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CAPCOON7

青祓のネタ庫

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家族の帰る場所



燐の目に入ってきた光景は単純なものだった。
怪我をした弟。
その先に立つ敵。


次の瞬間。燐は雪男の目の前から消えていた。
雪男の背後で、ぐしゃりと何かがつぶれる音がした。
振り返れば、そこには悪魔を殴りとばしている燐がいた。
悪魔を守る黒い影は、燐に反応できなかったようだ。
悪魔の顔に、拳が入っており体がぐらりと揺れる。
雪男が止める間もなく、第二撃が入る。
悪魔の体は床に倒れ込んだ。燐の力は普通の人間のそれではない。
紛れもなく、悪魔のものだ。
幼稚園の時には神父のアバラを折り、同級生に大けがをさせた力。
そして、その力の源はすべての悪魔に通じる悪魔。魔神のもの。
防御しようとしたのだろう、悪魔の影が燐の片腕を捕らえた。
燐はまだ、魔障を受けていない。悪魔の姿も、影も見えていないだろう。
しかし、何かが自分の動きを封じたことはわかったようだ。
燐は残った腕で、悪魔の体を殴った。悪魔は床に倒れ込んだ。
燐は頭に血が上っていて不良の様子がおかしいことにも、雪男が銃を持っていることにも、気づかなかった。
悪魔は確かに笑っていた。燐の人ならざる力で殴られて、口から血が出ていたのに笑っていたのだ。
雪男はその狙いに気づく。
悪魔が取り憑いているとはいっても、その体は生身の人間だ。
悪魔の憑依。度重なる戦闘。そして燐の攻撃。
普通の人間が耐えられるわけがない。
悪魔は、燐に人間を殺させようとしているのだ。
燐は、倒れる悪魔の胸ぐらを掴んだ。

「言ったよな。家族に手出すなってッ・・・許さねぇ」

背を向ける兄の姿を見て、雪男はぞっとした。
冷たい言葉だ。表情は見えない。
兄は、あの優しい兄は今いったいどんな顔をしているのか雪男からは見えない。
燐の腕が、また上がる。
雪男は持っていた銃を捨てた。
燐の背中に、すがりつくようにして叫ぶ。

「ダメだ!!!!兄さん!!!」

殺しちゃダメだ。戻れなくなる。
やめて、お願いだ。
兄さんが兄さんじゃなくなってしまう。
そんなのイヤだ。

悪魔になっちゃうなんてイヤだ。

燐は、怒りのせいか雪男をも振り払おうとした。
その手を雪男は全力で止める。
すごい力だ、振りほどかれそうになる。
だが、ここで燐を止めるのは雪男の役目だ。ここには雪男しかいないのだから。
悪魔としての力を使おうとしている燐を祓魔師としての雪男は銃で撃つべきだったかもしれない。
それをしなかったのは、雪男の甘えだ。覚悟はできていたのに撃てない。
銃を捨ててしまった。
悪魔としての本当の力に目覚めていない燐。
まだ、兄は人間だ。いつか来るその時を、今はまだ見たくない。
雪男は自分の心の悲鳴を聞いた。

変わらないで。
まだ、このままがいい。
まだ、三人で、あの家で暮らしたい。
帰ろう。ここは、兄さんがいる場所じゃない。
僕や神父さんがいるから。
お願いだから、僕たちに兄さんを守らせてよ。

「離せッ!!!」
「イヤだ!!!!」

雪男の声で燐は初めて背後を振り返った。
そこには、髪を振り乱しながらも自分を止める弟の姿が。
雪男の目は悲しそうだった。必死だった。
こんな雪男はそれこそ、見たことがない。
燐は、途端に怖じ気づいてしまう。

どうしよう、雪男にみられてしまった。
こんな、喧嘩ばっかりする俺の姿。
見られたくなんかなかった。
ただ、俺は。
守りたかっただけなんだ。

燐の腕から力が抜けていく。
雪男は燐を背後から抱きしめるようにして止めていた。
間に合った。
燐はまだ人間だ。

目の前の悪魔は、それが気に入らなかったらしい。
黒い影が、燐ごと雪男を吹き飛ばした。
教室の壁に背中を打って雪男はせき込む。
腕には、燐を抱えていた。
燐は頭を打ったのか、ぐったりと雪男にもたれ掛かっている。
雪男は、落ちていた銃を拾う。
銃弾を装填。
悪魔は呟く。

「我らの・・・若ぎみ」

悪魔は燐に手を伸ばす。
雪男は悪魔の言葉を許さない。
迷い無くトリガーを引く。
目の前の悪魔に、雨のように銃弾が降り注いだ。
撃って撃って撃って撃って。
悪魔の足が少しだけ、後退する。
これ以上、近寄らせるわけにはいかない。
弾丸は黒い影がすべて弾く。悪魔には届かない。
同時に雪男は怪我をした手で、十字を切った。
「邪悪なる物の行動を禁ずる!!!」
悪魔の足下、聖水が動きを縛る。
雪男の手持ちの聖水は、切れている。
今悪魔の足下にあるのは、結界を張る為に聖水で設定した中心点だ。
電気が伝って無効化されたのは、五点で結ばれた線の方だった。
独立した点は、まだ生きている。
陣もなにもあったものではないが、少しの足止めくらいはできる。
腕に抱える燐の体を自分の方へと抱きしめて、雪男は、動けない悪魔に向けて言う。

「兄さんは、僕たちの家族だ」

おまえ等なんかにやるもんか。

ドン、という音と共に悪魔は倒れた。
周囲の黒い影も、霧散して消えていく。
黒い影の中から、不良が出てきた。意識はない。
聖水入りの弾丸と銀弾が利いたのだのだろう。
ぐったりと床に倒れ込んでいる。
おそらく、彼は長時間適合しない悪魔を体に取り込んでいたので、体を害している可能性がある。
日常生活に戻るまで時間を要するかもしれない。
だが、息をしていた。
彼は生きている。彼自身が変わらなければまた悪魔に取り憑かれるだろうが。
危機は去ったのだ。
雪男は額から流れ落ちた汗を拭って、腕の中にいる燐の様子を見た。
顔色が悪い。どうしたのだろう、打ち所が悪かったのか。
焦って状態をよく確認すれば、燐の腹からドス黒い血が流れ出していた。
「にいさ・・・傷が!!まさかッ」
黒い影に吹き飛ばされた時に、雪男の前に燐は立っていた。
黒い影の攻撃を、一人で受けたのか。
雪男に怪我をさせないために。
なんてことだ。雪男は燐の上着をたくしあげた。
血が出ている。傷口をよく見ないと、状態がわからない。
動揺して揺れる雪男の手を燐が握った。
そこには、燐が雪男を突き飛ばしたことでできた傷があった。

「雪、男・・・怪我させて。悪い・・・俺・・・」
「そんなこと、今はどうだっていい!兄さん意識を持って!!寝ちゃだめだ!!」
「ごめん、な・・・」

謝罪の言葉を最後に、ぐったりとした燐を床に横たわらせる。頭が混乱する。まずは、止血を。布が。
動揺しているせいか、手が言うことを聞かない。
雪男は自分の頬をひっぱたいた。
ここで怯えてどうする。
冷静になれ。何のために、僕は医者になろうと考えた。
兄さんの傷を治せる人に。人を助けられる人になりたかったからだろう。
僕を守って傷ついた、兄を助けるんだ。
雪男は応急処置をする為に、燐の傷口をよく確認しようとした。
声が聞こえた。教室のスピーカーから流れてくる。

『見た、ぞ・・・奥村燐・・・我らが若君は・・・生きておられた!』

ぞくりとした寒気。雪男は思い出す。
藤本は言っていた。この学校が廃校になった理由を。
「祓魔師でも祓いきれない悪魔がいたってこと?」
「下っ端の悪魔自体は祓えるんだけど、どうにもその親玉が見つからなかったらしい。
出入り禁止にして、結界で封じておいたらしいが・・・」
あれは、下っ端の方の悪魔だったのか。
悪魔はまだ、いる。生きている。兄を連れていこうと見つめている。
雪男は悪魔の視線から隠すように燐に覆い被さった。
すると、放送に雑音が入る。雪男の表情が変わった。


「俺の息子が何だって?」


藤本は誰もいない放送室に向けて話しかけた。
返事はない。夜の闇だけでは説明できない黒い闇の中。
藤本の勘は確かにここに悪魔がいると告げている。
ブツリ。という電子音が聞こえて、闇の中に声が生まれてきた。
『貴様・・・祓魔師か・・・』
「そうだよ、お前には手を焼いた。
以前も部下から報告だけは聞いていたんだがな、もっと前に俺が来ればよかったよ」
そうすれば、こんな面倒なことにはなっていなかった。
燐も雪男も巻き込まれなかっただろう。
藤本は内心舌打ちをした。
少しでも兄弟に危険が及ぶ可能性があるのならどんな小さな芽でも摘んでおくべきだった。
「燐を、どうするつもりだった」
『簡単なこと。我らの若君をお連れするだけだ』
「首謀者は誰だ」
『わかっているのだろう、偉大なる君のことを』
「ッチ・・・虫酸が走るな」
『しかし、若君は未だお目覚めにならない・・・
体を暴いたが、尾も牙もまだない・・・どういうことだ、人間風情があの方になにをした』
「・・・てめぇ。今なんて言った?」
体を暴いた。脳裏をよぎったイヤな予感に、悪魔は下品な笑い声を返す。
『味見をさせていただいたのだ。お体を隅々までな。
その体に流れる全てのものが、悪魔を高ぶらせるものだと気づいた。
イヤだと抵抗されればされるほど、その身に眠る力は強くおなりになられた。
あのお方はやはり・・・魔神様の』

藤本は、持っていた見取り図を放送室のマイクに向けて投げる。
がん、と音がして、悪魔の声が揺らいだ。
これ以上聞いていると、なにをするか自分でもわからない。

「いるんだろ、『そこ』に。どうりで親玉が見つからないわけだ。目に見える部下はおとり。
部屋自体にに・・・放送室に悪魔が取り憑いているとは誰も思わなかったんだ」

藤本が床を蹴れば、キイインという反響音が響いた。
ここは、悪魔の腹の中。放送室に取り憑いた姿なき悪魔。
不良に取り憑いていたのは、こいつのほんの一部分。
手足がちぎれても、頭が残れば何度でも蘇る。
藤本は、この悪魔を生かすつもりはない。
頭を潰しても残るのならば、何度でも殺して、二度と起きあがれないようにしてやる。

バチバチと音を立てて、放送室に雷が走る。
藤本は、聖水を取り出してマイクに投げた。
聖水が飛び散る。しかし、雷は聖水を物ともせずに弾いた。
雪男の結界を壊したように、電気で聖水を無効化したのだ。
それを見た藤本は、再度聖水を投げる。
放送室に響くのは、聖水を排除する電気音と、悪魔の声。
マイクや機材とは離れた床の上にまき散らされるそれを、悪魔は見逃さない。

(親子だな・・・戦術が同じだ。同じ手を食うか!)

藤本の狙いが、結界を張ることだと踏んで悪魔は聖水を焼き付くした。
何度か聖水をまかれるが、同じだ。
藤本が聖水を投げる手をやめたのを見計らって、悪魔は藤本に狙いを定める。
どんなに早く自分を祓おうとしても、それよりも早く相手を殺す自信が悪魔にはあった。
なによりも早く人間の心臓を貫いて、息の根を止めてやる。
今までのように。恐怖で染まる人間の顔。
死を予感して、慌てふためく姿を楽しみながら殺してやる。
次は、あの祓魔師の息子だ。
父の丸焦げになった姿を見せてやる。その絶望を味わわせてから殺す。
そして、邪魔物を排除した暁にはあの方を虚無界へお連れするのだ。
人間の世界に捕らわれているあのお方を。我らの若君を。
我らのもとへ。喜色ばんでいる悪魔とは対照的に、目の前の藤本は冷静だった。
放送室の、マイクの元へ。何かを向けている。
あれは。悪魔はぎくりと体をこわばらせた。

「変わった悪魔だな・・・まさか、電気を媒介に取り憑く悪魔がいるとは思わなかったよ。
この放送室全てに流れる電気。それがお前の正体だ。汚染された電気で、聖水を無効化とは恐れ入った」

姿のない悪魔。声は、放送室の機材を操って出していたのだ。
実体があるようで、人間の目には触れない悪魔。
以前ここを訪れた祓魔師が見つけられなかったのはそのためだろう。
言葉とは裏腹に、藤本の顔はなんの感情も見いだせない。
冷静で、冷酷な。男の顔。
藤本が、手に持つもの。それは、悪魔が持っていたものと同じ型のスタンガンだ。
ここは、不良が根城にしていた場所。予備があっても不思議ではない。
スタンガンの矛先は、悪魔の本体ともいうべき放送機材に向かっている。
悪魔は、スタンガンを破壊しようとした。
しかし、どうだろう。体が引っ張られる。なんだ。これは。
見れば、自分は無効化したはずの聖水に引っ張られているではないか。
バカな。これはただの水なのに。

「水ってさ、電気を通すんだってな。気づかなかっただろ」

聖水を部屋にまいたのは、この為か。
雪男がやったように、結界を張って足止めするようなやり方ではなく。
もっと原始的なやり方だ。水は電気を通す。取り付いた物質の性質が、悪魔を水に引き寄せる。
悪魔は、藤本を殺そうとした。しかし、藤本の方が早く、無慈悲にスイッチを押す。
悪魔が取り憑く機材に流れる、高圧の電流。己のものとは異なる電気。
機材が電気できしみ、悲鳴を上げる。それは悪魔の悲鳴だった。

『ギャアアアアアアアアアアアアアアア!!!!』

そして、スイッチをそのままにして藤本はドアを開けた。
去り際に、口元でピンを外して、中にそのまま投げ込んだ。静かに扉を閉める。
直後。背後で、爆発音が響く。電気と爆炎で、放送室は跡形もなく焼け落ちていく。
どうせここは、廃校だ。いまさら部屋の一つや二つ壊そうがなにも気にならなかった。悪魔は残らず焼け尽くされる。影も残すつもりはない。
藤本は、手榴弾のピンを口元にくわえてたばこを吸うような動作をした。
喫煙していた時の癖のようなものだ。
今、肺の中に入る煙は背後の放送室が、悪魔が焼け落ちたものだ。

「あいにく、俺は雪男みたいにスマートじゃないんでね」

周囲の迷惑を省みず、悪魔を祓えばオールオーケー。
それが冷徹と恐れられた藤本獅朗のやり方だ。
双子を引き取ってからは、なりを潜めていたのだが、
若い頃に身についた手法というのはやはりなかなか抜け出せないらしい。
たばこじゃないし。まずいな。と独り言を言って、
藤本はピンを床に吐き捨てる。藤本は駆けだした。
父の向かう先はひとつ、息子達のところだ。


階段を上がれば、廊下まで破壊された一角があるのが見えた。
藤本は、急いで教室の中を見た。
雪男のことだ、うまくやってくれるだろうと言う信頼はあるが、雪男も怪我をしていた。心配だった。
見れば、服を血塗れにした雪男が教室で座り込んでいた。

「雪男・・・!大丈夫か!!?」

藤本が駆け寄れば、雪男はこくりとうなずいた。
痛がるそぶりもない。これは、返り血か。
雪男の目の前には、腹から血を流して横たわっている燐がいた。
藤本の表情に焦りが見える。

「燐・・・ッ」
「だいじょうぶだよ。神父さん」

雪男は藤本を落ち着かせるように言葉を発すると、燐の上着をめくった。
そこには、大量の血液がこびりついている。
しかし、目立った外傷は見あたらなかった。
どういうことだ。藤本は燐の体に手を当てる。
この出血量なら、間違いなく致命傷なのに。
藤本は、気づいた。雪男は俯いている。
何かに耐えるように、じっと手のひらを握りしめていた。
その手を取って、藤本は雪男に話しかける。

「話せ、雪男。聞いてやるから」
「・・・うん」

雪男は燐の意識がないことを確認してから、ぽつりぽつりと話し始めた。

「兄さん、僕を庇って悪魔の攻撃を受けたんだ。すごい血が流れてて。
兄さんが浚われる前、僕たち路地裏で喧嘩したんだ。兄さんがお前には関係ないって言うから頭にきてさ。
その時に喧嘩して腕怪我しちゃったんだけど。兄さん、それがすごくショックだったみたい」
「・・・そうか」
「だからかな。怪我をしてたのに、僕に謝るんだ。ごめんって。
僕、急いで兄さんの傷を見たよ。傷。神父さんも見た?」
「ああ、傷。なくなってた。燐は大丈夫だ」

悪魔の治癒力。人間なら致命傷だろうそれも、悪魔である燐にとっては問題にならなかった。
傷は、常人ではあり得ないスピードで塞がっていた。

藤本は、雪男の言いたいことがわかった。
人間ならば、腹に受けた傷がこんな短期間で治るわけがない。
つまり、今日あったことは燐にとっては夢の中の出来事だと思わせるしかない。
そうでなければ、燐が自身の「異常」に気づいてしまう。
受けた傷がなくなっているのだ。おそらく信じるだろう。
燐が、まだ人間としていられる日常に帰ることができる。

「僕さ、思ったんだ。よかった。これなら。まだ。嘘、つけるかなって・・・」

いつか来る燐の目覚め。同時に失われてしまう日常。
それが、まだ続けられることにひどく安堵している自分がいる。
打算的に動く頭。嘘がばれることに怯える心に。
自分への嫌悪感が止まない。
藤本は、雪男の頭を撫でた。大きくて暖かい手だ。
それに包まれて、雪男は顔を上げた。

「あんまり、背負いこむなよ」

家族で過ごす日を一日でも長く持ちたい。
例え嘘があったとしても、その思い出はいつか来る別れの日の支えになるだろう。
それを信じて藤本は戦っている。雪男もそうだ。
嘘つきだと言われても、それが今の二人の真実だ。
藤本も、ふと思うときがある。
燐に、嘘つきだと糾弾されて自分は平静でいられるだろうか。
藤本も、雪男も。同じものを抱えて生きている。
この選択が吉とでるか凶とでるかはわからない。
それでも、それを最善だと信じて生きている。

「帰ろう雪男。帰ったら燐にうまいものいっぱい食わしてもらおうぜ」
「・・・神父さんは湿布も貼ってもらわないとね」
「ははは、そうだな」

藤本は雪男の肩を叩く。
大きく息を吸って、吐き出す。
雪男は、もう俯かなかった。




「・・・あれ?」
燐が目を覚ますと、見慣れた天井が見える。
ゆっくりと起きあがると、そこは神社でもなく、公園のベンチでも、ましてや廃校でもなかった。
家だ。修道院に帰ってきている。
いつの間に。しかも、自分は怪我をしたはずだ。
燐は自分の服をめくった。そこにはあったはずの傷はない。
確かに、血が大量に出ていたはずなのに。
触ってみるが、特に痛みも感じなかった。どういうことだろう。
混乱していると、ドアが開いた。雪男だった。
びくりと体を震わせる燐にかまわず雪男は言った。

「やっと起きた。兄さん、不良に突然殴られて気絶するんだもん。
あの後大変だったんだよ。神父さんも呼んで危うく警察沙汰になるところだったんだから」
「え?そうなの?・・・俺確か校舎に行って」
「夢でも見たんじゃない。それよりも。兄さん、僕に言うことない?」

雪男はずいっと自分の腕を燐に見せた。
そこには真新しい包帯が巻かれている。
燐はそのシーンを思い出したのか、顔を真っ青にしてベッドの上で雪男に向かって土下座した。

「ごめん!雪男!俺、お前に怪我させちまった!」
「いいよ、かすり傷だしね。それより、神父さんの腰に湿布貼ってあげてよ。
年なのに。兄さん捜してあちこち走り回ったんだからね。早く顔見せて安心させたげて。まったく」
「・・・わかった」

燐はすごすごとベッドから降りて、リビングの方へ向かっていった。
途中そっと自分の腹に手を当てる。
雪男は、怪我をしていた。治ってなんていなかった。
自分がいくら怪我の治りが早いといっても、こんなスピードで怪我が治るなんておかしい。
雪男の言ったとおり夢を見たんだろう。
燐は、一抹の不安を覚えながらも自分を納得させるようにそう思い込む。
雪男は背後から声をかける。

「兄さん、僕今日は魚料理がいいなー」
「ああ、ったくわかったって!!」

ばたばたと足音を鳴らして燐は出ていった。
様子を見た限り、燐が魔障を受けたような形跡はなかった。
普通悪魔に傷を付けられたら魔障を受けるのだが、
やはり燐の体に流れる上級悪魔の血が魔障を受け付けないのだろうか。
まだ、この日常は壊れない。
雪男は部屋の中で一人、暗い気持ちに捕らわれる。


本当に謝らないといけないのは僕のほうなんだ兄さん。
僕を庇って怪我をして、家族を庇って一人になった。
そんな兄さんのやさしさをなかったことにして、僕は嘘をつくんだ。
本当は。本当は。本当は。
言えば、キリのない言葉を、雪男は飲み込む。
兄がいる日常に戻れた幸せと、嘘をつく自分への自己嫌悪。
雪男は、そんな兄との日常が、好きだし。
嘘をつき続ける自分は、やはりもっと大嫌いだった。

ふと、声が聞こえてきた。リビングの方で、兄が自分を呼んでいる。
どうやら魚がないので買い物に出かけるらしい。
自分も荷物持ちに来いと、文句を言っている。
しかし、その声にトゲはない。
兄が、自分を呼んでいる。それだけで、雪男の心は温かいものに包まれる。
暗い気持ちが、消えていく。

「今、行くよ」

呼ぶ声が聞こえる方へ。その声をなくさないように。

苦い思いを飲み込んででも。
雪男は何度でもこの道を選ぶのだ。


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