青祓のネタ庫
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燐は走っていた。任務に遅れてしまう。
それだけを考えて、悪魔の脚力を使って正十字の町を駆け抜ける。
変な夢を見た気がした。そのせいで寝坊して、こんな時間に寮を出ることになって
しまったのだ。雪男は、燐を起こしてはくれなかった。なんだよ。出るなら起こせよ。
燐はイライラしながら足に力を入れる。
近道である路地裏の階段を降りて、一気に加速してジャンプした。
一足で、家を二軒ほど飛び越えた。そのまま屋根を伝って、次から次へと飛んでいく。
目的の駅までは、このまま行けばすぐ着くだろう。
普段なら道を使うのだが、今は時間がない。
燐はそう言い訳をして、夜の町を駆けた。気持ちがいい夜だった。
夜空には雲一つなく、青い月が光っている。
燐にとっては美しい夜だが、一般人からしたら暗闇だ。
燐が飛んだり跳ねたりしていても、見間違いで済ましてくれるだろう。
雪男に見つかったら怒鳴られるだけでは済まないだろうが。
雪男は燐が悪魔としての力を使うことを恐れている。
燐が自分の元から離れていってしまうことが怖いのだ。
でも、燐は自分の力から逃げないことを決めた。
逃げても、この力はなくならない。だから、立ち向かうしかない。
自分は、魔神の落胤として祓魔師になる。
覚悟を決めた燐は、もう悪魔としての力を使うことを躊躇しなくなった。
まぁ確かに一般人の目の着く場所で力を使うことがいけないこともわかっている。
「怒られたら、お前が起こさないからだって言ってやろう!」
燐は駅の前にたどり着いた。といっても屋根の上だ。
時間的にもう終電だ。この終電に乗らなければ任務の目的地にいけなくなってしまう。
燐は人がいないことを確認すると、屋根の上から飛び降りた。
人ならば骨折するだろう高さも、燐ならば問題ない。
階段の三段目くらいから降りた、くらいの感覚だ。
雪男が危ないだろう。と注意するのも人間の感覚で語るからだろう。
悪魔に取っては高さなどあってないようなものだ。
燐は飛び降りてきた様子など窺わせない様に、小走りで駅へ向かった。
「すみません、終電ってこれですか?」
「そうだよ。乗り遅れたら次はないからね。乗るなら早めに」
「わかりました」
燐は駅に入ると、切符を買って改札を通った。思った通り、人はいない。
「なんだよ。皆もう行ったのか・・・」
勝呂達からのメールを確認すれば、一本前の電車で向かったようだ。
流石、30分前行動を地で行く男である。
時間帯が深夜であることから、志摩辺りは駄々をこねていそうだが。
燐が駅のホームで電車を待っていると、程なくして電車が入ってきた。
よく確認するが、幽霊列車ではないようだ。車掌も人間である。
ここで幽霊列車に乗ったら虚無界へ直行だ。そんなのはごめんである。
燐は時計を確認して、列車に乗り込んだ。時刻はちょうど夜の12時。
日付が変わってしまった。携帯電話を操作して、待ち合わせの場所を見る。
この電車の終点が目的地か。燐は誰もいない列車の中で、椅子に座った。
電車の窓側に一直線に設置された椅子だ。
いつもなら大勢の人がいるのだろうが、今は人の気配もなくしいんとしている。
窓には学園の夜景が映っては消えていった。
真夜中の列車は目的地がわかっていても、どこへ向かっているのかわからない錯覚を起こす。
一人でいると、その感覚がとても顕著だ。
なんだろう、ドキドキするな。
燐は自分の心臓を押さえた。
これは幽霊列車ではないのに、闇の中へ落ちていくようなそんな不安感。
燐は意識を戻そうとして、列車内の電球を見上げた。レトロな列車のせいか、電球だ。
列車自体も所々木を使って作ってある。
ごおお。大きな音がした。窓の外を見れば、漆黒に包まれていた。列車がトンネルに入ったようだ。
トンネル内では携帯電話も使えない。燐は携帯を弄ることもできず、ため息をついた。
ごおお。また大きな音がした。列車の中からだった。
見れば、帽子を被った男が一人燐のいる車内に入ってきた。
電車は三両編成だったので、後方の車両から入ってきたのだろう。
燐がいるのは、三両編成の車両のちょうど真ん中だった。
よかった。俺以外にも客がいたんだな。
そのことにちょっとだけ安心した。
終電の列車に乗る機会などあまりない。
人がいないことは知っていたが、やはり一人ではなんとなく落ち着かないものだ。
男は燐から離れた席に座った。もしかしたら男も燐と同じ心細さを感じていたのかもしれない。
燐は目を閉じた。任務に備えて仮眠を取ったとはいえ、まだ候補生の身分だ。
昼間は高校に行っているし、夕方は塾で勉強。
祓魔師のように時間に融通が利くわけでもないし、確実に睡眠不足だ。
目的地は終点なのだし、寝ていたとしても問題はないだろう。
燐は携帯電話で、アラームを設定した。
終点までの時間はアナウンスで確認したので間違いはないだろう。
電車でうたた寝して寝坊したなど、雪男の怒りが頂点に達しそうだ。
燐はアラームを設定すると、携帯を右手で握る。手で持っていれば、
アラームが作動してバイブ機能で起きるだろう。車内なのでマナーモードだ。
ちらりと男の方を確認した。男の方も、うつらうつらとしているようだ。体が揺れていた。
燐もそれに習って目を閉じる。アラームで起きなかったら、もう駅員さんに期待するしかない。
自分の寝汚さを自覚しているので、そこはもう開き直っている。
燐は程なくして、眠りに落ちた。
***
時間はどのくらいたった頃だっただろうか。
燐は自分の口から涎が落ちている感覚で、目を覚ました。
涎は普段はべとべとしているが、
寝ることで副交感神経が刺激されて唾液がさらさらになる。
唇に液体が落ちる感覚は覚えがある。燐は慣れた手つきで唇を拭った。
なぜだか、鉄さびのようなにおいがしている。おかしいな。
燐は目を開けた。ぼんやりとした視界が、手に焦点を合わせる。
手は、真っ赤に染まっていた。
「え・・・?」
燐は口を再度拭った。べっとりと今度は倍の量の血がこびりついている。
握っていた携帯電話が床に落ちた。
列車は揺れるので、揺れに合わせて携帯電話は床を滑っていく。
自分は、血を吐いている。なんで。
手から血が滴り落ち、下に落ちていく。視線が自然と下にいく。
自分の腹から、腕が生えていた。
正確には、男の腕が燐の腹を貫いていた。
男の顔は、見えない。帽子を被っている。
遠くの席を確認すると、先程車内に移動してきた男がいなくなっている。
あの男だ。燐は男の腕を掴んだ。男はそれでも、燐の腹から腕を抜こうとはしなかった。
普通の人間は、人間の腹を突き破ることなどできない。
こいつ、悪魔か。
燐は炎を出そうとするが、目覚めた意識が痛みに向かう。集中できない。
痛い。痛い。腹が焼けるように痛い。異物が侵入している感覚。
気持ち悪い。燐は血を吐いた。吐いた血は男の帽子にかかった。
男の腕が、燐の内部で動く。
「い・・・てぇッ」
「ああ動いたら駄目だよ。位置がずれる」
男は燐の腰を、もう片方の手で抑え込んだ。
中に入った男の手が、燐の腹をかき回す。燐は声にならない悲鳴を上げた。
くそ、なんだよこいつ。俺に何する気だ。
燐はなんとかして男をどかそうと、力の入らない腕で男の頭を叩いた。
帽子がずれ落ちて、男の顔が晒される。
燐の目が開かれる。燐は声を出そうとした。でも、できなかった。
男が落ちた帽子を、燐の口の中にねじ込んだからだ。
「大人しくしててもらおうか」
男はそのまま、燐を椅子の上に押し倒した。
燐の体は全身が椅子の上に乗る形になった。寝転がっているような状態だ。
ここは三両列車の真ん中だ。一番前には、運転手が。
一番後ろには車掌がいるが、真ん中には誰もいない。
見回りも、終点に着くまではないだろう。この車両の異常に気づくものはいない。
燐は足をばたつかせる。
抜け、抜けよ。くそ、超イテェ
意識が痛みで朦朧としてくる。
ぼんやりとした感覚でもわかったのが、腹の中に腕以外の何かが入ったことだった。
「ん!ううッ!!」
「ああ、わかるかい?種が入っていること」
種?なんだよそれ。意味わかんねぇ。なんで俺の腹なんかに。
男の腕が入っている異物感の他にある、なにかの感触。
それが種というものだろうか。
男の腕が燐の腹から引き抜かれた。
血がどくどくと出ている。列車の中は血まみれだろう。
男の手が、燐の腹に開いた穴を抑えている。
燐は悪魔だ。ネイガウスに襲われた時も、腹に穴が開いたがすぐに塞がってしまった。
きっとこの傷もすぐに塞がってしまうだろう。燐は恐れた。
種、と呼ばれたものの感覚。それがまだ燐の中に残されている。
このまま傷が塞がれば。考えただけで恐ろしい。
燐は傷を抑える男の腕をどかそうと、もがいた。
いやだ。気持ち悪い。離せ。
燐の抵抗を男も必死で抑える。男の手が、燐の尻尾に伸びた。
メフィストに隠すように言われてからは、腹に巻きつけていたのに。
痛みで、緩んでしまったようだ。男に尻尾を握られ、燐はもう抵抗できなかった。
だがせめてもの抵抗として、男が押さえている傷口に両手を乗せた。
無情にも、傷口は塞がってきていた。あと数分もすれば、跡形もなく消えていることだろう。
燐は失血したことが原因であろう、眠気に苛まれていた。
腹を突き破られたのだ、失った血は大きい。燐はどんどん瞼が落ちていくのを感じた。
だが上に伸し掛かっている男に、一言言ってやりたい。
燐は口に押し込まれていた帽子を、舌を使って吐き出した。
唾液が糸を引いて、床に落ちた帽子と燐の口を繋げている。気持ち悪い。
燐は吐き捨てるように言った。
「藤堂・・・ッ!テメェ俺に、なにしやがった!」
燐に伸し掛かる人物。それは京都を不浄の海に染めようとした。
弟である雪男を殺そうとした人物。藤堂三郎太だった。
初めて見た時とは随分年齢が違うが、指名手配もされている人物だ。
塾で手配書も見せられた。なにより声が同じだった。
間違うはずがない。
藤堂は、声を出した燐の頬を殴り飛ばした。
車掌が気づいて、ここに来ないとも限らないからだ。藤堂は容赦がなかった。
完全に意識を失った燐を見て、藤堂はほくそ笑んだ。
「プレゼントだよ、ここでしっかりと育てるといい。奥村燐君」
藤堂は燐の腹を撫でた。
傷口は跡形もなくなっていた。もう、自力で出すことは不可能だろう。
自分で腹を裂くなど、並大抵の神経ではできはしない。
それに、時間がたてば馴染んてきて、もう取り出すことなどできはしない。
藤堂は時計を確認した。終点までは、まだ時間がある。
燐はおそらく起きれないだろう。
藤堂は一呼吸おいて、カルラから奪った赤い炎を出した。
炎は、一瞬で座席や床に着いた血だけを焼き尽くした。
一瞬だけなので、車内の火災報知器も作動しない。煙も出さない焼き方。
それは、カルラの炎を完璧に操っていることに他ならない。
「じゃ、遅刻しないようにね」
藤堂は、次に止まった駅で降りて行った。
車内の異常に気づいたものは、誰もいなかった。
***
「ちょっと君、もう終点だよ!起きて!」
駅員の声で、燐は意識を取り戻す。
遠くの方で携帯電話のバイブの音が聞こえてきた。
無意識に自分の腹を撫でた。傷はない。
服も破れていなかった。
「大丈夫?家まで帰れるかい?」
駅員は意識の定まらない燐を心配したのか、顔の前で手を振った。
燐は意識を取り戻して、周囲を確認した。
「あれ・・・ない?」
傷口がない。のはわかる。燐の治癒力で塞がったのだ。
でも、座席や床に広がった燐の血までも跡形もなくなっている。
確かに出血したのに。あの量の血をあの短時間で片づけることは不可能だ。
一体どこに、夢か。でも痛みはあった。なんで。
燐はぐるぐると回る意識を定めようとした。
「携帯ならあるよ。はい」
「え?あ、ありがとうございます・・・」
駅員は燐が携帯を無くしたと思ったのだろう。
それを受け取って、燐は平静を取り戻した。
そして、バイブ機能がまだ生きていることを不思議に思った。
おかしい、確か設定では2分くらいにしたはずなのに。
燐は携帯を開いた。画面には、奥村雪男。と表示されていた。
着信だ。一気に、目が覚める。表示された時刻を見て青ざめた。
待ち合わせ時間を過ぎている。
案の定、電話に出ると思いっきり怒られた。
『ちょっと兄さん!!遅刻だよ!どこで何してるの!!?』
「うおおおお!ごめん!!」
燐は駅員にお礼を言って、素早く列車を降りた。
あれは、夢だったのだろうか。道を駆けながら燐は疑問に思った。
一抹の不安が抜けない。
血がないなんて変だ。あんなに出血したのに。
燐は自分の腹を撫でる。違和感は、ない。
夢と現実の区別がつかない。
燐はひとまず意識を任務へと向けた。
これ以上弟を怒らせたら、どうなるかわからない。
そのために燐は、駅員の言葉を聞き逃した。
「もう携帯落としちゃだめだよー」
燐は寝る前に携帯電話を握って寝たのに、落としていた。
その事実に気づかないまま燐は夜の町を駆けた。
植えつけられた種が、どくんと静かに脈打った。
今月号のSQネタバレ有り。単行本派は要注意!
メフィストの部屋に招かれて、食事を振る舞われた。
晩餐と聞いたのでなにが出てくるのかと思いきや、出てきたのはカップラーメンだった。
しかし、メフィストの好物はジャンクフードらしいので、
自分の好物で迎えてくれたというのは燐に対して思うところがあってのことか、否か。
燐は思った。こいつ、確実に面白がっているな。と。
カップラーメンの蓋を開けて、箸を取る。ナイフとフォークもあるが、
そんなもの使ってラーメンを食べるつもりはない。燐は麺を取って一口啜った。
「・・・まず、くはない」
が、しょせんインスタントだ。おいしいとは言いがたい味がする。
燐は小さな頃から家庭料理を極めてきた自信がある。
そのために鍛えた舌が、やはりあまりおいしくはないと訴えている。
まぁ食べられないことはないので燐は大人しく麺を啜った。
向かいにいるメフィストを覗けば、うきうきと嬉しそうに麺にかぶりついていた。
これが、俗にいう残念な大人だろうか。燐はため息をついた。
そんな男が、魔神の直系で、虚無界の第二権力者で、時の王サマエルだとは。
信じたくはないが虚無界まで連れて行かれた身としては信じるしかない。
そうなると自分の母親違いの兄に当たるのだろう。
カライ・・・じゃない。アマイモンもそう言っていた。
自分達は兄弟みたいなものだと。
燐は、メフィストに対してあまり良い感情をもっていない。
こいつが兄?絶対イヤだね。いや、本気で。
しかし、悪魔を見えなくする薬はメフィストしか持っていないのだ。
課題が何かはわからないが、メフィストに従うしかない。
それもまた燐の心に複雑な思いを抱かせる。
「メフィスト」
「なんですか?奥村君」
「俺は、お前の思い通りにはならねーからな」
箸を置いて、ごちそうさま。と手を合わせる。ご飯に罪はない。
頂いたことに感謝はしなければならない。
それは父、藤本獅郎に口を酸っぱくして躾られたことだ。
燐の父は藤本獅郎ただ一人だけだ。魔神ではない。
だから、メフィストがいくら自分の兄に当たろうとも、態度を変えるつもりはない。
今はかなわなくても、いつか絶対にあらがってみせる。燐はそう決めていた。
帰ろうと一歩を踏み出したところで、ぐらりと地面が揺れた。
おかしい、歩けない。燐は床に膝をついた。
意識が揺れる。メフィストはおかしそうに笑いながら、こちらに近づいてきた。
「おや。すみません、まだ内臓が回復してなかったのでしょうか。
刺激が強すぎたようですね」
燐は虚無界でアマイモンによってバラバラにされた。
悪魔の回復力で身体は元通りになったが、内蔵がまだたったのか。
そこにインスタントラーメンはきつすぎた。
燐はお腹を押さえてうずくまった。メフィストは燐の身体に触れようとする。
燐はメフィストの腕を振り払った。ぱしん。音がメフィストの部屋に響く。
「俺、に。触るなッ!」
「威勢だけは一人前ですね。警戒心もなかなかだ。ですが」
力が伴っていなければ、悪魔にとっては無意味です。
メフィストは燐の腕を引き上げて、そのまま横にあるベッドに放り投げた。
燐はやわらかい布団の上にうつ伏せで着地し、むぐ。とくぐもった声をあげた。
顔色はあまり良くない。メフィストは動けない燐を仰向けにひっくり返すと、
そのネクタイに手をかけた。
驚いたのは燐だ。部屋に連れてこられて、食事を振る舞われて。
帰ろうとしたら、ベッドに連れてこられた。これは、なんだ。まずいぞ。
映画とかでよくあるワンシーンみたいだ。
罠にはめられたターゲットがぺろりと食べられてしまう系のあれだ。
逃げようとするが、メフィストが上にのし掛かっているので動けない。
ネクタイを緩める手を外そうと手を伸ばすが、
力が入らないのですがりついているかのようだ。
メフィストは気分よく燐の上着をはだけさせた。
燐は気分が悪いのかうーうー唸っている。
「悪魔なら一瞬で治るんですけど、貴方半分人間ですもんね。
少しだけ手伝って差し上げますよ」
メフィストのひやりとした手が燐の腹を撫でる。
魔法陣が燐の身体に展開された。ざわりとした感覚。
燐は腕を張って、メフィストの身体がこれ以上近づかないようにしようとした。
「いや、だ!やめろ!」
「お兄さまが手伝ってやろうというのに、聞き分けのない弟だな」
そう言いながらメフィストの顔は嬉しそうだ。
メフィストの手が燐の腹を撫でる。
燐の腹には魔法陣があり、その上をメフィストの手が撫でている状態だ。
メフィストが手を動かすたびに、燐の中がざわついた。
「う、ああッ!やめッ!!」
「良い声だ、もっと鳴きなさい奥村君」
「いや、だ!ああ!」
内臓が、メフィストの手が動くたびにかき回されている。
魔法陣は治癒に使われるものだが、空間を司るメフィストが使えば、
腹を切り開かずとも手術を行える。
内臓は修復されるだけでなく、その位置も重要だ。
燐の場合内臓の位置がまだ不完全だったのだろう。
メフィストはそれを正しい位置に治しているのだ。
だが、いくら治すためとはいえ自分の意志とは関係なく
内臓をかき回されていることに変わりはない。
ひとしきり撫でられると、燐はごほりと咳をした。
口から血が出る。血がメフィストの寝具を汚す。
咳を何度か繰り返すと、燐の呼吸は落ち着いてきた。
「これで大丈夫でしょう。
治療だというのにはしたない声をあげて。いけない子ですね」
「こ・・・んの。クソピエロ!!」
燐は腕を振り上げてメフィストの顔面を殴ろうとした。
その腕も簡単にメフィストの手に止められる。
「感謝はされど、刃向かわれる謂われはありませんけど」
燐はメフィストの言葉に反応しなかった。
そう、身体が硬直している。メフィストが時間を止めたのだ。
燐の倶利伽羅を奪ったときも同じことをした。
この空間で動けるのはメフィストだけだ。
「ですが、治してあげたのですから相応の対価を貰いましょうかね」
メフィストの唇が燐の口からこぼれた血をなぞり、そのまま唇を奪った。
口の中に広がる濃厚な血の香り。魔神の直系たる甘美な味だ。
メフィストは我を忘れて燐の唇をむさぼった。燐は動くことはない。
そのままメフィストは手を燐の下半身に向けて伸ばした。
ここはベッドの上だ。やることといえばひとつしかない。
手が燐のズボンをはぎ取ろうと動くと。時の止まった世界に動きが生じた。
燐の身体から青い炎が吹き出して、メフィストの腕を焼いた。
つながっていた唇も、炎に焼かれる。
メフィストは舌打ちをして燐の身体から離れた。
途端に、炎は静かに収まっていった。
「これだから青い炎は・・・時を越えて反応するなどやっかいな」
そこに燐の意識はない。おそらく本能的なものが青い炎を動かしているのだ。
メフィストはことあるごとに燐を狙って仕掛けたが、
いつも青い炎に邪魔されて本懐を遂げられない。
今日は唇を奪えただけましな方か。
本来なら、燐の中をかき回すのはメフィストの手ではなく、もっと―――
いや、これ以上炎に焼かれてはたまらない。メフィストは指を鳴らして時を動かした。
燐はのし掛かるメフィストに向かって、反対側の腕で殴りかかった。
油断していたメフィストはもろに顔面で受けてしまい、ベッドの上に転がった。
燐は匍匐前進でベッドの上という危険地帯から抜け出すと、急いでドアの前に立った。
身体はもう大丈夫だった。
「この変態ピエロ!!!」
燐は顔を青ざめさせたり赤くさせたりしながら、部屋から飛び出していった。
おやおや、押し倒されただけであんなに動揺して可愛らしい。
時を止めて、もっとすごいことをしていたと言ったらどうなるだろうか。
メフィストは口角を上げて笑った。
「成長するがいい、末の弟よ。
成長し、挫折し、笑い、泣いて、苦しんで、もがいて、楽しんで、
動揺して、あがいて―――そして私の元へ堕ちて来い」
それまではこのままでいてやろう。
保留にしているだけで、止めることはない。
この遊びは、止めることなどできはしないのだ。
メフィストの顔は悦楽に歪んだ。
「本当に、私を飽きさせない末の弟は愛おしい」
寝具に着いた燐の血を指先で掬い上げると、べろりと舐めとった。
悪魔の愉悦は、終わらない。
燐は暗い部屋の中で、囲われていた。
電気は豆電球が一つ。
外に出るためのドアの前には燐の向かいに座っている人がいて出られない。
部屋はせまく、中は椅子が二個と机がひとつぎりぎり入るくらいの狭さだ。
部屋に設置された窓には枠が取り付けられており、その隙間から出ることはできない。
燐は拘束されていた。それも、人間に。
「で、なんで君夜にあんなとこ歩いていたのかな」
「おいいい、このパターン覚えがあるぞ・・・」
燐は机の上でうなだれた。ここは交番の、取調室である。
任務を終えた燐は一度男子寮に戻り荷物をおいた。
メフィストの部屋に向かうのに、重い荷物を持って行きたくはなかったのだ。
なぜだかわからないが、メフィストのところへ行く時には身軽にしようと燐は決めている。
なにかあるわけはないと思うのだが、何かあったときのためにすぐに逃げ出せるようにしておきたい。
そう本能が囁いている。燐は勉強はできないが、頭が悪いわけではない。
身の危険は、本能で感じ取っているらしい。
そんなこんなで荷物を置いて、外へ出たらこれである。
連日警官に捕まって連行されるなんで、燐には何か人とは違うオーラでも出ているのだろうか。
まあ人ではなく悪魔なのだが。悪いことはしていないのに、大変不本意だ。
燐は、早くここから抜け出したいと思って、お決まりの台詞を吐いた。
「俺はもう大人なんだよ!!」
「その外見で?あれかな、最近の高校生は進んでいるから。
童貞捨ててたら自分は大人とか思っちゃうんだよね。笑っちゃうよね。
君はどっちかというと、お酒とかたばこに走っちゃったタイプかな」
「ぐぬぬ・・・」
ど、童貞ちゃうわ!と言えたらどんなによかっただろうか。燐は黙り込んだ。
正直二十歳は越えているが騎士團の監視があるせいで、そういった色事には手を出せていない。
燐は最近の高校生にすら、俺は追い越されているのか。とショックを受けた。
童貞だけど大人です。
よっぽど言いたかったが、言えるわけもない。警官は口で言っても信じてくれない。
証拠を出さなければ信じて貰えないのだ。
燐はポケットを探して、祓魔師免許を出そうと考えた。
しかし、ポケットの中には小銭の軽い音しかしない。
しまった。燐は一度男子寮に戻っている。
あの荷物の中に、財布が、免許証が入っていたのだ。
「おいいい!またこのパターンかよッ!日本の警察はどうなってんだ!仕事しすぎだろ!」
「ほら、座って。よくわからないこと言わないの」
「そうだッあの時の警官の人っていないんですか!?俺一回その人に補導されたことあるんです!」
「へぇ、それ何日のこと?」
燐は当時の状況と日時を詳しく話した。すると警官がファイルを取り出して、
その警官が書いた調書や取り調べの内容をチェックし始める。
そしてじっくりと読んだ後、ファイルを閉じた。
書類にはこう書かれていた。
奥村 燐(つり目、青い瞳、黒髪が特徴)
かなり大きな派閥の後継者。組の重要人物である可能性あり。異母兄弟の九人目。
権力者である父親の正体は現時点では不明だが、要チェック人物。
運悪く、あの時の警官は今日非番だった。
誤解を解こうにも、悪魔の複雑な身の上を語れるわけもない。
書類の内容を見る限り、あの警官はまじめな性格だったようだ。
しかし、燐にとっての重要な語句、外見は若いが二十歳越えており大人。
という項目がすっぽり抜けていた。
なんという間の悪いミスだろうか。普通書くだろう。
しかし、人様とは違う家庭の事情をまともに見て、平静ではいられなかった可能性もある。
警官はあくまで人である。書類を見た後で、警官の燐を見る目が変わった。
燐は鋭い眼孔でヤのつく証拠を探そうとする警官に、身をすくませた。
ここでの対応を間違えれば、社会的に不名誉な留置という処置にならないとも限らない。
「で、君のご家族は何をしているのかな?
迎えに来てもらわないといけないんだけど。お父さんやお母さんは?」
「育ててくれた親父は本当の父親に殺されていねーし。
母親も、俺たちを生んで死んだって・・・家族は弟だけ」
「苦労してるね・・・ってことは本当のお父さんは捕まっちゃってるのかな。参ったな」
「いや、捕まってはいない。こことは別のところにいますけど」
「え、殺人者野放し状態?行き先は知ってるの?」
あ、まずい。燐の頭の中に瞬時に言い訳が巡った。
この世界と鏡合わせに存在している、虚無界という世界がありましてね。
そこの神様が俺の本当の父親で、俺は不本意ながらその跡継ぎとして悪魔に追われているわけです。
そうそう、父親って悪魔作った神様なんです。聖書にも載ってる有名人なんですよ。
あ、実のところ俺も悪魔なんですよ、しっぽ見ます?
などと言えるわけもない。燐は額に皺を寄せて悩んだ。
人をうまくあしらうのは雪男の得意分野だ。燐は正面突破が基本である。
「うーん、別世界。っていえばいいのか・・・」
「南米か密林にでも逃げちゃったのかな。すごい話だ」
「というよりも世界中に放火の罪で追われてて・・・って。あ、やべっ」
「・・・」
警官の顔がすごいことになっていて、燐はしゃべることを止めた。
たぶん全部は信じていないだろうが、確実に燐のことを危ない人を見る目で見ている。
今話したことは全部本当のことなのに、立場が違えばこうもわかりあえないものなのか。
燐は心が苦しくなった。
浮かぶのは、昼間にショックを受けた表情を見せた友達と、弟の姿だった。
早く帰りたい。早く帰ってこの茶番を終わらせたい。
そうだ、自分の目的はそうだったじゃないか。
燐はもう、恥を捨てた。
「うおおおお!俺を出せーー!俺は大人だー!」
「こら、暴れると公務執行妨害になるよ!
わかった、他にご家族いないの!?親戚のお兄さんとかは!?」
聞かれて、思い浮かんだのはメフィストとアスタロトこと白鳥だった。
もう一度メフィストに助けてもらうのか。
はたまたアスタロトに頼んで、取り繕ってもらうのか。
燐は瞬時に天秤を傾けた。どっちも無理。来た瞬間に交番が消し飛ぶだろう。
それは考え抜いた末に出した結論だった。
「雪男、たすけて」
***
雪男はたどり着いた交番の扉を急いであけた。
そこには椅子に座っている警官と燐がいた。
警官は雪男の姿を見るなり、「十人目か!?」と叫んでいた。
燐の弟である位置を考えれば、なるほど十人目に当たるだろう。
魔神の血縁の数を考えると、もしかしたら十では済まないかもしれないが、
もう説明することは不可能だ。警官は一般人である。
雪男は交番にたどり着くなり、免許証を見せて言った。
「すみませんうちのものがとんだご迷惑を。
身分証はこちらになりますので、番号でもなんでも控えてください」
警官は雪男の身分証と顔を交互に見て、質問した。
「あの・・・呼んだのはこの子の弟さんということらしいのですが・・・貴方は?」
「失礼、申し遅れましたが僕はこの子の親戚で奥村雪男といいます。
この子の弟から連絡を受けてここに来たんですよ」
雪男は年相応の背丈なので疑われることはない。
雪男が来たことで、警官はようやく処理に取りかかることができた。
そして、普通の人間の解釈で接し始めた。
「いやあ大人のお兄さんが迎えに来てくださってよかったです。
この子、家族は弟さんしかいないというもので」
「ええそうですね、少し複雑な家庭なもので」
「おい、雪男なにおかしな事言って・・・」
お前は俺の弟だろう。言おうとするが、雪男はすかさず燐の口を閉じて、黙らせた。
端から見たら失礼な物言いをした弟を黙らせる兄。という風貌だ。
口を手のひらで塞がれているので燐には言葉が返せない。
雪男と警官のやりとりは続く。
「やはり高校生をあまり深夜に外出させるのはよくないかと思われるのですが」
「ええ反省しております。僕たちには親がなく、
弟のことを甘やかしてきた僕の責任でもありますね」
「いえいえ、できたお兄さんを持って弟さんは幸せですよ。
近頃は男の子といえども危ないのでね、補導には力を入れているんですよ」
「そうなんですか。それは知らなかったな・・・物は相談なのですが、近頃変な輩がいましてね」
「ほう、それはどんな?」
燐にはよくわからない話をしながら、雪男は笑顔でしゃべっている。
しかし、内心燐の心は動揺していた。
メフィストに言われた仕返しはまだ終わっていないのに、雪男を呼ぶはめになってしまったのだ。
これはきっと怒っているだろう。
「でも、遠縁なせいでしょうか。お兄さんと弟さんってあまり似ていらっしゃらないんですね」
警官の言葉に雪男は返した。
「よく言われます」
「ええ、異母兄弟ですけど末の弟にはたまにお兄ちゃんと言われますよ」
「私は呼び捨てですが、それでもかまいません」
警官は後ずさった。なんだ、こいつらいつの間に。
見れば雪男の背後には、事の元凶のメフィストと今にも魂が抜けそうなアスタロトがいた。
おそらくメフィストとやり合って、体がついていかなかったのだろう。
それでも青い顔で燐にすがりついている。
「ご無事でなによりです、暴行させて下さい若君」
「おい、本音はそれかよ」
「こいつは従順なふりをしていますが、その反面残虐な嗜好も持ち合わせていますからね。
Mだと思ってたら大間違いですよ」
メフィストは傘でアスタロトを一突きすると、アスタロトは虚無界へと強制送還された。
倒れた白鳥は、またもや警官の元へ預けられた。燐よりも、白鳥の方が常習犯扱いである。
もちろん、本人に記憶はないが。
目の前で悪魔のやりとりを見せられた警官は目を白黒させている。
メフィストはそんなことには目もくれず、燐に手を差し伸べた。
「さぁ行きましょうか奥村君、お楽しみはこれからですよ」
めくるめく夜の始まりである。燐にとっては最高の悪夢だが。
メフィストの指が燐に触れようとしたところで、その手が捕まれた。
雪男が邪魔をしにきたのか。
メフィストは振り払おうとするが、その相手は雪男ではなかった。
「ちょっとお話を伺いたいのですが」
それは燐を補導してきた警官だった。メフィストには警官に捕まえられる理由がない。
こんなおっさんの外見が高校生に見えたのならそれは一体どんな魔法だろうか。
メフィストは訳がわからず首を傾げる。
「え?あの・・・何か私にご用で・・・」
「いえね、最近頻発している若い男子に声をかける不審者がいましてね。
そのことについてお聞きしたいことが」
「え?え?」
「こちらに来ていただけますか」
警官は、メフィストを取調室に連行しようとする。
燐はその様子をぽかんとした顔で見ているが、背後に立っている雪男とメフィストの目があった。
雪男の目は、笑っていた。
計画通り。
そんな顔だ。メフィストは叫んだ。
メフィストは表向き、ヨハン=ファウスト五世という名で正十字学園理事長という名誉ある職についている。
男子高校生を手込めにしようとした変質者。の疑いはその職をおびやかすような不名誉なものになりかねない。
警官相手にはうまく立ち回らなければまずいことになるだろう。
雪男の狙いはそこだ。
「私を出し抜いたつもりですか!だが貴方と奥村君はとうに違う道を歩いている。
貴方に燐が救えるか!」
今助けたところで、これから先も雪男が燐のそばにずっといれるかはわからない。
その点、メフィストならば適役だろう。悪魔と人の寿命の違いをメフィストは訴えている。
燐には人間としてではない、悪魔としての生き方もあるのだ。
それでも雪男には答えがあった。
雪男は燐を交番から連れ出しながら、そっとつぶやいた。
「わからない、だが共に生きることはできる」
兄弟は連行されていくメフィストを置いて、交番を去っていった。
一方、もののけ扱いされた燐はなんとも複雑な表情を浮かべている。
雪男につながれた手を、なんとはなしに離した。雪男は振り返る。
「兄さん、自分がまずいことした自覚はあるの」
「そりゃ・・・悪魔っぽいことした自覚はある」
「そうじゃなくて・・・ああ、もう面倒だな。
フェレス卿に生きたまま食べられそうになってたんだよ兄さんは」
「そうなの?あいつ人食べるのかよ」
「そ、だから気をつけてよね。今回、僕らにどれだけ迷惑かけたと思ってるのさ」
言い終わるか否かに、雪男の携帯に着信があり、雪男はそれに出た。
着信の相手は勝呂からであり、ことの次第を説明したら勝呂は安心した声をあげた。
雪男が燐の様子を伺えば、しょんぼりした表情をしている。
内容は、悪魔の聴覚で聞こえているようだ。
燐は勝呂のことを羨望の眼差しで見ているので、思うところもあるのだろう。
「あと、俺らの方も任務完了したんでメール送りますね」
「ありがとうございます。お疲れさまでした」
雪男が通話を切ると、すぐにメールが送られてきた。
そこには、アスタロトとの戦闘でぼろぼろになったメフィストの部屋が写されていた。
追い打ちをかけるように志摩が高濃度の聖水をぶちまけており、
寝室に張ってあった燐を捕らえるための結界もぼろぼろだ。
挙げ句の果てには、メフィストの娯楽ルームのゲームや
フィギュアが破壊されている光景も写っていた。
アスタロトとの戦闘によるものもあるが、京都組の頑張りもあったことは内緒の話である。
燐は所在なさげに視線を逸らすと、近くにあった公園の中に入っていった。
雪男はそれをゆっくりと歩いて追いかける。燐は、公園のブランコに座っていた。
「未成年を発見、補導しちゃうよ」
「うっせーな、お前までそんなこと言うなよ」
燐は足をぶらぶらと動かして、揺れた。
昔から帰りたくないことがあると燐は公園で時間を潰していた。
そんな燐を迎えに来たのは雪男であり、神父であった。断じて、あのピエロではない。
雪男は、燐に話しかけた。
「ねぇ、なんであの時僕に連絡しなかったのさ」
燐が補導されたあの日、メフィストに連絡したのは雪男だが、
それは監視役としての連絡だけの意味であって、燐を探すようになど
一言も言っていない。迎えに行くのは自分の役目だと雪男は自負していた。
「だって、俺もう大人だぞ」
「その割には中身子供と同じだけどね」
「うっせーな、俺はお前の兄ちゃんだぞ・・・言えるかよ」
燐は雪男に言い返す。
雪男と燐は双子で同じ年なのに、燐はずっと子供の姿のままである。
燐は雪男の背が伸びるたびに羨ましかったし、髭が生えた時は自分も生えないか鏡を見たこともあった。
でも燐は悪魔で、これから先人間と同じように成長できるかはわからない。
燐はそれがすごくイヤだった。
年齢を考えれば、燐はもう自分でなんでもできる年なのに、世間がそれを許さない。
「あーあ、早く大人になりてーなー」
悪魔としての成長を促すメフィストの手は、確実に燐に伸びている。
今回のことだって、そうだ。
だから、兄さんにはまだ子供のままでいてほしいな。
そう思う雪男の心を燐は知らない。
燐はブランコから降りて、雪男の元まで来た。
そして、雪男より先に歩き出す。
「言っとくけど、俺の家族って考えた時に浮かぶのは、お前とジジイだけだからな」
そう言って、燐は振り返らないままだった。
雪男は思い出す。メフィストと燐は、確かに魔神の息子として。悪魔としての繋がりがある。
お兄ちゃん。言葉一つだが雪男が燐に怒ったのは、
メフィストとの繋がりが深くなるのではないかという懸念もあったからだった。
でも、燐が選ぶのは人間の家族の雪男と神父だ。
だから、今回は雪男を呼んでくれたのだろう。兄としてのプライドより選んでくれたものがある。
雪男はそのことに安心感を覚える。
「なら、いいんだ」
雪男は燐の後ろを追いかける。
お互いに追い越したい思いを抱えたまま、兄弟は歩き出す。
大人になっても変わらない二人がそこにはあった。
雪男は携帯を操作して、先ほどのメールを送信した。
その夜、交番から十人目に騙された、というメフィストの絶叫が聞こえてきたという。
メフィストに呼ばれて理事長室の扉を開ける前、燐はなぜだか妙な胸騒ぎがしていた。
胸の奥がざわついている。嫌な予感、とでもいうべきだろうか。燐の直感はよく当たる。
しかも部屋の前での胸騒ぎだなんて、十中八九中にいる人物が原因に決まっている。
燐はメフィストからの呼び出しを無視することに決めた。
人のことをおちょくって遊ぶことが趣味の悪魔だ。
一回や二回呼び出しを無視したってかまわないだろう。
燐はそう決めるとくるりと方向転換して、今来た廊下を戻ろうとした。
しかし、そんな行動などお見通しだったのだろう。
中から声がかかる。いつものスリーカウントだ。
「アインス・ツヴァイ・ドライ!」
ピンク色の煙に包まれたかと思うと、次の瞬間には理事長室の中にいた。
燐は目を開いてあたりを見回す。目の前にはニヤリと笑う悪魔が一人。
燐はメフィストに抗議した。
「いきなりなにすんだよ!」
「上司の呼び出しに応じない躾のなっていない
候補生を呼び出しただけではありませんか、問題でも?」
「・・・嫌な予感がした」
「流石奥村君です。第六感の鋭さは折り紙付きですね☆」
「なん・・・だとッ」
燐は後ずさりした。一体どんな無茶振りをされるのだろうか。
メフィストの口振りからして恐ろしい予感しかしない。
たぶん、燐が嫌がることだ。それは間違いないだろう。
メフィストは指を燐の背後に向けた。恐る恐る振り返って燐は目を見開いた。
そこには青い生地に美しい装飾が施された着物があった。
靴はブーツであることから、どこかモダンな雰囲気も醸し出している。
装飾の細かさと美しさを見れば、一目で価値のある一品だとわかるものだ。
まるで貴族が着ていそうな、祭事に使われていそうな着物だった。
燐は着物を見て首を傾げた。
「これがなんだよ」
「はい、君の衣装です」
「え」
燐は額から冷や汗をかいた。メフィストは動揺する燐を見てとても嬉しそうに答えた。
「君に任務を言い渡します。この着物を着て任務に向かってください。
詳しいことは夜君から聞くといい。連絡は既に取ってあります」
燐は全力で部屋から逃げ出そうとした。
しかし、制服の端をメフィストに捕まれて思い切り床に引き倒された。
抵抗材料となる倶利伽羅は早々に燐から引き離して、ソファの上に投げ飛ばす。
カシャンという金属音が響く。燐はメフィストを殴りとばそうと拳を上げた。
しかし拳ごと無情にも押さえ込まれてしまった。
床に倒れ込んだ燐の上にメフィストがのし掛かり、足も体重をかけて拘束される。
燐の馬鹿力も、同じ悪魔であるメフィストにとっては無意味にされてしまう。
「聞き分けのない子だ」
「どけよッ!」
燐が暴れようとすると、ちょうど扉の開く音がした。
燐は天の助けと思い扉の方向を向く。そこには燐を少し成長させたような容貌の、夜がいた。
夜はメフィストと燐の状態を見て怪訝な表情を浮かべる。
「未成年者暴行未遂・・・」
「失礼ですね、奥村君がこの衣装を着ないと言うからこうなったんですよ」
夜は視線をずらして豪華な衣装を見た。
そして燐が必死に抵抗する意味がわかってなんともいえない気分だ。
誰だって無理矢理着替えさせられそうになったら抵抗するだろう。
燐は床の上で芋虫のように蠢きながら抵抗した。
「イヤなものはイヤだ!!こんな高そうな着物着れるか!
任務に行った先で汚したら責任持てねーよ!」
「貴方変なとこで理性的ですよね」
「着物の汚れって取れにくいんだぞ!」
「・・・まぁそこはフェレス卿がクリーニングに出せば済むことじゃないか?」
「そうですね、高くは付きますが補償しますよ奥村君」
夜とメフィストに丸め込まれそうになっている。燐は声上げて抵抗した。
「メフィストに借りを作るのがイヤだッ!」
「それは確かにそう言えるな。燐、お前賢くなったなぁ」
「貴方たちがどういう目で私を見ているかよくわかりましたよ」
ぎりぎりとなおも抵抗の手を緩めない燐を片手で拘束して、メフィストは夜を呼びつけた。
「夜君、このままじゃ埒があかないんで奥村君押さえておいてください」
「え」
「夜!お前俺を見捨てるのかよ!」
「これは命令ですよ、ちょっとだけでいいですから!」
夜は非常に困った。
メフィストは上司だし、虚無界の権力者である八候王の一人にも数えられる人物だ。
下級悪魔の夜が逆らえるはずもない。でも燐はもっと大物だ。
今は候補生でいるが魔神の力を継ぐ唯一の後継者であり青い炎の使い手である。
どちらも夜にとっては逆らい難い。夜は少しの間思案して、二人に近づいた。
「すまん、許してくれ」
俺も今はしがない雇われ悪魔なんだ」
そう言って夜は燐の腕をがしりと掴んだ。燐の顔が真っ青になる。
夜は自分に味方してくれると思ってたのに。
所詮祓魔師と言ってもサラリーマンということだろう。
人間世界で生きるにはこうした処世術が必要だ。曰く、上司に逆らうべからず。
夜のお陰でメフィストの両手が自由になった。ここからが腕の見せ所だ。
どう辱めてやろうか。
メフィストは嬉しそうな顔で燐のネクタイに指を絡めると、しゅるりとネクタイの結び目を解いていく。
「ふふネクタイ結ぶのお上手ですね、
まるでプレゼントのリボンを解いているみたいで胸が高鳴ります」
「はーなーせー!!」
燐は最終手段の炎を使おうとするが、炎を使おうとすると体が硬直することに気づいた。
このクソピエロ。部屋全体に結界張りやがった。燐相手のメフィストの本気が怖い。
延びる魔の手から逃れようと、声を大にして叫んだ。
「雪男――ッ!助け・・・むぐぅ」
「ナイスタイミングです夜君」
「すまん燐。この償いは必ずするから・・・」
夜の手で口を塞がれ、手を拘束され。燐はメフィストによってぽんぽん脱がされていった。
高校生が大の大人によってたかって
拘束されて服を脱がされている姿を見て、夜はかなりの罪悪感を抱いた。
だってこれではまるで。
「なんだか強姦している気分ですね。ドキドキしますね」
「・・・やめてくれ頼むから」
燐を無理矢理。その実行犯に数えられることはごめんだ。
状況的にはそうでも、絶対にごめんだった。
悪魔二人の手によってセクハラとパワハラを受けた燐は、哀れ。
すべてが終わった頃には真っ白に燃え尽きていた。
***
「危ない!全員逃げろ!!」
森にある神木に向かって、祓魔師の男は声を荒げた。
瞬間、神木の前にあったお社がぐにゃりと曲がる。空間が捻れた後、お社は木っ端みじんに砕け散った。
ここは以前周囲の山を仕切る神が祭られていた神社だった。
しかし時代の移ろいと共に山岳信仰が廃れると、
以前はあったささやかなお祭りも、供物も、信仰心のある人間も少なくなっていった。
足の途絶えた神社は荒廃していく。神はただそこにあるだけの神となった。
祭られていた神は、名のある土地神だ。自分を忘れた人間に対して恨みを持った。
だから、山に立ち入った人間を次から次へと神隠しに会わせた。
いつからか、山は神隠しの山と呼ばれるようになった。
地元の人間は、ますます山に入らなくなった。
正十字騎士團は神隠しにあった人間を取り戻す依頼を受け、山に立ち入った。
しかし、名のある神なだけはある。空間を捻れさせ、姿を現さない。
いくら荒神となったとしても、神は神だ。神殺しは大罪である。
祓魔師のチームを率いていた男は、メンバーに後退するように言った。
メンバーの中には雪男も混じっていた。
「ここは一端引くぞ!この締め縄より後ろへ下がれ!」
神域を区切る締め縄は、そこにあるだけで結界の役目を果たす。
メンバーは全員、しめ縄の前。つまり神社へと続く階段へと避難していた。
祓魔師が逃げたことにより、荒神による攻撃も一端だが収まった。
だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。
雪男はメンバーの手騎士に話しかけた。
「あの神は、なんて言っているかわかりますか?」
「使い魔からの話で概要だけはなんとか・・・」
手騎士は掻い摘んで話を述べる。あの神は人間に忘れられたことが悔しい。
人間にまた祭られたいと思っている。ここまではわかる。
だが、謝罪しろ。目上の者に会わせろ。と言っているという。
「使い魔から聞いた話なのであまり詳しくはわからないのですが、
どうもかなり気難しい性格だそうです」
「位が上の神は扱いにくいって言いますもんね」
雪男が眉をひそめる。しかし扱い辛いからといって神を殺すわけにはいかない。
あの神は周囲の山を統括しているのだし、殺せば山に影響がないとも限らない。
ことは穏便にすませたかった。
「つまりあの神様はいわゆる人間における上司からの謝罪、が
欲しいということでしょうか?」
「おそらく」
人間における目上の者からの謝罪。クレーマーみたいなことを言う神だ。
そうなるとこの中で一番位の高い者はチームリーダーだろうか。
リーダーの男はそれならばと声を上げて、叫んだ。
「申し訳ない!人間の都合によって振り回されご迷惑をおかけした!
この場を借りて謝罪します!!」
すると、べし。とリーダーの頭に緑色の毬栗が投げつけられた。
山からの攻撃、だろうか。リーダーは頭をさすりながら戻ってくる。
俺じゃ駄目みたいだ。一応上一級祓魔師なのに。とへこんでいた。
この中での上司が駄目。となると考えられるのは、この神社を祭っていた
近くの町の町長とかになるのだろうか。
しかし神隠しの被害にあっている町の住人を連れてくるわけにはいかないだろう。
今度は住人のほうから謝罪を求められそうだ。
雪男たちはあらゆる手段を取って対応してみたが、
その都度山からアオダイショウが投げられたり、石が飛んできたりした。
神はどれもお気に召さないようだ。
ではなにが言いたいのかというと、手騎士の使い魔では又聞き状態になってうまく話が聞き取れない。
神を沈める方法で一番やっかいなのが会話ができないことだった。
殺せないのなら説得するしかないのに、言葉が通じない。
これほどやりにくい相手はいないだろう。
神隠しにあった人間も浚われてから時間がたっている。
あまり長引かせるわけにもいかないのに、時間だけが過ぎていった。
リーダーの男が支部への定期連絡を終えると、辺りは徐々に暗くなっていっていた。
「なんとか日暮れまでに決着をつけたいけど」
視線を山へと向ける。辺りは夕暮れで赤く染まってきた。
雪男は神社へと続く階段に目を向けた。
神社は、山道から階段を上がってくるようになっている。
階段の両側には楠が植えられており、隙間から漏れる夕暮れの光が幻想的な雰囲気を作り出している。
その階段の下から、なにかがあがってきている。雪男は警戒して銃を構えた。
夕暮れ刻は逢魔ヶ時。悪魔が来てもおかしくはない。
徐々にこちらに近づいてくる人物は二人、一人は祓魔師のコートを着ていた。
そのことで雪男の警戒は少し取れる。
しかしその背後にいる人物は誰だろう。
青い豪奢な着物を着て、ゆっくりと登ってきている。
祓魔師の顔を確認して、雪男は声をかけた。
「夜さん?!」
驚いた。定期連絡で手こずっている情報を聞きつけて応援にきてくれたのだろうか。
祓魔師でもありながら悪魔でもある夜は、
言葉の通じない相手との会話には重宝されている。
雪男は夜が来たことに気を取られていたが、その後ろにいる人物を見て目が点になった。
そこには青い着物を着て、瞳の奥に静かな怒りを潜めている燐がいた。
なんで兄さんがここにいるの。
雪男は声をかけようとしたが、できなかった。
長年一緒にいるのだ。一目見てよくわかった。兄は、怒っている。
何に対してはわからないが、こうなった時の兄は手がつけられない。
雪男は一歩引いた。なにかまずいことにならなければいいのだが。
夜は締め縄の前までくると、口上を述べた。
ちなみにカンペ付きである。
「荒神様にかしこみ申す!我は上一級祓魔師だが、こ
ちらにおわす方にお仕えする下級悪魔でもある。
こちらにおわす方をそこらの人間とお思いになられるな。
やんごとない身分の、高貴なるお方であられる。
この度の荒神様のお戯れを深く嘆いていらっしゃる。
そこで荒神様のご用件をお聞きしに参った!」
夜が言い終わると、山がざわついてなにかの音を響かせた。
地鳴りのような、木々のささやきのようなそれは雪男達にはただの音にしか聞こえない。
しかし、夜には言葉として聞き取れているようだった。夜は眉をひそめる。
「謝罪、と供物・・・?いや、待て。そんな無茶なこと。
人質を拘束?私を誰だと思っている。神に逆らうのかって、えええ。まずい、な」
ぶつぶつとつぶやく言葉の端々から、まずい事態になっていることが伺えた。
どうやら、神様は怒っているらしい。
気むずかしいクレームの対応を行っていたところで、
訳の分からない悪魔が来たのだ。怒らないわけがない。
山がざわついて、上から枯れ葉が落ちて来た。
神が怒っているのだろう。夜は後ろを振り返った。
燐は黙ったままだ。夜は燐に声をかけた。
「この神様は、要求が通らないと人質を殺すそうだ。
しかもその人質ってのが神社の信仰を思い出してお供えしに来た人たちみたいだぞ。
ここの神様は頭に血が上って、自分の味方を浚っちまったみたいだ。
話も通じない。どうする?」
要求は自分を奉って、人間による謝罪と大量の供物。
その供物の中には人間まで含まれていた。どんどん内容がエスカレートしていっている。
自分の味方をしてくれた人を間違って拘束して、謝罪も要求している。
気むずかしいとは聞いていたが、ここまでくると流石に調子に乗っていると思わざるを得ない。
燐は一歩踏み出した。夜と雪男が一歩下がった。
そして、締め縄の手前で燐が言った。
「跪け」
途端に、青い炎が階段脇にあった楠に灯った。
炎はそのまま神社周辺の木々に宿って、神社を取り囲む炎のドームができあがった。
祓魔師のメンバーはその地獄のような光景に冷や汗をかいて叫んでいるし、
神様も青い炎に怯んだのか地鳴りがしている。
地獄絵図のようだった。なおも燐と神のにらみ合いは続いている。
時折炎が吹き荒れると、近くの空間が歪んで爆発を起こす。
物質界なのに虚無界のような光景だ。
夜と雪男はことの成り行きを見守っていたが、魔神の落胤と神様の
ガチンコ勝負を止めるタイミングがわからない。
二人とも燐に声をかけ辛くてしょうがなかった。
すると途端に炎が消え、地鳴りが止んだ。
辺りが静寂と暗闇に包まれる。燐は言った。
「てめぇのせいだろ!甘えんな!」
すると神木の前に、神隠しにあっていた被害者が現れた。
祓魔師達が駆け寄って助け起こすが、全員怪我もなく無事なようだ。
辺りはしいん。と静まり返っている。
説得、というかねじ伏せたらしい。夜は燐に話しかける。
「なんて言ってた?」
「ああ、あいつ最初は寂しかっただけだったらしいけど。
人を浚ったり、物を壊したり。駄々をこねる度に色々な要求が通るから、
最後の方は狙ってやってたんだってさ」
「なるほどね、だから甘えるな、か」
「まぁもうやらないだろ。でも信仰ある人に加護は与えるらしいから、
祭っておいて損はないぞ」
クレーマーと言える者の目的は、自分の要求を通すことである。
しかし、クレーマーは位のある者に対応されると途端に萎縮する傾向がある。
メフィストがここまで読んで燐を派遣したかは定かではないが、被害もそれほどなく終わり方は見事だ。
しかしこのやり方は格上とされる超上級悪魔がやるから成功するのである。
日本支部においてはおそらく燐かメフィストくらいしかできないだろう。
「あのおっさん自分が行く面倒だったから俺に言ったんだろ!!」
「否定はしないな、まぁ無事終わったんだから怒るなよ」
「そうだよ兄さんのお陰で終わったんだし。人質も無事だったんだからさ」
二人に説得されながらも燐は顔を赤くして怒った。
「俺が怒ってるのはそこじゃねぇ!!」
「じゃあなんで?」
「こ、この着物ッ着たくなかったんだよ!」
「ゴージャスだけど似合ってるよ?」
「まぁ確かに、格好いいぞ」
「だって・・・アイツが!」
燐は言葉を続けようとして押し黙った。
夜と雪男が首を傾げる。雪男が燐をじろじろと見た。なんであんなに怒ったのだろう。
望まない着物を着せられたからだろうか。しかしそれだけではないような気がする。
燐は我慢できないといった風に訴えた。
「メフィストの野郎!着物は下は穿かないもんだって、俺のトランクス盗ったんだよ!!」
普通に着るだけなら問題なかったのに。
メフィストはあろうことか燐の穿いていた下着を奪ったのだ。
つまり、今燐は。
自然と雪男の視線が燐の下半身に向いた。
燐は顔を赤くして震えている。夜は奥村兄弟のやりとりを首をかしげて見た。
「着物着たら下は穿かないんじゃないのか?」
「誰ですかそんなこと言ったの!」
「フェレス卿」
「あの悪魔!!」
人間の常識を知らない夜まで丸め込んでいるなんて。
今時穿かない人間は一部しかいない。そのマイノリティを常識だと教え込んでいる。
雪男はメフィストの恐ろしさに戦慄した。
このままでは夜も燐もメフィストの良い様に教育されてしまいそうだ。
恐ろしい事実を知って、雪男は言葉も出なかった。
そして話を聞いていたのか周囲の祓魔師がひそひそと燐を指さしている。
燐にはそれが、穿いていないんですってよ。ノーパン。
などという言葉に聞こえて、耳を塞ぎたくなった。
雪男はリーダーの男に声をかけると、燐の手を引っ張って階段を下りていく。
夜はその後をついていく。
「とにかくどこかのコンビニ行こう。落ち着かないでしょう」
「う・・・うん」
「悪い燐、そうだとは知らなくてな。
着替えの時の謝罪の意味も込めて俺が下着買ってやるよ。早い方がいいよな」
夜はそう言うと、燐をひょいと抱えあげた。そのまま悪魔の跳躍力で飛んでいく。
「わああああ!夜、待て!」
「近くのコンビニまで一キロちょいあるから、雪男!先に行っておくぞ!」
「夜さん、待って!兄さん!」
雪男は飛んでいく二人を見送って、呆然としていた。
「・・・着物の裾が、はだけてて」
見えていた。抱えられているとはいえ、飛んだり跳ねたりしていたら当然だろう。
兄が公然猥褻罪で捕まらないためにも、急いで追いかけなければならない。
そして夜に悪魔に教えられただろう間違った知識を正さなければ。
雪男はため息をついて、二人を追いかけるために走り出した。
まず手始めに教えるのは、メフィストの言うことを信じるな。という事からだろうか。
青い月が灯る夜空を、一枚のカーテンが遮った。
閉まる音は部屋の中を外界と遮断する為の合図だ。
メフィストはおかしくてしょうがない、という風に笑う。
「やっと二人っきりになれましたね奥村君」
視線を窓から部屋へと向ければ、そこにはメフィストから貰った青い着物を羽織った燐がいた。
團服は着ておらず、プライベート用のラフな格好だ。Tシャツにズボン。その上から羽織る青い着物。
不思議な格好だが、そのアンバランスさがなぜだか似合っていると感じた。
燐は、年齢で言えば二十歳を超えている。しかし、その体は十五歳の時から時を止めている。
成長していないわけではない。ただ悪魔の成長が人間のそれと比べてとても緩やかなものであることは確かだ。
その証拠に五年たった今でも、十五歳の時と同じ風貌を残している。
悪魔の旬は、人間でいう十六。その上、汚れのないうちに腹に納めることが悪魔の作法だ。
メフィストは常々実に惜しいと思っていた。もしも燐が十六のままで姿を止めていればと思うと。
喉が思わず鳴ってしまう。だがそうなれば他の悪魔が黙ってはいなかっただろう。
旬の香りにつられて今以上の悪魔がこの学園に押し掛けていたのかもしれない。
そう考えれば、十五で時を止めたのは一種の防衛反応だったのかもしれないとさえ思えてくる。
燐はメフィストの言葉に首を傾げた。
「なぁ最後に教えてくれることってなに」
燐はあくびをする。眠いのだろう。
今の時間ならば燐は寝ていてもおかしくはない。メフィストは指を鳴らした。
「とても、気持ちのいいことですよ」
燐の目の前が煙に包まれ、次の瞬間には燐の体は横たわっていた。
とっさに手をつけば、手が沈みこんだ。とても柔らかい、高級なシルクのシーツの感触。
なぜ自分はここにいるのか。起きあがろうとする体にのし掛かるものがいた。
「メフィストッ」
燐の体勢は、メフィストに押し倒されていると言っても過言ではない状況だった。
視線を逸らせば、先ほどまでいた理事長室の明かりが部屋の遠くの方から覗いていた。
ここはメフィストの寝室だ。カーテンは閉められ、スタンドの明かりがぼんやりと照らすだけの空間。
なぜこんなことになっているのか、燐には検討がつかない。
「離せ!」
「言ったでしょう、私の夜伽話。ですよ。ああ正確には伽をするのは君ですがね奥村君」
「よ・・・とぎ?なんだそれ、おとぎ話?」
「それに近いですね、しかしファンタジーではありません。肉と欲にまみれた即物的なお話ですよ」
メフィストは燐の着ていた羽織をはだけさせ、Tシャツをたくしあげた。
驚いたのは燐だ。なぜメフィストの前で体を晒さなくてはならないのか。
燐は必死に抵抗した。しかし、体にうまく力が入らない。
「なん、で」
「暴れることも想定内ですよ、私がなんの準備もなく貴方をベッドに招くとでも?」
メフィストが指を鳴らすと、部屋全体に青い魔法陣が浮かび上がってきた。
その陣はベッドに近づくにつれて糸のように組みあがり、最終的に燐の体を覆う鎖のようになっていた。
先ほどまで見えなかった、青い鎖。それが燐の体を捕らえていたのだ。
燐は炎を出して逃げ出そうとするが、それも鎖の拘束によるものだろうか。
炎を出そうとすれば途端に体が硬直してしまう。
強ばった体を愛おしむように、メフィストは燐の体のラインをなぞると、
ズボンに手をかけて下に引きずり下ろしてしまう。
残るは、下着だけとなってしまった。
燐は唯一動く口でメフィストを罵った。
「この変態理事長ッ!」
その言葉すらおもしろいと言ったふうにメフィストはおどけて言った。
「PTAを敵に回すのも悪くない」
見た目十五歳の燐を手込めにする学園の理事長。
これで正十字学園の制服を燐が着ていれば完璧だっただろう。法を犯す行為。
悪魔としては最高の名誉ではないか。
そしてメフィストは燐の下着を奪い取り、その体を貪る為に自分の上着をはぎ取った。
部屋からは、二人分の体重を受けて軋むベッドの悲鳴と。燐の悲痛な声が響きわたった。
「―――ああ、教育委員会が見てるッ」
「その口を閉じなさい志摩君!!!」
雪男が近くにあった本の角で志摩の頭を殴り飛ばした。
志摩の持っていたノートが、ばさりと手から落ちて床に広がった。
そこには燐のお世辞にも上手いとは言えない字で、台詞が書かれている。
勝呂はそれを拾い直すと、ぱらぱらとめくって内容を確認した。
これは、燐が図書館で読んでいた資料。その写しだ。
「あいつ、律儀に俺の言うたこと守ったんやなぁ・・・それにしても、内容がえげつないわ」
燐が勝呂に聞いた、暗記をするための方法。朗読して、書いて覚える。
燐はきちんとその言葉を守っていたのだ。
勝呂は、図書館で燐が見ていた内容をほんの少しだが覚えていた。
その記憶は、最終章に関連するものだったらしい。
夜伽、という単語を見て勝呂はぎょっとしたが、
淫魔相手の祓魔作業もある仕事柄故、深くは追求しなかったのだ。
悪魔を罠にかけるために、そういうふりをすることがあるからだ。
しかし今では何故追求しなかったのかと悔やまれる。
事の始まりは、燐が夜になっても戻らないという雪男からの連絡だ。
昼間に豹変した燐の態度を見ていたので、何かあったのだろうと思ってはいたが、雪男と話してその訳がわかった。
「実は、兄と少々喧嘩をしてしまいまして・・・
普段ならなんてことはないのですが、今回は長引いてしまっているんです」
「ああそれで・・・ん?となると奥村は今先生とは別行動なんですよね」
「ええ、無視されていますし」
「じゃあ図書館で見たあの資料は一体なんやったんや―――?」
勝呂は燐が最近任務で淫魔関係の仕事を扱ったかを問いただした。
しかし雪男の記憶では燐はそんな仕事をしていた覚えはない。
では任務の資料と思われるあの冊子にふりがなをふった人物は一体誰なのだろうか。
燐は試験に合格したとはいえ、まだ勉強は苦手である。
仕事で渡された資料も、たまに雪男がふりがなをふってやって、なんとかこなしているような状況だったのだ。
一体誰が燐に資料を渡したのか。そこが今回の事件の肝の部分だ。
騎士團は燐に対しては昔よりは緩やかになったとはいえ監視の体制を解いてはいない。
燐がそういった性的なこと。つまり子供を残すようなものには極力触れさせたがらない。
魔神の落胤が淫魔に手籠めにされる状況など、騎士團にとっては悪夢だろう。
燐以外の魔神の落胤ができては一大事なのだ。
急いで雪男と合流した京都組は兄弟が住まう旧男子寮で燐の不可解な行動を改めるために、
燐の荷物を片っ端から捜索した。いわゆる家探しである。
燐の免許証や仕事道具が転がっていることから、一度は寮に帰ってきたらしい。
しかし、また出ていったようだ。
「ウホッ、女子校生モノとか良い趣味しとるわ奥村君」
「志摩さん、そんな個人さんのプライベートに関わるもん探さんといてください!不謹慎や!」
子猫丸は志摩の持っていた燐の秘蔵書を元の位置に戻した。しかし志摩の手つきは卑猥である。
個人の秘密を探るなど愉快以外の何物でもないだろう。
志摩廉造は即物的な男である。さっそく次の獲物へと手を伸ばした。
「ん、このノートは奥村君の字やな・・・」
志摩が見つけたノートをちら見すると、その内容に唖然とした。
そこには昼間、燐が志摩たちにとった行動がそのまま書かれていたのだから。
これは劇の台本だ。喜劇か悲劇かは最後まで見なければわからない。
志摩はみんなの前で台本を朗読し始めた。
それが、先ほどの内容である。
雪男は気分が悪くなったようだ。鳥肌まで出ている。当然だ。
実の兄が悪魔の手込めにされている台本など、気分がいいものではないだろう。
勝呂は志摩の手から台本を奪って、内容を確認した。そして驚愕する。
「志摩、お前この台本・・・理事長が奥村を理事長室に招くとこまでしか書かれとらんで。
あとは『暗転☆』だけや。さっきのはまさか・・・」
「ええ、俺の鋭意捏造創作ベッドシーンです。よくできてますやろ」
「志摩さん、最低や!よく何食わぬ顔で同期の悲劇を朗読できたもんやな!」
「流石の僕も騙されましたよ・・・」
志摩は得意気だが、周囲はどん引きである。
エロに対しては妥協を許さない男だ。だが志摩はメフィストの台本の意味を忠実に再現したに過ぎない。
「暗転、なんかで終わらせるってことはもっとすごいこと考えとるってことやろ。
暗転、の二文字にはそれこそ無限の可能性が秘められとるわ。理事長の毒牙は俺にも想像つかんで。
こうしている間にも奥村君は理事長の腕の中で悲鳴を―――」
「だから問題はそれを阻止するためにどうするかでしょう!」
雪男は再度志摩を怒鳴った。
流石の志摩も、今回は口を閉じる。雪男の指が撃つべき相手を捜して何度もトリガーを引いていたからだ。
今はあまり刺激するべきではない。
もしも燐がそういった目にあっていたら、それを慰めるのも事態を収拾させるのも雪男だろう。
胃が痛くなるのも無理はないし、その犯人を八つ裂きにしたいと思うのも普通の感情だ。
にしても、以前後見人だった人物がその子供が成人した末に手を出すとか、AVみたいやんなぁ。
と志摩廉造の心は密かに荒ぶっていた。もちろん、表には出さなかったが。
「こうなったら理事長室に乗り込むか・・・ですね。おそらく奥村もそこにおるはずですし」
勝呂は雪男に言葉をかける。雪男もこくりと頷いた。
時計を確認すれば、時刻は夜の十一時を指している。
いつもなら燐は寝ているはずの時間だ。その時間になっても帰ってこないということは。
イヤな予感しかしない。
雪男は銃を構えた。勝呂も、弾を装填する。
子猫丸は錫杖を持ち、志摩はカメラを構えた。
「志摩さん」
「わかっとりますよ」
カメラをポケットに納めて、志摩も錫杖を持つ。
同期が悪魔にハメられようとしている事実を黙認するなど、断じてできない。
兄は、いい仲間を持ったな、と雪男は涙ぐみそうになった。
しかし、台本を書き移して覚えていたとしても、意味を理解していないならそれは無意味だ。
おそらく、燐はメフィストの暗転☆の意味を理解してはいなかっただろう。
たぶん、ふりがなもなかったので「あんてん」とは読まずに「ほし」とだけ読んでいた可能性もある。
そうでなければのこのこ理事長室に行くわけがない。
雪男は無事に連れて帰ってこれたら、もう一度漢字を教え込もうと心に決めた。
燐にとっては地獄の勉強合宿はもうひとつの悪夢だろうが。
「でも待ってください。俺らだけで理事長に太刀打ちできるんですかね?」
志摩はもっともな質問をした。メフィストが本気を出せば、おそらく理事長室に入ることすらできないだろう。
メフィスト=フェレスは空間を支配する悪魔だ。自分のテリトリーに敵を招くとは考えにくい。
ではどうするか。雪男はしばし思案した。
そして、苦渋の決断。といった風に眉間に皺を寄せて答えた。
「僕に、考えがあります」
雪男は空中をちらりと眺めた。
***
メフィストは上機嫌で寝室の寝具を整えていた。
いつもならスリーカウントでどうとでも帰れるのだが、今日に限っては手ずから整えたい気分だったのだ。
以前から狙っていた末の弟を今夜、思うままに貪れる。
そう考えると胸が高鳴ってしょうがない。
弟はきっとあらん限りの罵声と抵抗をメフィストにするだろう。
自分はそれをねじ伏せて、思い知らせてやるのだ。
奥村燐が、誰のものであるかを。
メフィストは一通り寝室を整えると、じっと目を凝らした。
寝室には、よく見ないとわからないが、魔法陣が敷かれていた。しかも部屋全体に。
これは燐を捕らえるための魔法陣だ。志摩の妄想が現実のものとなっている。
メフィストは時計を見て、そろそろかと顔をにやけさせた。
丁度タイミング良く、理事長室のドアがノックされる。来たか。獲物が。
メフィストは舌なめずりをしながら、ドアに向かった。途中、くしゃみを一つしてしまう。
「誰かが、噂でもしてますかね」
もしかしたら、兄の危機に気づいた雪男がなにがしかの行動を起こしているのかもしれない。
だが、今夜は人間がいくら頑張ろうと無理だ。
今宵の為に理事長室と寝室への空間はねじ曲げているし、鍵を使ってもたどり着けないようになっている。
燐が一度メフィストの寝室に入ってしまえば、空間を支配しているメフィストが許さない限り出ることはできない。
その間に、メフィストの手によって何度果て、幾たびも犯されるのだ。
生け贄の羊のように。
メフィストはその想像を巡らせて、扉を開けた。
獲物が内側に入ってきた。メフィストは目を開いた。
「若君ッ!!!こちらにいらっしゃるのですか!?」
ドアを蹴り破って、白鳥ことアスタロトが入ってきた。
メフィストはとっさに結界を張ろうとするが、鼻がむずむずしてそれどころではない。
アスタロトは魍魎をメフィストの部屋中にぶちまけた。メフィストはマスクを取り出して、装着する。
目がかゆいのでゴーグルも忘れない。
そうしてようやくアスタロトと向かい合うことができた。
「おのれ汚らしい!この私のテリトリーを不浄で汚すとは!」
「それはこちらの台詞だメフィスト=フェレス!
若君をどこに隠した!場合によってはお前とて許せぬ!」
理事長室に繋がる廊下から、雪男はひょっこりと顔を出して中の様子を伺っていた。
もちろん、アスタロトがいるのでマスクはきちんとつけている。後ろに控えていた勝呂たちも同じ様相だ。
雪男は、部屋の中に漂っていた魍魎に燐がメフィストに手込めにされそうなことを話した。
魍魎はアスタロトの眷属だ。アスタロトは魍魎を介して、視界や言葉を盗み見ることができる。
アスタロトが乗るかどうかは賭けだったが、上手くいったようだ。
「しかし、八候王同士の同士討ち狙うとか先生も博打打ちますねぇ」
「ええ、どう収束するかは正直僕にもわかりません」
部屋の中では、すさまじい魔力のぶつかり合いが起きていた。
たぶん、メフィストが空間を切り離していなかったら、部屋ごと。いや建物ごと吹き飛んでいただろう。
アスタロトは白鳥という人間に取り憑いているので、戦いにおいてはやや不利だ。
メフィストのように何百年もかけて馴染んだ体を持っているわけではない。
ようは、時間を稼げればそれでよかった。
雪男は叫んだ。
「兄さん!いるなら返事してくれ!」
部屋の中に向かって叫ぶが、返事はない。もしかしたら、気絶でもさせられているのだろうか。
それならばこの部屋の中に踏み込まなければならない。
「アカン先生!今行ったら人間は死んでまう!」
「しかし、このまま見ているわけにもいかないでしょう!」
部屋の外にいても、漏れ出す瘴気と魔力で息が詰まりそうだ。
人間がこの中に入るなど自殺行為だ。勝呂は必死に雪男を止めた。
雪男になにかあれば、一番悲しむのは燐だ。でも、このまま見ているわけにもいかない。
雪男が覚悟を決めていたところで、この場面にふさわしくない、電子音が響いた。
「なんや?誰の携帯の着信やろ・・・」
「あ、僕です。ちょっと失礼」
雪男は携帯に出た。魔力の渦のせいで電波がやや飛んでいるが、確かに言葉が聞こえた。
「雪男、たすけて」
それは、燐の声だった。