
「つまり、こどもがなる病気ってことですよ。
安心なさい死にはしません。死ぬほど苦しみぬくだけです」
それは安心するに値しない言葉だが、燐にはどう聞こえていただろうか。
メフィストは指を鳴らして濡れたタオルを燐の額に乗せた。氷枕を頭に敷くのも忘れない。
あらかた熱に効く処方を施して、メフィストは悪魔の甘言を燐に囁いた。
「それとも、今ここで大人にして差し上げましょうか?」
燐の体にかかっていた布を際どいところまではだけさせる。
今燐の意識はないに等しい。こどもを大人に変化させる方法。
それはメフィスト自身の手で燐の純潔を散らすということだ。
それはとても甘美な響きに思えた。
ここでいう子供から大人になるということは、
大人の体液を介して子供にはしかの抗体を移す行為に当たる。
それは大人同士の夜の営みから親子の親愛のキスまで様々だが、
メフィストが親愛のキスで終わらせるような輩ではないことは明白だ。
「とても楽になりますよ、快楽に身を任せていればすぐに治ります。奥村君、どうしますか?」
メフィストの手が燐の体をなぞる。
燐は身を捩ってメフィストから逃げようとするが、それを許すメフィストではない。
どうしますかと疑問を投げておきながら有無を言わさない強引さだ。
燐はうっすらと目を開けた。潤んだ瞳がメフィストを見上げている。
メフィストは燐に色事を仕掛けるべく顔を近づけた。
そして、燐の腕もメフィストの首に回される。
同意の合図、そうとってメフィストは事を起こそうとしたのだが。
「ッ!!!」
引き寄せられ、口づけが行われるかと思いきや。
燐の口はメフィストの首もとに寄せられた。
そして鋭い牙でメフィストの肌を食い破ると、その血をワインのように飲んだのだ。
自分より大人の悪魔の体液、といえばこの場で該当するのはメフィストしかいない。
しかしそれはメフィストが望んだやり方ではなく、半ば奪い取るように燐は抗体を手に入れた。
血を飲むという野蛮な方法で。
口元は赤く染まり、徐々に燐の熱が下がっていく。
それに苛立ったのかメフィストは燐の頬を打った。
「しつけのなっていない子だ!」
赤くなった頬から、すでに熱は引いていた。
燐はぐらりと揺れる頭を戻して、メフィストの方へ向き直った。
そして汚い物を吐き出すように口に溜まっていたメフィストの血液を吐き出す。
「てめぇの思い通りなんか、に・・・なるかよ」
ギラリと光る鋭い視線にメフィストは射ぬかれる。
ああそうだこの瞳だ。反抗的で言うことを何一つ聞こうとしないじゃじゃ馬の瞳。
この意志をねじ伏せることにメフィストはこの上ない快楽を感じてしまう。
「いいですね奥村君、私としたことが胸が高鳴ってしまいました」
なければ他者から奪い取る悪魔としての基本をこの末の弟は起こしたのだ。
長兄として喜ばないわけにはいかない。
この弟は人間でありたいと願いながら悪魔としての本能も同時に生きている。
だからメフィストは奥村燐から目をそらせられない。
先ほどの怒りが嘘のようにメフィストは燐の虜になった。
燐は赤子の時を脱して、大人としての第一歩を踏み出したのだ。
「今日はお祝いです、お赤飯炊かないといけませんね」
「言ってろクソ野郎」
そして、その夜はお赤飯を炊いてお祝いということになり、
燐とメフィストの仲を誤解した雪男が出張先から突撃してくることになった。
「フェレス郷。熱にはネギがいいそうです。昔神父が言っていました」
「くっ、一連のネギ事件の犯人は藤本でしたかッ!!」
その夜は赤飯を持ってネギから逃げる悪魔がいたそうだ。