青祓のネタ庫
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候補生が祓魔師の補佐として任務に同行するのは別段珍しいことではない。
祓魔師は万年人手不足だ。
雑用やその他の用事をこなす、いわゆる下っ端という人材は誰しも欲しい。
そんなわけで、祓魔塾の生徒というのは、扱いやすい雑用係りとして使われるのが、常だった。
魔障を受けているので悪魔は見えるし、ある程度の祓魔技術もある。
それに、自分のことはそれなりにできる高校生という立場だ。
特に、長期休暇の時などは候補生は実践任務と称して、大量の雑用が割り当てられる。
今期の祓魔塾の生徒たちも、そうだった。
しえみと出雲は薬草採取。京都組はチューチとゴブリンの駆除。
人手がいるものばかりだ。
奥村燐も例に漏れず、雑用任務の最中のことだった。
引率の椿に引き連れられて、燐は巨大バリヨンの採掘をしていた。
バリヨンは、人の多い地域では取れにくいため、必然的に山奥の秘境と呼ばれる奥地に行くことになる。
祓魔師は鍵という便利な道具が使えるので、正十字学園から、人里離れた山奥まで一瞬で移動が可能だ。
今回も、寂れた山小屋に繋がり、河原で採掘をしていた時。
椿の携帯に連絡が入った。雑音混じりだが、緊急を要するもののようだった。
声にあせりが浮かぶ。
「ナニ!?わかった、すぐに向かうのダガネ!」
携帯を切ると、椿は燐に向かって叫んだ。
「奥村君、すまないが緊急の任務が入ってしまった!
扉は開けておくから、そのバリヨンを採掘したらいったん学園に戻るように!」
燐は百キロはありそうなバリヨンを抱えながら、へーい。と椿に返事を返す。
椿は、燐の返事を聞くやいなや、扉に向かってすっとんで帰っていった。
燐は、耳に入ってきた電話のやりとりを思い出す。
『ああん、あなた。家に帰れなくなっちゃったの。来てー』
『それは大変だ子猫ちゃん!今すぐ行くからそこで待ってるんだよ!』
こんな時、悪魔特有の聴覚って便利だな。と燐は思う。
まぁ監視役がいなくなって身軽ではあるので、
さっさと学園に帰って夕ご飯の準備でもしようかと考える。
今ならスーパーのタイムセールに余裕で間に合う時間だ。
長期休暇中は任務と称して雑用ばかりさせられていたので、たまにはゆっくり休みたい。
今日のおかずはなにがいいだろうか。雪男は魚派だが、燐は肉派だ。
しかし、寮にはクロもいるのでクロの意見もたまには聞いてやるべきだろうか。
さすがに、酒の肴をリクエストされたら困るが。
頭の中で献立を組立ながら燐は、バリヨンを抱えあげる。
バリヨンが「あああああ」と変な声を上げている。どうしたのだろう。
気にせず、そのまま山小屋の扉に押し込んだ。
めき、というイヤな音が響くが燐は気づかない。
「入りにくいな・・・これ。どうしよう、割るべきか?」
サイズの合わないバリヨンを小さな扉に詰め込まれて、扉は悲鳴を上げている。
しかし燐はいけるいける。と楽天的な気持ちで、もういちど力技で押し込んだ。
入った。バリヨンは、無事学園の祓魔塾前の廊下に転がり込んだ。
同時に、山小屋が盛大な音を立てて崩れ落ちていく。
「うおおおおお!!??」
とっさに飛びのいたおかげで、建物ごと潰されるのは免れる。
ほこりと木くずが舞って、小屋が只の廃屋になってしまった。
燐は、少し考えてから小屋の扉があった辺りをぺしぺしと叩いてみた。
特に、空間が繋がっているような感じはない。試しに、頭を突っ込んでみた。
特に、瓦礫でできた暗闇以外に出口のようなものはない。
燐は一呼吸おいて考える。
「・・・これは・・・まさか」
学園に続く扉が壊れてしまった。
祓魔師ならば、鍵を使って別の扉から学園に帰ることが可能だろう。
しかし、燐は候補生だ。学園に続く鍵など持っていない。
つまり、燐は人里離れた辺境の地に一人取り残されてしまった。ということだ。
しかも原因はバリヨンによる扉の破壊。言い訳のしようもない。
「やばい!ぜってぇ雪男に怒られる!!」
燐は急いで携帯電話で連絡を取った。
シュラにつながる番号をかけるが、しばらくして電子音が聞こえてきた。
おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか。
燐は即座に電話を切って、他の塾生に連絡を取る。
結果は、同じだ。誰にもつながらない。
携帯の電波を確認するが、辛うじて一本立っているくらいだった。
燐がこんな辺境の地に飛ばされて来ているのだ。
他の塾生も、似たり寄ったりなのだろう。誰にも、連絡が取れない。
最後の望みに縋って、雪男にもかけてみたが、無情にも電子音が響くだけ。
雪男もシュラも、同じく引率をしているのだろう。
燐は、諦めて電話を切った。携帯の電池も残り少ない。
当然、充電器もない。携帯が最後の命綱だ。
電池をくわないように、節電モードに切り替えて、ポケットにしまった。
空を見れば、青空から打って変わって茜色に染まりだしてきている。
遠くの方には雲も見えた。木々の隙間から闇の色が段々と出てきていた。
辺りは、もう暗くなり始めている。このままこの河原にいてもどうにもならない。
夜に川沿いにいるのは危険だ。
山の天気は変わりやすいので、山の上で降った雨が、下流で増水しないとも限らない。
ここで、野宿は無理だろう。
燐は、川に沿って走っている道路に目を向けた。
走っている車はいないが、ここにいるよりはましだろう。
燐は倶利伽羅を背負って、道路沿いに歩きだした。
車が一台でも通ってくれたら、
恥をしのんで人生初めてのヒッチハイクをする心構えもある。
車で町の方までいけば連絡のしようもあるだろう。
山の中ではどうにもならない。燐は、暗くなる道をとぼとぼと歩き始めた。
「・・・腹減ったなぁ」
さっきまで夕飯のことを考えていたのだ、ないとなると余計にご飯が恋しくなる。
悪魔である以上、しばらく食べなくても平気だろうが、それでは精神的に参ってしまう。
街頭もない。山の漆黒の闇が燐の行く先をゆっくりと覆い隠していった。
***
勝呂が携帯電話を見ると、着信が一件残っていた。
最近アドレスを交換した燐からだ。
不浄王の一件から、不仲だった仲は改善され今や堂々と友と呼べる間柄になった。
ともだち、という感覚に慣れないながらも連絡を取り合うようにはなっている。
正直言うと照れくさいが、悪くないと思っているのは確かだ。
勝呂はチューチの大量発生した森で駆除にあたっていた。
詠唱による駆除が主だったので、喉ががらがらする。
勝呂はのど飴を一つ口に放り込んで燐に電話をかけようとしたが、
その前に声をかけられた。
「勝呂君、お疲れさまでした。さすがですね」
「奥村先生こそお疲れさまです」
雪男は京都組の引率として森についてきていた。
燐の監視役は相変わらず雪男の役目だが、
不浄王の一件から燐への監視の目は若干だが緩くなった。
いつも一緒というのは、兄弟であれやはり疲れるのだろう。
たまの息抜きのように、兄弟が離れて任務をこなすことも少なくなかった。
もちろん、騎士団は手放しで燐を放置しているわけではない。
雪男の代わりに監視役をするものがいるからこそ雪男の任が外されているのだ。
兄弟が離れるようになってからおよそ一ヶ月。
今の雪男は表面的には平静を保っているが、
離れているからこそ心配がつのるという典型的なパターンに陥っていた。
あの一所にとどまらないトラブルメーカー体質をよく知っているものとしての心構えといえるだろう。
「電話かけるところだったんですか?気にせずどうぞ」
「いえ奥村からなんで、何か用事でもあったかなと思って」
「勝呂君のところにもですか?」
雪男は自分の着信履歴を見た。
確かに燐からかかってきているし、先ほど折り返したのだが通じなかった。
一回くらい通じないのはよくあることなので雪男も特には気にしていなかったのだが。
勝呂の方にも連絡があるというのはどういうことだろうか。
「はい、いつもやったらメールくらいなんですけど。電話は珍しいかな、と思って」
勝呂が燐にかけなおしても電波が悪いのか繋がらない。
雪男は方向を変えて、引率の椿に連絡を取った。
燐の引率をしていたのだから、どんな様子だったかくらいは聞けるだろう。
椿は数コールの後に出た。
「奥村先生、どうしたのカネ?」
「すみません、兄から連絡が入っていたのですがかけても通じないんです。
兄はもう任務は終了したんでしょうか?」
「ああ、それは大丈夫だヨ。塾の廊下に巨大なバリヨンが放置されていたからね。
彼はもう学園に帰ってるよ」
「そうですか、ありがとうございます」
電話を切った。大方、任務が終わったので誰かに連絡を取ろうとしたのだろう。
そう予想をつけて、雪男は勝呂に説明しようと口を開いた。
同時に、雪男の携帯が鳴り響く。これは、プライベート用ではない。
任務用の着信音だ。雪男は勝呂に失礼、と一言言って電話に出る。
「グーテンアーベント☆」
「切ります」
「ちょ、上司に向かって容赦のない」
「用件をどうぞフェレス卿」
雪男は、京都での一件からメフィストのことをことさら嫌いになった。
雪男に黙って燐を牢屋から連れ出したのはシュラだが、
それを手助けするようにメフィストは迷彩ポンチョを貸している。
別に、燐を助けることについてとやかくいうつもりはない。
それが、雪男の思惑とは全く違った形で、
しかも雪男に一言の連絡もなく行われたことが腹立たしいのだ。
メフィストは、自分の悦楽の為に燐を利用しているふしがあるので、
雪男としても全面的に信頼のおける相手ではない。
そんな男からの連絡を雪男はいらいらした気持ちで受けた。
メフィストは雪男の心情を知ってか知らずか、さらりと用件を言ってのける。
「奥村君が、私の結界の範疇外に出てしまいました。
まずいですね。行き先知ってますか奥村先生?」
「・・・は?」
寝耳に水だった。燐が郊外の任務につくことは知っていたが、
メフィストの補足する範囲から出るなどということはかつてない。
「先ほどかけましたが連絡も通じません。
しかし引率の椿先生が言うにはもう兄は学園に戻ったとのことなのですが。
採取したバリヨンもこちらにあるのに、兄だけがいないなんてことは・・・」
「ちょっと待ってください・・・ああー、なんというか。すごく・・・大きいです」
電話の向こうでメフィストが笑っている。
雪男はその様子を怪訝に思いながら問いかけた。
「なにがですか」
「いえ、今ちょうど塾の廊下にいるんですけど、すごいですね。
百キロはあろうかという超巨大バリヨンだ。これは彼しか採取できませんよ」
「百キロ・・・」
大きさを想像して、雪男は眉間にしわを寄せた。確かにバリヨンは授業で必要だけど。
大きけりゃいいってものでもない。そして、雪男ははたと気がついた。
「それ、大きいですよね」
「はい」
「扉は、どうなってるんですか?」
遠方の任務には欠かせない鍵の存在。
一般人が間違って入っては大事なので、だいたい塾の扉から任務に行く祓魔師が多いのだ。
その扉のサイズも、いわば知れている。
その扉の前にある巨大バリヨン。
電話口でも想像するのはたやすかった。
「ええ、見事に壊れていますね。塾の扉。これはおそらく、
繋がっていた向こう側の扉もおじゃんだ。奥村君が帰れないわけです」
メフィストは笑っているが、雪男は笑えない。
今日燐に与えられた任務は、辺境の地でのバリヨンの採取。
そう、辺境の地に、帰り道をなくして燐はただ一人取り残されている。
笑えるわけがない。
しかも、辺境の地なだけあって、扉と呼べるものも周囲にはないだろう。
帰るのも、行くのもやっかいな場所だ。
雪男は、はああと深いため息をはいた。
京都での一件から、兄弟はお互い少し距離を置いた関係になった。
燐は居場所を勝ち取るために戦い、友人と呼べる存在もできた。
雪男は兄の自立が嬉しい反面寂しいような感情も同時に持った。
そして雪男も自身の変化について考える時間が必要だった。
少し離れれば、お互いになにか見えるものでもあるかと思ったが。甘かった。
トラブルメーカーを放っておくと、こちらの胃が持たない。
離れていても、やはり兄は心配ばかりかける存在で雪男は何度でもそんな兄に振り回されるのだ。
やはり、兄のこういうところは好きになれない。
雪男は眉間に皺を寄せるが、そこに、京都の時のような暗い感情は全くない。
好きだし、嫌い。男兄弟なんてそんなものだろう。
そこには手の掛かる家族を心配する、弟の顔があった。
「兄を探しに行きます、居場所の手がかりはありませんか」
「ちょっと待ってくださいね・・・ああ、出ました。
この地点にいるみたいです。メールで送りますね」
任務の報告書にあるように、採掘場所の地名だけ言われると思っていた雪男は驚いた。
メフィストの口振りからすると位置を正確に把握しているように聞こえる。
「魔術で補足できたんですか?」
「いえ、文明の利器、GPSです。便利ですよねこれ」
「ちょ、いつの間に仕込んでいたんですか!」
奇想天外な術を使うかと思いきや、メフィストは変なところで現実主義だ。
携帯もパソコンもゲームも自分の手であるように使っているので、
趣味も絡んでいるだろうが。
「最初からですよ。彼はなんたって魔神の落胤だ。
なにがあるかわからない分、備えは必要ですよね」
まさか、GPSまで仕込まれているとは思わなくて戦慄した。
しかも、建前を言ってはいるがメフィストの声は明るい。
どうやらおもしろ半分に使っている節もあるようだ。
雪男は、この状況でのGPSに感謝はするがメフィストに感謝はしたくないなぁと心の中で強く思った。
隣の勝呂の携帯が着信音を鳴らす。
勝呂は画面を確認すると、雪男に話しかけてきた。
どうやら、メフィストからのメールのようだ。
「奥村君の位置情報を送りました。先生は今電話中。
任務で先生と同行していたようですし、勝呂君に検索してもらうといい。近くにいます?」
「ああ、隣にいますのでお願いします」
雪男が説明すると、勝呂はすぐにインターネットで検索をかけた。
地図情報を示して、燐がいるであろう場所を絞り込む。
そして、勝呂は画面を見た瞬間にブホッと吹き出した。
顔色が悪い。まさか危険な場所にいるのだろうか。
雪男は勝呂に問いかける。
「まさか、どこか危険な場所だったんですか?!」
「あ、いや・・・あー。そうとも呼べるような・・・」
眉間にしわを寄せて考え込む勝呂がもどかしくて、雪男は横から割り込んで画面を見せて貰った。
雪男の目に、信じられない文字が浮かんでいる。
「え・・・と」
目が点になった。勝呂も口ごもっている。
電話の向こうで、メフィストも検索したのだろう。
検索結果を見て、大笑いしている声が雪男の耳に入ってきた。
「ブハハハハハ!彼は流石ですね!!では先生、奥村君の回収是非ともお願いします☆
後ほど面白いご報告お待ちしておりますので!!」
電話が切れた。雪男にとってはそんなこともうどうでもいい。
辺りは暗くなっている。
学園でも日が落ちているのだ、山の中ではもう夜といっていい暗さだろう。
固まる雪男を横目で見て、勝呂は燐のいる場所を口にした。
「ホテル、べんきょう部屋・・・・・・」
確かに燐には勉強が必要だ。
いくら監視の目が緩くなったとはいえ、半年後の祓魔師認定試験に合格しなければ処刑されることに変わりはない。
一分一秒でも多く勉強に費やすのが追いつめられた燐の状況からしたら正しいことである。
しかし、このべんきょう部屋というのはそういう学び舎という意味ではない。
実践的保険体育の授業限定で使われる学び舎だ。
そんなところに、未成年がいていいわけがない。
高速沿いにあったり、山の中にやたら豪華なお城を築いている。
あれだ。検索結果のカテゴリにもそう表示されている。
単刀直入に言うと、ラブホテルだった。
「奥村、よう入れたな・・・」
勝呂はぽつりとつぶやいた。インターネットにはご親切にも料金表ものっていた。
その休憩時間と称される時間と金額を見れば、
とてもじゃないが一介の高校生に払える金額ではない。
燐は万年金欠状態といってもいい。
月の食費すら雪男にお願いしてどうにかなっている状況だ。
そんな月の食費が飛ぶようなことを、燐がするだろうか。
燐は貧乏修道院で育ったせいか家庭的なスキルと金銭感覚はそこらの女子より高い。
つまり。
雪男が瞬時に情報を巡らして、導き出された答えはひとつ。
「兄さんの他に、だれか・・・いる・・・!」
ホテルの料金を払える、未成年を夜の山奥のラブホテルに連れ込んだ誰かが。
雪男は卒倒しそうになりながら、そうつぶやいた。
*若干やらしい表現有*
上着は脱がされ、燐はシャツとズボン姿になった。
目の前にいる四十代の男は、勝呂の姿で上から下までなめまわすような視線で燐を見つめている。
心なしか、鼻息も荒い。
燐の心は恐怖心でいっぱいだった。
勝呂の姿をしているのに、そうではない者に嬲られるのか。
しかも相手は四十代の男。最悪だ。最悪の気分だ。
男は燐の気持ちに気づいたのか、また燐のしっぽをぎゅうと握った。
勝呂は毎日鍛えているだけあって握力が強い。
しっぽを力強く絞られれば、燐は悲鳴を上げるしかなかった。
「うぁ・・・い・・・てぇッ・・・」
「いいよ、その表情。ずっと見てたんだ。
君がこのメッフィーランドに来た時から、君のことが気になっていた。
あのときは上級悪魔やら監察官がいて近寄れなかったけど、ずっとずっとこうしたかった。
この体の持ち主に近づいたのも、全部君に近づきたかったからなんだ。
君は僕の愛していた人にとても似ているよ。壊したいくらい似ているよ。
この体の持ち主である彼はとても勘が鋭くて、
しっかりしてたからなかなか取り憑くこともできなかったんだけどね。
君が近くにいるときは君に取り憑いていたのだけれど、君はまったく気づかないし。
だから、ちょっと策を練ってみたんだ」
ゴーストの様に近づき、フェアリーのようにいたずらを仕掛けて。
勘のいい勝呂は見られていること、
そして自分の口にしたささやかな願いが叶ったことで、大分気分を害していた。
気持ちが悪いだろう。悪魔の仕業だとわかるのに、姿がないのだ。
見つけられない相手ほど怖いものはない。
男は、勝呂の心の隙間にそっと寄り添っていた。
だから、勝呂は男を見つけられなかった。
自分の心は、鏡を見ても自分では見えないのだ。
男は燐の肩に手をかけ、燐を床に押し倒した。
燐の足の間に体をねじ込ませて、開かせる。
これからされることを予感させるように、腰をゆるやかに撫でることも忘れなかった。
「ズボン、自分で脱げるよね?」
勝呂の声で、男は燐に命じた。
燐は信じられないといった目でのし掛かる男を見上げるが、男は譲らなかった。
勝呂が人質に取られているのだ。
燐は震える自分の手をなんとか持ち上げて、ベルトを外した。
カチャカチャと響く金属音がやけに生々しい。
男はじれたのか、ジッパーを勢いよく下ろされてしまった。
びくりと止まる燐の手を、ズボンに導く。
「自分で、降ろせよ」
頬にかかる男の湿った呼吸。
燐はゆっくりとズボンから足を抜いていった。
白い足が外気に晒される。男は燐の足に手をやると、靴下の布地を噛んだ。
そのまま首を動かせば、靴下は燐の足からぬけ落ちていく。
勝呂が、獣のように燐の体から布地を奪っていくようだ。
燐は別人だと思っていても、勝呂のそんな姿を見たくなくて目を閉じた。
「目を開けろ」
もう片方の靴下も奪われて、二足は燐の腹の上にぽとりと落ちた。
唾液がついていたのか、銀色の糸が靴下と男の口を繋いでいた。
燐は見たくもない姿を見せられた。
自分は、シャツと下着一枚だ。
のし掛かる男は、自分がかっこいい奴ランキング上位に食い込む、初めてできた友達の姿をしている。
押し倒されたことで、今自分がどのような状況かを思い知らされる。
床も、上も下も左右も。全面鏡張りだ。
ミラーハウスに映し出される光景は、燐の視界と精神を嬲るには持ってこいの状況だった。
男の手が、ラッピングされた包みを剥ぐように燐の首元を覆うネクタイに延びる。
しゅるりと音がして、首からネクタイが外されていく。
男にすべてを暴かれるのはもはや時間の問題だった。
男の顔が、ゆっくりと燐の顔に近づいていく。
燐は全力で抵抗した。青い炎が出せたのなら、燃やしていただろう。
燐は無理矢理にでも炎を出そうとして体に力を入れるが、男はそれを制止した。
「炎出ないんだろ?その方がいいさ。この体の持ち主。勝呂君がどうなるかわからないからね」
「え・・・」
「取り憑かれている人間を、炎で燃やしたことなんてないだろう?
悪魔だけが燃えればいいけれど、
その奥にいる人間の精神までいっしょに燃えないとも限らない。
わかるだろう。今この体の主導権が誰なのか」
「そんな」
「だから、おとなしくするべきだ。ああ、お友達の勝呂君も今君のことを見てる。
見せればいいのさ。すべてを。恥ずかしがることじゃないさ」
その言葉に燐は真っ青になった。今から男にされることを。見られる。
友達にそんなみっともない姿を見られるのか。絶対にいやだ。
勝呂は全力で抵抗しろと言った。
しかし、友達を傷つけることなどできない。初めてできた友達を。
「やめろッ!!俺は男だッ!!!」
「知ってるよ、だから全部奪ってあげる」
燐は男の肩を押すが、しっぽからの刺激に力が出ない。
(そんな・・・嘘やろ・・・)
勝呂は、その光景を他人のような視点で眺めていた。
奥村が。なんでこんな目に合わないといけない。
そんなこと許せない。許さない。
脳裏には、取り憑いている男の生前の記憶がまるで点滅するライトのように浮かんでは消えていく。
記憶の中で男は、愛していたものへ思いを遂げようと、執拗に迫っていた。
見てくれないなら、なじってくれ。愛してくれないのなら、殴ってくれ。
それだけでもだめなのか。ひどい。こんなにも君を思っているのに。
君を。君を。君を思うことすらだめなのか。
認めてくれないのか。わかった。それならただ一度だけでいい。
この願いを叶えてくれたのなら君から離れるようにするよ。
近寄らないよ。だからこの言葉を―――
縋った男を男子生徒は拒絶した。そして、男の足はもつれてそのまま。
記憶の渦に飲み込まれそうな勝呂に、声が聞こえてきた。
「勝呂・・・ッ」
勝呂は、我に返った。燐の唇まであと数センチだ。
燐は嫌がっている。そんな友達を見捨てるのか勝呂竜士。
(アカン!!!!)
勝呂は全力で抵抗した。
手を燐の頭の脇に張って、顔が燐に近づかないようにした。
しかし、勝呂の体の中で暴れる悪魔はなんとかして主導権を取り返そうと必死だ。
悪魔には、未練があった。
生前できなかったことを、今この時に実行しようとしているのだ。
積年の思いもあるだろう。しかし、悪魔である男はもう死んだのだ。
死んだ人間に、これ以上振り回されてたまるか。しかも、変態だ。
友達が変態の毒牙にかかろうとしているのを、自分が止めずしてどうする。
(こんな状況で奥村を手に入れてたまるか!!!)
身体の中で暴れるそれを抑えつけて、勝呂は燐の耳元に顔を寄せた。
悪魔を抑えこんでいるせいで、身体のそこかしこに力が入りすぎている。
唇を噛みしめていたせいで、口の端から血がぽたりとおちた。
血が、燐のほほを伝って赤い線を引いて落ちる。
勝呂はごく自然な動作で、その血を舐めとった。
男がやったのだと思ったのだろう、燐は身を竦めている。
安心させるように、勝呂はつぶやく。
「奥村、堪忍な」
勝呂は、自分になぜ男が憑りついたのかがわかった。
暴れるこの悪魔は、自分の中に眠っていた衝動に似ている。
視線を、床に張られた鏡に向ける。
そこにいるのは、自分だった。
男は、自分の心の隙間に。燐が好きだという勝呂の想いに入り込んでいたのだ。
まだ、自覚すらなかったその心に。
勝呂は、顔を滑らして燐の胸元に口を付けた。
息がかかったのだろう。くすぐったそうに燐は身をよじった。
そのまま、何度も唇で燐の体を服越しに触る。
燐はそれを恐る恐る見ていたが、やがて勝呂の意図に気が付いた。
燐の服の上には、勝呂の血で描かれた梵字が刻まれている。
燐は、悪魔の言葉を思い出す。
『悪魔だけが燃えればいいけれど、
その奥にいる人間の精神までいっしょに燃えないとも限らない』
勝呂は、にやりと微笑んだ。
「来い!!!伽樓羅!!!」
勝呂の全身が赤い炎で包まれる。
燃える。燃える。燃えていく。
燐は、叫んだ。
「勝呂―――――!!!!」
ミラーハウスが、真っ赤に燃えて輝いた。
「なぁ、勝呂どこ行くんだ?」
燐は不安そうな声色を隠さなかった。
いつもの勝呂なら行動する前に説明してくれたし、燐が聞けば答えてくれた。
それなのに今は燐のことを無視しているかのように言葉を聞いてくれない。
しかし、掴まれた手を振り払うことは考えなかった。
なにか、理由があるのだろう。と燐はそう自分を思い込ませることにした。
(にしても、勝呂の奴なんかいつもと違ェような気がすんだよな・・・)
友達に警戒感を持つなど普段なら考えられない。
ましてや相手は誠実と真面目の塊。勝呂竜士なのだ。
しかし、燐の勘は何かを感じ取っている。
自分の勘を信じるべきだろうか。
いや、友達のことを信じてやるのも友達の役目だろうか。
燐は慣れない頭を使ってぐるぐると考えたが、答えはすぐには出なかった。
程なくして、アトラクションの一つであるミラーハウスにたどり着いた。
ここは鏡でできた迷路だ。鏡の反射で進むべき道がわかりにくくなっており、
入ればすぐに脱出するのは困難だろう。
躊躇する燐の腕を引っ張って、勝呂は迷いなくミラーハウスに足を踏み入れた。
その行動には、さすがの燐も焦った。
「勝呂、待てよ!こんな位置が分かりにくいとこで襲われたら不利になるぞ!」
「ここの中にゴブリンがいた」
「え、本当か?俺そんな気配なにも・・・」
「来い」
中に一歩入れば、そこからはもう方向感覚なんかなかった。
前も後ろも右も左も鏡。鏡。鏡。
勝呂の手が、するりと燐から離れる。慌てたのは燐だ。
急いで勝呂の後を追おうとするが、目の前にあったのは鏡だった。
「いてぇ!!」
ごん、という大きな音を響かせて燐はしりもちをつく。鏡が割れなかったのが幸いだ。
ガラス片で裂傷を負うこともある。
それに、アトラクションを壊せば後でメフィストからきついお仕置きが待っているだろう。
「勝呂・・・なぁ、勝呂・・・?」
燐はきょろきょろとあたりを見回した。鏡に映っていた勝呂の背中もない。
あるのは、自分の姿だけ。声だけが静かにミラーハウスに響いた。
気配を辿るが、はやりここにはゴブリンなんていないように思う。
勝呂は、いったい何がしたかったのだろう。
燐がため息をつくと、勝呂の声が聞こえてきた。
「ここなら、二人っきりだ」
声は、勝呂だ。間違いない。しかし、燐は決定的な違和感の正体を悟った。
「・・・勝呂一つ聞きてぇんだけど、なんでお前いつもとしゃべり方違うんだよ」
「おっと、すまんなぁうっかりやわ」
慌てたように、相手が言葉を直した。燐は焦ったように声を上げる。
「お前誰だ!!勝呂になにしやがった!!」
燐の周りに青い焔が灯る。
それが鏡に反射して、ミラーハウスが青い光で覆われる。
きらきらと光るそれは、こんな状況でなければ見事としかいえない光景だった。
「身体を貸してもらっているだけだ・・・大人しくしておけ。
こいつにはまだなにもしていない。まだ、な」
憑依、という単語が燐の頭によぎった。
魔神が養父に憑りついたように勝呂もまた何者かに取り憑かれている。
雪男は悪魔の。ゴーストか、もしくはフェアリーではないかと言っていた。
燐は急いで携帯電話で雪男に連絡を取ろうとした。
しかし、それを何者かは遮った。
「携帯電話は床に捨てろ、外部との連絡は許さん。
例えば、俺がこいつの首を絞める動作をすれば・・・あとはわかるな?」
燐は体を強張らせた。自分の行動一つで勝呂の命が危険に晒される。
そんなことは許されない。勝呂に怪我を負わせるなど。
燐は携帯電話を言われた通り床に置いた。そして、置いた場所から距離を取る。
それに満足したのか、何者かは笑い声をあげる。
「その顔、そそるな」
「勝呂の声で気色悪いこと言うんじゃねーよ」
燐の悔しそうな顔を、相手は見ているようだ。
姿はどこだろう。視認できれば勝呂に取り憑く悪魔を焼き払うこともできるだろう。
「お前には、これから俺の言葉にはすべて従ってもらう。
逆らえばこいつの命はない。わかったな」
「わかった。だからお前も姿を出せ」
「焦るなよ。お前の、後ろさ」
燐が振り向く前に、びり、とした痛みが全身に響いた。
嫌な予感がして、振り返る。
「お前の弱点、ここ、だろ?」
なんということだ。しっぽを掴まれてしまった。
常日頃からメフィストにしっぽを隠すように言われていたのは
こういう場面を想定していたからだろう。
何者かは勝呂の顔で、性質の悪い笑顔を作る。
ぎゅう、としっぽを握られれば、燐に力は入らない。
青い焔も急速に収束していった。
「・・・う、ぐ・・・くそッ」
「いつも見ていた、お前のこと。いつも」
何者かは、しっぽを掴んだまま燐の前に立った。
燐と向い合せになるように立ち、燐の瞳をじっと見つめる。
燐はせめて視線だけでも抵抗しようと、キッと勝呂の両目を睨み付けた。
その瞳に宿る光に射抜かれて、憑りつかれた勝呂の意識が浮上した。
(アカン!奥村が捕まってもうた!!!くそ、なんで俺の体やのに動かんのやッ!!
奥村、こいつはッ・・・!!)
身動きの取れない勝呂は、なんとか声だけでも出そうとするがそれもできない。
何者かは勝呂の行動も、燐のこともすべてわかっているようだ。
そして、そのささやかな抵抗を笑って見ている。それがどうしようもなく悔しかった。
何者かは、燐の肩に手を置いた。そして、言った。
「俺を、殴ってくれ!!!」
「・・・は?」
燐はなにを言われたのかわからず、ぽかんとした。
勝呂のほほが若干赤く染まっている。
いや、中身は違うわけだから正確には勝呂に取り憑いたなにかがそうさせているわけか。
でも、どうして自分が勝呂の体を殴らなければならないのか。悪魔なら喜んでやるが。
すると、勝呂の口が一瞬止まり、すぐに言葉を発した。
「おく・・・むら。アカンねん。こいつ、は・・・ッ」
「勝呂!?勝呂なのか!!お前、どうして!!!」
「ええから、聞け!!今、俺にどうしようもない『変態』が憑りついとるんや!!!」
「え?」
「しかも、アカン。口では説明できへんくらいの変態や!!
とにかく俺を勝呂竜士だと思うな!!全力で抵抗せぇ!!頼むから!!」
勝呂は奪い返した主導権で、どうにか燐に説明した。
悪魔が憑りついていることで、悪魔は勝呂のことがわかるし。
その逆もあるということだ。
沈んでいた意識の中垣間見た、悪魔の本性を燐に伝えなければならない。
この悪魔は、生前人間だった。
未練や執着が強すぎるせいで死んだ後悪魔になる魂がある。
強い執着とは、負の感情だ。その感情が、悪魔堕ちにも等しい魂の堕落を齎した。
悪魔には、恋人がいた。その恋人とは年が違ったせいで会う機会も少なかったが、
悪魔は恋人を愛していた。しかし、すれ違いが続いたせいで別れ話が出ていたのもまた事実。
そして、その恋人に話があると言われ、呼び出されたのがこのメッフィーランドだった。
「でも、こいつは恋人の話を最後まで聞かれへんかった。
口論になった時、躓いてそのまま頭を打って死んでもうたんや」
「それと俺に、なんの関係が・・・」
「こいつは、恋人に似てるお前、と・・・最後をやり直そうとしとる・・・んや・・・
しかも、俺が見た限り、恋人というより・・・」
勝呂の言葉が続かなくなってきた。
おそらくまた主導権を奪われそうになっているのだろう。
勝呂ではない誰かが、また表面に現れてきている。
燐は勝呂に呼びかけた。
「勝呂ッ!!!!」
「諦めろ、こいつを助けたければ俺の言うことを聞くことだ」
願いもむなしく。勝呂の手ではないそれが、燐の体をなぞった。
ぞくりとした鳥肌が立ってしまう。そして、燐は気づいた。
勝呂は、この悪魔が恋人との最後をやり直そうとしていることを伝えてくれた。
悪魔は、言葉や勝呂に取り憑いたことから性別は男だろう。
しかし、燐の性別も男である。
今も正十字学園の男子制服を着ているし、間違っても女子生徒には見えない。
これは、何の間違いだ。
「・・・ちょっと聞かせろ。俺は男だぞ」
「知っているさ、だから君にしたんだ」
「んん?でも生前の恋人に・・・似ているって・・・」
「彼も、正十字学園に通っていたからな。しかし私は社会人だった。
なかなか会う機会もなく、彼が通った道や使ったトイレを使用するくらいしかできなかった。
そういう具合にすれ違っていたところで、あの不幸な事故が起きた」
「んんん?待てよ、それって付き合ってるっていうより・・・」
「いいや付き合っていたさ。少なくとも私はそう思っている」
「え、お前の解釈の問題なの?ってか・・・お前、年齢いくつだ」
「生前は確か四十・・・」
「ぎゃあああああああああああああああああ!!!!」
勝呂の言葉の意味がわかってしまった。
この悪魔は。正十字学園に通っていた男子生徒をストーキングして死亡した中年の男なのだ。
そして、死ぬ前にやりたかったことを今度は燐をターゲットにして成し遂げようとしているらしい。
勝呂も逃げろというはずだ。
燐は逃げようとしたが、しっぽがまた絶妙なタイミングで握られる。
身体に力が入らない。
燐は震える足でも、なんとか立ち続けた。
勝呂を助けなければならない。ここで挫けてはいけない。
「・・・うっ・・・うう」
燐の顔色が悪いのに、相手は興奮しているのか顔が赤くなっている。
しかも、外見は勝呂だ。なんの冗談だ。
悪魔は、勝呂の外見でさらりと言った。
「さぁやり直そう、前はできなかったことを。今度こそ」
悪魔の手が、燐の上着をはぎ取った。
燐は、抵抗できなかった。
「これが勝呂君のげた箱に?」
「はい、先生は何か心当たりありますか?」
「・・・いえ、朝テストがないことに気づいたので。なぜげた箱にあったのかは・・・」
授業が終わった後の休憩時間に、勝呂たちは雪男を呼び出した。
勝呂が手にしていたテストを見て、雪男は目を丸くしていた。
当然だ、自分がなくしたと思ったテストが、テストを受けるはずの塾生から渡されるのだ。
これは講師としてはかなりの失態の部類にあたる。
燐はテストをまじまじと見ながら質問をする。
「お前が寝ぼけて入れたとかねーの?」
「失礼な、さすがに僕でもそんなボケたことしないよ」
「昨日夕飯の時に一瞬意識飛んでたじゃん。
刺身の時はクロに盗られねーように気張ってる癖に。
赤身が一個なくなってることに気づいてなかったじゃねーか」
「あれはクロにあげたんだよ、白身は死守した」
「ってか疲れてんなら寝ろよ馬鹿!」
「馬鹿な兄さんに馬鹿って言われたくないね」
「なんだと!」
兄弟喧嘩をあきれた様子で見る勝呂たちに気づいたのか、
雪男は燐をあしらうと、もう一度テストの用紙を見た。
なくなった時そのままだ。昨日、雪男自身が疲れていたのは確かだが、
そもそもテスト用紙を塾の方に持ち出しはしても、学園の方に持ち出したことなどない。
誰かが、雪男の手からテスト問題を盗んだのだ。
これは、外部の人間の犯行としか思えなかった。
雪男は勝呂を見た、勝呂はぴくりと反応を返す。
「ああ、勝呂君を疑っているわけではありませんので安心してください」
雪男は勝呂を安心させるように言った。
そうではない、と勝呂が言葉を返す前に、授業のベルが鳴る。
まずい、10分休憩では時間が足りなかったようだ。
そのまま後は放課後の塾の方で話そうという結論になり、
勝呂達は慌てて教室に戻るために駆けだした。
「・・・なんかおるいうこと言えへんかったな」
勝呂が、テストのことを口にした途端に事件が起こった。
もしかしたら犯人は勝呂のすぐそばにいるのかもしれない。
それが人か、悪魔なのかはまだわからないが。
勝呂は教科書で口元を隠しながら、誰にもわからないようにそっとつぶやいた。
「犯人が、どう出るか、やな」
これは、一種の賭けだった。
***
放課後、祓魔塾の教室の前に行くと雪男が入り口の前に立っていた。
勝呂は急いで雪男のそばに駆け寄る。
あの後、すぐに誰かに見られている。視線を感じたのだ。
授業中にも関わらず続くその視線を勝呂は持ち前の根性でかわし続けたが、
やはりどう考えてもおかしい。
なぜ、自分が誰かに監視されているのだろう。
正体がわからない分、余計に気持ち悪かった。
思わず、雪男の隣に燐がいないか探してしまったほどだ。
なぜだか知らないが、燐の隣にいるときはその視線は感じられなかったから。
雪男はテスト用紙を取り出すと、勝呂に見せた。
顔が真っ青だった勝呂を安心させようとしたようだった。
「この用紙からは、第三者の指紋は検出されませんでした。
他にも可能性を考えたんですが怪しいところはなかったです。
・・・勝呂君、君なにかあったんですか?」
「先生、あの実は最近変なんです。誰かに見られてるというか・・・変な視線があって」
勝呂は日常で見つけたおかしな点を雪男に説明した。
テストに関するつぶやきをすれば、
まるで勝呂の話を聞いていたかのようにテスト問題が置かれていたこと。
そして、燐のそばにいるときだけはその視線を感じないこと。
そして、授業中に誰にも聞こえないようにあることをつぶやいたこと。
雪男と勝呂は、緊張した面もちで塾の教室への扉を開けた。
中にはまだ誰も来ていない。扉を開けて、勝呂は自分のいつも座っている席を見た。
「・・・ビンゴや」
勝呂の机の上には、湿布が置いてあった。
それは昨日塾を出たときにはなかったものだ。
そして、この部屋は昨日の夜以降使われていなかった。
「君がつぶやいた言葉は、『朝のランニングで疲れたから足に貼る湿布が欲しい』でしたね?」
「はい、それともう一つが『授業で使うから聖水があればいい』とも」
塾の机に置かれていたのは、湿布だけだった。
犯人は聖水を持ってくることができなかった。
おそらく、触れることができなかったからだろう。
犯人は悪魔の一種だ。
燐のそばにいると視線を感じなかったのは、
魔神の落胤の威圧感に押されて近づけなかったからかもしれない。
「兄は、ハーフとはいえ上級悪魔の部類に入ります。
程度でいうなら勝呂君を狙っているのは下級から中級かもしれませんね。
ゴーストか。もしくはフェアリーか。可能性はいろいろですが」
どちらも共通するのは人に気づかれないように、人の言葉を聞ける点だろうか。
「ちーっす・・・ってお前等なに深刻な顔で湿布見てんだよ」
「兄さん、今日は勝呂君とペア組んで任務にあたって」
「は?」
「え、先生?」
「勝呂君は今日一日兄といてください。一人にはならない方がいいでしょうから、任務にも出てください。
ゴーストやフェアリーがいたずら程度で済ませてくれればいいですが、
過去取り憑かれた人間が階段から突き落とされて大けがを負った例だってありますから。
兄のことはおもり・・・と言うかお守りだと思って」
「え、俺そんな御利益あったっけ。ってかおもり?」
「下級なら追い払えるくらいにはあるんじゃない」
雪男はさりげなくお守りのことはスルーした。
燐をお守り代わりにすることになるとは。勝呂はなんともいえない気分になったが、
たぶんおもりという意味も間違ってはいないだろう。
燐はよく任務で暴走するからだ。
授業開始に合わせて、他の塾生達がぞくぞくと教室に入ってきた。
それに併せて、雪男も授業内容を説明する。
今日の任務は課外授業だ。
メッフィーランドに度々出現するゴブリンの駆除を、ペアで当たること。
不浄王を倒した後のことを考えると、個人でも当たれる危険度の低い任務だが。
勝呂のこともあるせいか、ペアを組んでの任務となった。
「では、各自解散。何かあれば僕に連絡をください。勝呂君も異変があればすぐに知らせてください」
「はい、ありがとうございます」
雪男の言葉で、各ペアが散り散りにメッフィーランドに入っていった。
勝呂は先を歩く燐に声をかける。
「すまんが、よろしゅうな奥村」
「おう!よろしくな!悪魔が近づいても俺がケチらしてやるぜ勝呂姫」
「姫はやめんかい!!ボケェ!」
燐の明るい顔を見て、勝呂はほっと息をついた。
正体不明の視線が気になって、やはり気を張っていたのだ。
燐のそばにいると、ようやく肩の力が抜けた感じがした。
すぐに悪魔もあぶり出せるだろう。と気を抜いてしまったのだ。
しかし、それがいけなかったのだ。
勝呂は、どすん。と何かが自分に降ってきた感覚を覚えた。
違和感を覚えて体を動かそうとするが、体が動かない。
それなのに、体は勝手に歩いている。
(・・・なッ!?どういうことや!)
声も出ない。しかし、頭の奥から別の声が囁いている。
「ようやく、乗り移れた。気を抜くからだよ」
それは、勝呂の口を使って出された言葉だ。
自分ではない自分がいる感覚に、勝呂は呆然とした。
監視のような行動を取ることで勝呂の精神を疲弊させ、
隙を見て取り憑くなんて想像もしていなかった。
勝呂は目の前を歩く燐に向かって叫んだ。
自分ではない自分の手が、どんどん燐に近づいていっている。
(奥村、アカン!逃げろ!!)
しかし、それは声にならなかった。
勝呂の形をした何者かは、突如燐の腕を取って走り出した。
「おい?勝呂どうしたんだよ!なんかあったのか?」
何者かは、勝呂の顔で笑っていた。
「ああ、こっちにいいものがあるんだ」
そのまま、人気のないところへと燐は連れて行かれてしまった。
「この浮気者」
絶対零度の青い瞳が、自分を見下ろしている。
青い瞳の中に宿る赤色の光彩がまるで燃えているかのような印象を受けた。
その振り切った右手の平の跡は、くっきりと自分の頬についているはずだ。
じんじんと痛む頬を押さえながら、勝呂は思った。
どうしてこんなことになってしまったのだろうかと。
***
勝呂は、朝のジョギングを終えて寮に戻ろうとしたところで何かの視線を感じた。
視線の方向に目を向けると、ただの茂みしかない。
なにかがいたような痕跡はなかった。
勝呂は疑問に思いながら、首を傾げる。
確かに、誰かに見られていたような感じがしたのだ。
気になって、茂みの向こうをのぞいたりもしたが、なにもない。
「・・・気のせいやろか」
正体は分からないがあまりいい気分ではない感触だった。
ねっとりとした。というか。自分を見ている。と伝えるような。そんなメッセージを感じたのだ。
悪魔の類なら自分で祓うことも考えた方がいいかと勝呂は腕につけている数珠を鳴らした。
祓魔師は、多かれ少なかれ悪魔から恨みを買うものだ。
悪魔が報復目的で祓魔師を襲う例も過去何件も起きている。
それは正式に祓魔師になっていない候補生でも同じことが言えるだろう。
悪魔にとっては、祓魔師よりも候補生の方が抵抗力が弱い分狙いやすいのかもしれない。
勝呂はそう考えて、ふうとため息をついた。
これでも、あの不浄王と一戦やって生き残ったのだ。
ちょっとやそっとのことでは動揺しない。
今ならリーパーと向き合っても尽き従わせるくらいの度胸もついた。
そう。悪魔を祓う者は、それ相応の覚悟を持たなければならない。
それは、自分が悪魔に恨まれることも。自分の周囲の人間を悪魔に襲われることも指す。
だから、祓魔師の家族が自衛の為に祓魔師になることも決して珍しいことではない。
勝呂は、少し考えて今のところ害はなさそうだったので、放っておくことにした。
実害はまだない。それに、正体もわからない。対策の取りようもなかった。
「・・・ってあかんわ。今日祓魔塾でテストあるんやったわ。帰って勉強せな」
時計を確認して早足で駆けた。
なんなら、塾の先生なり誰かに相談することだってできる。
勝呂はひとまず、携帯電話で日付とメモを残しておいた。なにかあった時の為にデータは必要である。
勝呂は候補生にも関わらず、日常生活でもとても優秀な祓魔師としての行動をおこしているのだが、
本人はそれを特に気にしないままさっさと新男子寮の方へと戻っていった。
勝呂の目標は、魔神を倒すことである。
その為には一つでも多くの経験を積むべきなのだ。
それに、目標の為には努力を惜しんではいけない。
雪男が勝呂の様子を見るたびに、兄に爪の垢を煎じて飲ませたいと言うくらいだ。
勝呂の日常はこんな具合にストイックかつストイックにできている。
***
体育の授業中のことだった。
今日の授業内容は走り高跳びだった。
助走をつけて地面をかけ、棒を落とさないように身体をジャンプさせる。
勝呂がジャンプした瞬間。なにか視線を感じた。
ねっとりと自分を見る視線。
クッションに着地して、すぐに起きあがる。
しかし、そんな視線の主など誰もいなかった。
クラスメイトなどは、よくあんなにとべるなぁと感心した声しか上げていない。
クラスメイトではない。外部か。
勝呂は何事もないように装っているが、内心集中できない違和感を覚えている。
次の順番があるのでひとまず歩いて、そのままクラスメイトが並んでいた列の一番後ろに戻った。
「恨み買われるようなことは・・・特には・・・」
勝呂は背後になにかがいる気配を感じて、腕を伸ばす。
ねじり上げはしなかったが、相当力が入っていたのは確かだ。
「いてぇ!」
声に聞き覚えがあった。勝呂は背後の主を確認すると慌てて手を離した。
「なんや奥村かいな」
「いきなりなにすんだよ!」
「・・・俺の後ろに立つなや」
「どこのゴルゴだ!」
いてぇとさする燐の腕には勝呂の腕の跡が残っていた。
燐の腕は他のクラスメイトと違ってかなり白い。手の跡も残りやすいようだった。
悪魔に目覚めてから若干肌の色も薄くなったらしい。悪魔の身体は人間の目を惹くようにできている。
それは言葉、身体、仕草、全てで人間を引き寄せようという悪魔の本能からきているようだ。
燐本人にとっては別に人間をどうこうしようなどど思ったことは一度もない。
悪魔は人間の目を惹くようにできている。
しかし、その悪魔を見て人間の方がどう感じるかによって悪魔はその姿を変えるということだ。
勝呂は体操着姿の燐の身体を見た。
ハーフパンツから覗く足は細く白い。
そして、開いた上着からは鎖骨が顔を出しており、心なしか袖口は長かった。
「なんやお前着ているもんがえらいでか・・・」
「お前は!俺を!怒らせたッ!!」
燐に胸ぐらを捕まれつつも、勝呂はにやけた顔を押さえなかった。
体操着の名前は奥村になっていた。たぶん、燐は体操着を忘れたのだ。
そして、同じ名前の雪男から借りたのだ。
しかし身長差はどうしようもない。サイズの違いは多少、しょうがない面がある。
笑っている勝呂がむかつくのか、燐はぷりぷりと怒っていた。
それが、やはりおかしくて笑ってしまう。
笑ったおかげだろうか、先ほどまで気になっていた視線が今はなくなっている。
燐はひとまず落ち着こうと思ったのか、勝呂の胸倉から腕を外した。
「そういえば、ウチとお前のクラスが授業被るのって珍しいこともあるもんやな」
「ん?ああ、そういやそうだな。暇だからこっちの授業も見てたんだけど、
やっぱ勝呂かっけーよなぁ。あんな綺麗に高跳びすんだもんなぁ」
燐にきらきらとした目で見られて、勝呂は居心地が悪くなった。
燐は、勝呂にあこがれている。
男らしい背に、男らしいがっしりとした身体。
力は燐の方があるが、それは悪魔の力があるからだ。
燐は、見た目も中身も男っぽい者に強いあこがれを抱いている。
そして、勝呂はそんな目で見られることが悪くないなぁと思っていた。
でも、悪くないなぁと思っていても。恥ずかしいものは恥ずかしい。
「なんや、変なとこ見んなや」
「別に変じゃねーじゃん、かっこよかったぞ」
「恥ずいこと言うなや・・・それに、お前のが高く飛べるんとちゃうんか?」
「ん、ああ。まぁ飛ぼうと思えばたぶん校舎くらい軽く飛べるだろうな」
燐は指を校舎に向けた。5階建てくらいは軽々いけるらしい。
高跳び選手もびっくりだ。
しかし、それをこの場ですることはできない。
人間が飛べるのは、できて2メートルくらいだろうか。
体育の授業のようにもろに個人の能力が露呈される場面で
悪魔の身体能力を抑えるのはなかなか難しいようだ。
「一回ミスって陸上でいい成績出してさぁ、部活に入らないかって揉めたことあるんだよな」
もちろんメフィストが揉み消したらしいが、
それ以来燐は体育の授業には気を付けているようだ。
こちらに来たのも、さっきいい成績を出しそうになったのでちょっと抜けてきたらしい。
祓魔の裏の世界でも目をつけられているのだ。
せめて表の世界でくらいは大人しくしておきたい。
「だからってサボんなや」
「大ジョブだって、また戻るし。ああ、そういや雪男っていんのか?」
「いや、俺と先生は別のクラスやで。知らんのか?」
「あ、そうか。じゃあもう少しいよう。雪男朝からモノ無くしたみたいで
すんげぇカリカリしてたんだよ。見かけてもあんま近寄らないほうがいいぞ」
「だからサボんなや・・・って先生が?珍しいな」
「だろー」
あの慎重な雪男がモノを無くすとは珍しい。
燐ならよくわかるのだが、それを言うとまた怒られそうなので黙っておいた。
勝呂はあたりを見回した。不思議と、ねっとりと見られていた視線の感触はない。
最後の一人が高跳びを終えたところでチャイムが鳴って、授業が終わった。
燐と勝呂は特に片づけをする必要もなかったので、そのまま二人で下駄箱に向かった。
途中で、子猫丸と志摩とも合流して四人で話ながら教室に戻ろうとした。
異変に気付いたのは、志摩だった。
「あれ、坊なんかげた箱に入っていますよ」
志摩は、勝呂の下駄箱に入れられていた紙を指差した。
折りたたまれているようで、中身は見えない。
真っ白いコピー用紙のようだった。
一瞬以前貰ったことのあるラブレターを思い出して背筋が凍った。
「うおおおお!奥村君!坊がラブレターをッ」
「アホか!んなわけあるかい!」
「勝呂モテるんだなー」
「奥村もなんかあれな目で見るのやめぇ!!」
からかわれる視線を避けようと、勝呂は乱暴にコピー用紙を掴む。
以前貰ったラブレターは丁寧に便箋に入っていた。
流石にラブレターをこんな荒っぽく入れる女子はいないだろう。
勝呂はちょっと緊張しながら、折りたたまれた用紙を開いた。
大方ゴミか何かだろう。中身を確かめて、ぎょっとする。
「これって・・・」
四人は顔を突き合わせた。
題名には、『第12回悪魔薬学小テスト』と書かれている。
問題がずらりと並び、選択問題には答えまで書いてあった。
「あ、これ雪男がなくしたって朝言ってたやつじゃね?」
それが、なぜ勝呂の下駄箱に入っているのだろうか。
燐や志摩たちは首を傾げているが、
勝呂は、真っ青になって自分の朝の言葉を思い出していた。
『今日祓魔塾でテストあるんやったわ。帰って勉強せな』
そして、今日感じていた視線。視線。視線。
視線の主は、確実に存在している。