青祓のネタ庫
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終電の電車に乗り遅れたら、どうなるんだろう。
雪男が目を覚ますと、隣には心配そうな顔で雪男を見つめる燐がいた。
顔が真っ青だ。そうだ、兄は先ほどまで。ぞっとする思いが頭を駆け抜けて。思わず手を伸ばす。
目の前にあった手は、雪男が掴んでも逃げはしなかった。
触れればそっと温かく、雪男の手に生きていることを教えてくれる。燐はその手を強く握り返した。
「雪男!心配したんだぞ!」
「・・・それはこっちの台詞だよ」
先ほどまで死んでいたくせに。雪男が起きあがると、屋上の状態は散々なものだった。
フェンスは破壊されているし、貯水タンクはボコボコ。屋上の床はそこかしこが抉れている。
これ、雨の日とか雨漏りするんじゃないだろうか。そんなことを考えるくらい、雪男は落ち着いていた。
敵の姿が見えないことから、戦いはもう終わったのだとわかったからだ。
「藤堂はどうなったの」
兄がここにいるということは、雪男が気絶している間に兄が連れて行かれるという
最悪の事態は避けられたわけだ。
藤堂は、兄に何かしなかっただろうか。見つめる雪男の瞳から、燐は目をそらしながら答えた。
「あー、俺が燃やした。流石に死ななかったから
何回か戦うことにはなったけど、最後には消えたから。たぶん逃げたんじゃないか」
「なにか、言われたりしなかった?」
「なにを?」
雪男の脳裏に、あの京都での夜が思い浮かんだ。
それは君の瞳ではないな。
瞳に宿った青い光。
染まる視界。怯える自分。あのことを知られたのではないかと。それを雪男は恐れていた。
燐は首を傾げている。これなら、下手な情報は与えられていないと考えていいだろう。
「なら、いいんだ」
雪男の様子に、燐が俯いたままつぶやいた。
「お前何か俺に隠してねーか?」
雪男は燐の問いに定型文で返す。
「なんでもないよ」
そうやって、俺には教えてくれないんだな。
燐は言わなかった。藤堂との戦いの時藤堂は燐を何度も言葉で責めた。
その事実を倒れていた雪男は知らない。
君がいなければ、弟君はしあわせだっただろうね。
弟君が何かを隠しているのに、それを知らされない。
君はいつも何かを秘密にされている。
信用されていないんだよ。邪魔だって思われてる。
それでも君は弟君の側にいるつもりなのかい。
君はいらないって思われているくせに。
藤堂の言葉は何度も何度も燐が考えたことだった。
俺がいなければ、たぶん神父さんは死ななかった。
雪男も祓魔師にはなってなかっただろう。
俺はいつだって、いろんな人に迷惑かけて生きているなって思う。
今だってそんな思いがないわけじゃない。
でも、死んでなんかやらない。
そう燐は思っている。
俺が死んだら、俺が離れたら。
雪男は一人になってしまうじゃないか。
たくさん迷惑かけるし、心配もかけた。
今回なんか死にかけた。
でも、言葉通り俺は死ななかった。
一人になんかさせないために。
心配だから、俺はお前を残して死んだりできない。
これはきっと俺のエゴなんだろう。
「あいつのことが心配だから、俺はあいつの側にいる」
「いらないって思われているのにかい、ひどいね」
誰にも言葉にしたことはないが、燐には感じていることがあった。
今は雪男の側にいるだろう。
でも、雪男と燐は近い将来必ずどこかで別れる時が来る。
それは燐の勘だったが、まず間違いなく訪れる未来だろうと確信を持っていた。
どのタイミングなのかはわからない。
それをもたらすのは騎士團かもしれないし、魔神かもしれないし、
あるいは藤堂がもたらすのかもしれない。
だから、その時までこのままでいたい。
来るべき別れの時が来るまでは。
燐は言葉を飲み込んで、藤堂に向かって言った。
「兄貴が弟の心配して何が悪いんだよ」
俺は傲慢だ。
でも、兄貴ってそんなもんだろ。
燐の答えに、藤堂は心底軽蔑したような表情を向けた。
「本当に。力持つものは、いつだって傲慢だ」
或いは、憧れからか。藤堂はそう言い残して去っていった。
終わったのか。燐の体から力が抜ける。燐自身も本調子ではない。体が震えるし、節々が痛い。
それでも雪男の側に来て、その様子を確かめた。息をしていることに安心した。
自分が倒れていた時、雪男もこんな風に感じただろうか。
起きた時は心底ほっとした。
燐が黙っていることに雪男は首をかしげた。
「どうしたの?」
「なんでもねーよ」
定型文で言い返してやった。
雪男は少し考えて、燐の肩に手をかける。
そのまま、羽織っていた着物をずるりと剥かれてしまった。驚いたのは燐の方だ。
「おい、いきなりなんだ!」
「・・・よかった。茨、消えてるね」
雪男の手が燐の上半身をなぞる。あれだけ燐を苛んでいた茨は跡形もなく消えていた。
開花した薔薇を摘み取れたのが、よかったのかもしれない。
雪男は薔薇が咲いた場所に手を置いた。
途端に、雪男の表情が変わる。燐のことを自分の元に引き寄せて、抱きしめた。
いきなりのことに燐は動揺を隠せない。
「おい、雪男どうした」
雪男はなにかを確かめているようだった。
燐が生きていることを確かめたかったのか。
でも、それだけではない気がする。
抱きしめられたと思った次の瞬間には、立ち上がっていた。
「兄さん、きて」
表情が見えないまま、雪男は駆けだした。
燐はされるがままに雪男についていくことしか、できなかった。
***
夜の風が冷たい。
以前、燐が家々の屋根の上を駆けて向かった道だ。
雪男は屋根の上を飛びながら行くことはできない。雪男は人間だからだ。
燐は人が通る道を雪男と駆けている。
起きたばかりでふらつく燐の足を支えながら、途中何度か歩きながら、
それでも雪男は燐をどこかへ連れていこうとしていた。
夜の風が吹いて、燐がくしゃみをした。着物一枚で来ているから、寒かったのだ。
雪男は振り返ると、自分の着ていた祓魔師のコートを燐にかけて、手を引っ張って進み出した。
止まる気は、どうやらないらしい。
「なぁ。どこ行くんだよ」
「急がないと、間に合わなくなるんだ」
それだけ言って、後は無言。燐には雪男が何をしたいのかわからない。
変な夢を見ている気がした。
ただ、どこかへ行こうとしているのだけはわかる。
長い階段を降りていると、視線の先に明かりが見える。駅だ。雪男は駅に行こうとしているのか。
でも、駅から電車に乗って。どこに行こうというのだろう。
手を引かれるままに、燐は改札の前に来た。ちらりと駅員室を見ても、人はいない。
どこかへ点検にでも行っているのだろうか。
深夜の誰もいない改札。そこを兄弟はくぐろうとしている。
燐は、改札の前で踏みとどまった。
「雪男、お前どうしたんだよ」
「いいから」
雪男は踏みとどまる燐を強引に引っ張って改札をくぐった。
おい、これ駅員さんにバレたら怒られるんじゃないか。
そう言うとお金持ってるから大丈夫だよと言い返される。
燐はお金を持っていないので、雪男の言われるがままだった。
誰もいない駅で、二人はぽつんと立っている。
寒いからか、吐く息は白い。雪男は燐の手を掴んでいる。
燐は、意を決して雪男の手を振り払った。
雪男と燐は深夜の駅で向き合っている。ぼんやりとした街灯と月の明かりだけが二人を照らす。
表情は、とてもわかりにくかった。
「雪男お前なにか変だぞ」
「何が変なのさ」
「こんな深夜にどこに行くってんだよ」
「ここじゃないどこかだよ」
雪男が燐に近づいた。雪男の影が燐に覆い被さる。
ぞくりとした寒気が沸いてきた。雪男に、弟に対してこんなことを思うのは初めてだ。
怖い。
目の前にいるのに、どこか遠くを見ている。
燐は思わず雪男の頬に手を伸ばした。その頬は濡れていた。燐は驚く。
濃い影が顔にかかっていたからわからなかったのか。燐の手は雪男を慰めるように動く。
「お前、なんで泣いてるんだよ」
雪男は答えずに、燐を抱きしめた。
燐の肩にかかる自分のコートごと、腕の中に閉じこめる。あたたかい。
でも。
兄さんの、心臓の音が聞こえない。
雪男は気づいてしまった。
燐の肌に手を置いた瞬間、いつも聞こえていた鼓動が聞こえなくなっていたことに。
藤堂が言っていた通り、茨は燐の心臓を喰い破って花を咲かせていた。
今燐は悪魔の心臓から送られる力で生きているのだろう。
今まで十五年聞いてきた鼓動が聞こえない。
人間である兄さんの心臓は鼓動を止めた。
藤堂の声が聞こえてくる。
『君は、この選択に後悔しないかい』
後悔。そうだ、悔やんでも悔やみきれない。
僕にもっと力があればよかった。
僕がもっと早く気づけばよかった。
そんな思いが溢れて止まない。
雪男の足は自然と動き出して、ここに来ていた。
「ここじゃない、どこかへいきたい」
思わず呟いた言葉は、慟哭のようにも聞こえた。
子供のような衝動だ。いつもなら押さえ込んでいるその思いを今回は抑えることができなかった。
僕の好きだった鼓動は、もう聞くことができないのだと思うと、止められなかった。
燐は雪男の背中に腕をまわした。
お互いの体温は感じるのに、脈打つ鼓動はひとつだけ。
「いけねーよ、どこにも」
燐は雪男の思いを否定する。
雪男は燐の瞳を見つめた。燐は瞳を逸らさない。
逃げないという意志が宿っている。
「俺は聖騎士になる。そんで、ジジイが正しかったことを証明してみせる。だから」
燐は肩にかかっていた祓魔師のコートを雪男にかけた。
「そのコートに腕を通せるように頑張るから。それまで、俺のこと見ててくれ」
逃げるな。と燐は言っている。
人間としての鼓動を止めた燐を、悪魔として目覚めていく燐を。雪男は見続けなければいけない。
それまで。と期限を決めて雪男への逃げ道も用意しているあたり、ずるいなと雪男は思った。
二人を照らす強い明かりが、線路の向こうから来ている。
程なくして駅に到着した電車は、扉を開けて二人が乗るのを待っている。
雪男は一度だけ電車を見て、そして燐に向き直った。
「見ているよ、ずっとずっと」
期限なんて、いらないよ。
祓魔師になれなければ、兄は死ぬしかない。
これから先なにがあっても、雪男は燐の行く先を見なければならない。
例え、どんな未来が待っていたとしても。
それが雪男の選んだ道だった。
「こちら、終電です。乗られますか?」
電車に乗っている車掌が声をかけた。
雪男は答える。
「いいえ、乗りません」
電車は定刻通り、空っぽのまま走っていった。
がたん、がたん。と揺れる電車の灯火が線路の向こうへ去っていく。
駅の灯りも徐々に消えていった。
残された二人は、暗闇の中で手をつないだ。
そこで雪男は問いかけた。
「終電の電車に乗り遅れたら、どうなるんだろう」
どこかへ行くための手段がなくなったらどうする。
燐は少しだけ考えて、こう答えた。
「線路歩いていけばいいじゃん」
例え、その線路の先が別れていても。
雪男は燐の手を握り返す。この手が離れる時がいつか必ず来るだろう。
夢も見れない子供に、未来なんてあるものか。
藤堂はそう言っていた。だが、雪男も燐ももう現実を知っている。
荊に囲まれた日々は偽物で、修道院で得た幸せは過去の話。
ネバーランドは、どこにもない。
燐は雪男の手を引いた。改札をくぐれば、現実が待っている。
それでも。
「お前と一緒なら大丈夫だろ」
今の、この手のひらのぬくもりが全てだ。
藤堂の声が聞こえたかと思うと、雪男は屋上のフェンスに叩きつけられていた。
一瞬息が詰まって、吐き出される。せき込んでしまう。
雪男が呼吸を落ち着けると、目の前には赤い炎があった。
赤い炎は雪男をぐるりと取り囲んでおり、逃げ場はない。
背後にある錆付いたフェンスが、雪男の緊張した心のようにぎしりと鈍い音を響かせた。
藤堂と雪男の間には距離がある。
つまり、藤堂の足下で倒れ込んでいる燐との間にも距離が空いたということだ。
この炎を消すのは至難の業だろう。雪男が唇を噛む。
その悔しそうな表情を見て、藤堂は笑った。
その言葉は繰り返し雪男の脳裏に刻まれる。
「いいね、その顔。悪魔みたいだ」
「黙れ!」
茶化したもの言いに腹が立つ。だが、今は自分のことより兄を優先させなければ。
雪男が銃を藤堂に向けて発砲しようとした。雪男の手が一瞬止まる。
「いいのかい?お兄さんに当たっちゃうよ?」
「卑怯なッ」
銃口の先には、意識のない燐を盾に使う藤堂がいた。
燐をわざと自分の前に立たせることで雪男からの攻撃を防ぐ。
雪男は守ろうとしている兄を自分の手で撃つことになる。
それは藤堂には最高のショーの様に思えた。
藤堂は雪男に見せつけるように燐の口の中に指を入れる。
雪男がぎょっとしていると、
ゆっくりとかき回した後にその指を出した。
唾液が唇と指とをつないで、糸のように光っていた。
藤堂の指先には、青い花びらが一枚だけついている。
その一枚の花びらを大事そうに見ながら、藤堂は落胆の声を上げた。
「残念、茨の結晶はほぼ吸収されちゃったか」
「お前は・・・何が目的なんだ!!」
意識のない燐を嬲られた。この男が許せない。
なぜ自分たちを放っておいてくれないのか。雪男は下唇を噛む。
魔神の血の運命を呪ったことは何度もあった。自分に降り懸かることなら耐えられる。
そのために神父から様々なことを教わったし、祓魔師になる訓練だって受けた。
でも、どうして運命は兄にばかり牙を向けるのだろう。
茨に蝕まれて苦しそうな表情を思い出す。
今は眠っているようだが、先ほどまで死んでいたのと変わらない状態だったのだ。
動かしていい状態なのかもわからない。
そんな兄を、この男は利用している。まさに悪魔の所行だ。
許せない。なぜこんなことをするのか。
雪男の憤りとは裏腹に藤堂は世間話をするように会話を続けた。
「君のお兄さんの炎ってさ、珍しいよね」
藤堂はぽつりと呟いた。それは誰もが知っていることだ。
燐の持つ魔神の炎は物質界には存在しない。虚無界の神が持つ命の炎だ。
だから燐は騎士團から監視の対象になっているし、危険因子として扱われている。
炎さえ継いでいなければ、燐はまだ普通の生活ができたかもしれないのに。
「世界中で君のお兄さんだけしか持っていない力だ。
だからこそ人は彼を恐れるし、彼を求める。
力なき者は、ある者に憧れる。そう、この世の心理だ」
君は、お兄さんに憧れていながら、お兄さんのことを憎んでいる。
自分には持っていない力だ。
双子である分、その気持ちは他者よりもずっとずっと強いだろう。
なぜ兄は持っていて、自分は持っていないのか。
それはずっと雪男の心に蟠っていた暗い闇。
藤堂は悩む雪男に告げる。
「この世界はなによりも不公平だ」
痛いところをつかれた。うらやましい、妬ましい。
兄のようになりたかった。誰からも好かれている優しい兄。
自分にはない答えを導き出す兄。
それを選び、勝ち取る力がある兄。
なんで、僕にはないものを兄さんは全部持っているんだろう。
家族なのに。兄弟なのに。双子なのに。
自分の汚い心を自覚するたびに、嫌悪感が止まない。
こんな醜い心、兄さんは持ってなんかいないはずだ。
だからこそ余計に自分が嫌になる。
藤堂は雪男に揺さぶりをかける。
「そんな世界を変えたいと思ってなにが悪い」
藤堂は、優秀な祓魔師だったと聞いている。
だが名家の出身ということで優遇されていた面もあるし、
騎士團からの汚い依頼もこなしていたようだ。
そして、家族の仲は決して良くなかった。
青い夜で家督を継ぐはずだった兄と父が死んだ。
彼はなにをしてもいい立場になった。今まで受けてきた理不尽な扱いを。
家督を継がない弟だからこそ味わってきた屈辱。
それを払拭しようとした。でも、うまくいかなかった。
彼は名門の出身だが、決してエリートと呼ばれるほど優秀だったわけではない。
比べられる。比べられる。死んだものにさえ自分は比べられて生きている。
なんという理不尽だろうか。
彼の心は悪に染まった。だからこそ、悪魔になる道を選んだのかもしれない。
どうしようもない世界。なにをやっても変わらない世界。
だから自分を見てくれない世界に、牙を向いた。
藤堂は燐の顔を持ち上げた。燐の意識はなく、顔色は悪い。
その様子に雪男の心は締め付けられた。
藤堂は、燐の心臓を指さした。
「だから、君には一緒に来る資格があるよ奥村雪男君」
「え・・・?」
藤堂の言葉は雪男にとって思いがけないものだった。
この男がなにを言っているのか理解できない。
「僕らの目的は奥村燐君の存在そのもの。魔神の炎を中枢に掲げ、悪魔喰いで組織を構築する。
悪魔の為でもない。人間の為でもない。悪魔に堕ちた元人間の為の組織。
つまりは半端者の集まりさ。君たちの居場所としては向いていると思うよ」
藤堂はにやりと笑った。
「啓明結社イルミナティへ、君たちを招待しよう」
藤堂の腕の中には燐がいる。藤堂は最初から燐の動きを封じて、拉致しようと考えていたのだ。
そして、双子である雪男の負の感情を刺激し悪魔になれと誘いをかけている。
魔神の落胤の双子がいれば、組織としてのこれ以上ない強化を図れる。
藤堂の言葉を聞いて、雪男は理解した。
僕たちには、利用される道しかない。
騎士團か。イルミナティか。それとも虚無界の魔神のためか。
神父が死んで以降、汚い大人の身勝手な都合に巻き込まれてきた。
兄弟は生まれてきただけだ。まだなにもしていない。
誰に利用するのか、されるのか。
強制される謂われはない。
僕たちは取り残されて、二人しかいない兄弟だ。
雪男は前を向いた。
僕は、選んだ道を進んできた。
藤堂が今やっている行為は、兄を人質に取った脅しと同様だ。
雪男は銃を構えた。冷たい銃口が藤堂と、燐に向けられる。雪男の目はひどく冷めていた。
「夢ばかり見る大人は嫌いだ」
都合のいいことばかり言って、結局利用しようとするだけ。
藤堂は笑った。
「夢も見れない子供に、未来なんてあるものか」
自分が酷く冷めたものの見方をしていることを雪男は知っている。
「そうさ、だから僕は今を生きている」
なんの力もない人間だから、未来に希望を望むのではなく現実を精一杯踏みしめて生きている。
僕には、未来を変えてしまうような兄みたいな力なんて持っていないから。
「お前達は『悪魔喰い』だろう!兄さんを喰って力を得ようとする魂胆がないとは言わせないぞ!」
許容できるかは別として。今回の事件は不浄王の時と似ている。
目当ての悪魔の力を出させて、その力を横取りする。強盗のような手段だ。
現に、藤堂は茨の花びら一枚でも手放す気はなさそうだった。そして、燐の体自身も。
「バレちゃってるか。流石だね」
「あいにく、お前の言葉は一言だって信用できない」
「お兄さんを連れていって、もっと炎の結晶を出してもらうつもりだったんだけど。
ハハハ以外と負担になるんだね。死にかけちゃうなんてさ」
雪男は迷わず、引き金を引いた。
ぱあん。乾いた音が屋上に響く。藤堂の腕の中には燐がいた。
少しでもずれていれば、当たっている。
藤堂の体がぐらりと揺れた。
藤堂の右側の頭部がなくなっていた。頭を失いながらふらふらと立っている。
でも、死ぬことはない。彼はカルラの炎を取り込んで生きているからだ。
「ひどいなぁ痛いじゃないか」
目の前が見えないくらい赤い炎で包まれた。
炎は雪男の周りを取り囲み、熱と勢いで追いつめる。息が苦しい。
中心にある酸素を燃やして、炎は燃えているのか。窒息死の上に、焼死か。笑えない。
雪男は口元を抑えた。
このままでは、兄は連れていかれてしまう。
雪男は周囲に残されたわずかな酸素を肺に取り込む。
「・・・起きろ」
わずかな声。
だめだ。炎が燃える音が強い。
雪男は、もう一度叫んだ。
「僕が起きろって言ってるんだ!!起きろ馬鹿野郎―――ッ!!!」
赤い炎が晴れる。息を吐いた。呼吸が楽になる。
自分を包む、温かくやさしい青い光。
視線の先に宿る、青い炎の輝きを見た。やっとか。遅いよ馬鹿。
燐は自分の足で立って、雪男の方を振り向いた。
「悪い、寝坊した」
燐は青い炎を藤堂に向けて放つ。
雪男の意識は、そこで闇に堕ちた。
「取り戻したいのでしょう?」
メフィストはにやりと笑った。
燐は答えられなかった。
***
あの祭りから一週間が過ぎていた。
うさ麻呂と出会い、別れたあの日の出来事はなかったことにされている。
勝呂達と野球をしたりもしたが、ついにみんなは思い出すことはなかった。
覚えているのは、燐だけだ。
燐は寒い雪道を歩いていた。スーパーで買った袋の中には、卵が入っている。
オムライスをとろとろだ。とうれしそうに食べていた顔が忘れられない。
燐は後ろを振り返った。雪道に刻みつけられているのは一つの足跡だけ。
自分の後ろを小さな歩幅でついてきたうさ麻呂はいない。
「俺だけは・・・ずっと忘れない」
燐はうさ麻呂の思い出を覚えている。なかったことにされたとしても、燐にとっては真実だ。
燐はスーパーの袋を抱えなおした。寮では弟が待っている。
任務から帰ってすぐ報告書を書いているのでご飯をとっていないはずだ。
燐がやめさせないと雪男はいつまでも働き続けている。完全にワーカーホリックだ。
学校に行って放課後は塾の講師。
終わったら祓魔師としての任務に、帰ってきたら報告書の作成と学校の課題を処理。
深夜に寝るのがざらで、起きるのは燐より早い。十五歳の高校生のスケジュールではないと思う。
今は寒い。無理をして風邪を引いたらどうするのだろうか。燐は足を早めた。
早く帰って、食事を作ってやろう。うさ麻呂が喜んでくれたオムライスを作ってやろう。
雪男はおいしいと言ってくれるだろうか。
「あー、でも同じ食事ばっかって文句言われるかも」
オムライスの回数が続いていることから、雪男から疑問が投げられたことがあった。
兄さん、オムライス好きだったけ。雪男の問いかけに燐はごまかすような言葉しか出てこなかった。
これが好きだったのは。燐はその続きが言えない。燐は寮への帰り道から外れた、路地裏に入った。
正十字学園はたくさんの道と路地に溢れている。その先には古びた扉も。
燐は首から下げていた鍵ひもを取り出した。そこには神隠しの鍵と、塾に続く鍵。
そしてもう一つ。ピンク色の鍵を鍵穴に差して、
扉を開ければ目の前にはおもちゃとゲームに溢れた寝室につながった。
ここは燐の部屋ではない。部屋の中から声がかかった。
「寒いでしょう、お入りなさい」
メフィストの声だった。燐はその声に導かれるままに入る。
冷気が入らないように扉は後ろ手で閉めた。
スーパーの袋は扉の近くにあった小机に置く。
相変わらずピンク色の部屋だ。メフィストは寝室にはいないらしく、奥の執務室にいるようだ。
そのまま寝室は素通りして、執務室へと入る。
そこにはいつもの通りに仕事をこなしているメフィストがいた。
「寝室から入るとは、貴方もずいぶんと大胆になりましたね」
「いや・・・お前がそこに繋げたんだろ」
メフィストからもらった鍵をそのまま使っているだけだ。燐には別に何の意味もない。
メフィストが自分の寝室に繋がる鍵を持たせている意味には気づかない。
「まぁいいでしょう。ご用はなんですか」
「あいつ、うさ麻呂のこと。取り戻すことはできないのか?」
うさ麻呂は時空そのものを食べることで街を救ったが、あの日々はなかったことになった。
うさ麻呂はかつてあの祠にいたが、今もあそこにいるのかは燐にはわからなかった。
「よくお気づきで。あの悪魔は次元そのものを喰いました。
ですから今の改変された世界は以前と全く同じというわけではないのですよ」
「じゃあ・・・」
「あの悪魔が消えていたとしてもおかしくはないですね」
それだけのことをあの悪魔はやってのけたのだ。
街を、人を、燐を救う為に。燐の瞳は悲しみに包まれていた。
メフィストはそれを狙っていたかのように声をかけた。
「取り戻したいですか?」
「できるのか!?」
燐はメフィストに食いついた。そんな方法があるならばなぜもっと早く言わない。
「あれは、私の眷属ですからね。王たる私にかかれば創れないこともない。
ただ、その為には貴方の協力が必要です」
「俺の?」
なぜ自分なのだろうか。燐は疑問に思った。
「ええ私はあの悪魔の過ごした記憶までは持っていません。
それを持っているのはもう貴方だけ。つまり私と貴方の力を持ってすれば
もう一度あの子供に会うことができますよ」
「また会えるんだなッ」
燐の目に希望が戻ってきた。もしも叶うならもう一度会いたかった。
その為の方法があるなら試してみたい。うさ麻呂をもう一人ぼっちにしたくはなかった。
メフィストは燐に真剣な瞳で命令した。
「覚悟が決まったなら結構。では早速ですが寝室に行ってください」
なんで。と燐は聞き返した。ここは外に出るなり、祠に行くなりするところではないだろうか。
なぜ寝室に行くのだ。燐は聞き返した。メフィストは嬉しそうに語る。
「することと言えばひとつでしょう」
「だからなにを」
「ナニを」
「え?」
「つまり、貴方と私の力であの悪魔を創るってことです。
私は時の力を貴方の中に注ぎ、貴方はあの悪魔の思い出と心を与えて形を創ればいい」
「それ、どうやるんだよ。俺やり方知らねぇよ」
「簡単です、寝室ですることと言えば一つ」
「寝ること?」
「そう、私とね」
「・・・え?」
燐にはすごく嫌な予感がしていた。
寝る。という意味には二つの意味がある。
文字通りただ体を休ませるためのものと、夜の交わりの意味だ。
このメフィストがただ体を休ませるための言葉を放つ訳がない。
「単刀直入に言いましょう。燐君私とセックスしてあの悪魔を創りましょう。
母胎は貴方なのできっと丈夫な子が産まれますよ」
「お、俺は男だ!!産めるわけねぇだろ!!」
「大丈夫ですよ、全ての悪魔の根源は魔神です。その魔神の落胤である貴方なら可能です」
「うーそーだーッ!!!」
燐は頭を抱えた。まさか今まで生きてきた人生が全部ひっくり返されるような言葉を
言われるなんて思ってもみなかった。
じじい、天国のじじい。俺、男だけど子供が産めるみたいです。
どうすればいいでしょうか。
もしもこの事実を生前藤本が知っていたなら燐の夜の外出は軟禁してでも阻止していそうだ。
燐はちらりとメフィストを見た。相変わらず食えない笑みを浮かべている。
つまり、だ。今通ってきた寝室のベッドの上で。抱かれろ。ということだ。
燐は鳥肌が立った。無理だ。
男に抱かれるなんて、燐の知識の中にない。
未知数すぎて完全に無理だ。燐の嗜好はノーマルである。
女の子が好きだし、男に対してそんなこと思ったことは一度もない。
「おや?貴方あの悪魔にもう一度会いたいのでしょう?」
「そ、それは・・・」
「大丈夫です、一回でできるとは私も思ってませんから。
何回だって試しましょう。その為に寝室への鍵も渡しているのですから」
燐は持っていたピンクの鍵を見てぞっとした。
こいつ、最初から。燐は逃げようとしたが、扉に辿りつく前に体に激痛が走った。
振り返ると、メフィストが燐の尻尾を握っていた。
「いけない子ですね。尻尾はしまいなさいと言ったでしょうはしたない」
「はな・・・せッ!」
「いい機会ですから体に教え込んであげましょう。
敏感な尻尾を二度と人前に出したくならないようにね」
メフィストはそのまま燐を自分の寝室に連れ込んだ。
天蓋付きのベッドの上に乱暴に燐の体を投げる。
燐はベッドの上部に急いで逃げ出す。
体に青い炎を纏わせて、メフィストに向かって近寄るな、と威嚇する。
メフィストはそんな燐の抵抗など可愛らしいとしか思っていない。
むしろ、もっとやれと言ってやりたいくらいだ。
メフィストは悪魔である。相手が嫌がれば嫌がるほど本能的に燃え上がる。
燐の腕を押さえ込んで、足の間に入りこんだ。
そして、燐の耳元で囁く。
「取り戻したいのでしょう?」
メフィストはにやりと笑った。
燐は答えられなかった。
うさ麻呂にもう一度会いたいのは本当だ。
でも、まさか兄としてではなく親としてあいつに向き合うことを強いられるなんて。
燐の体から力が抜ける。メフィストは悪い顔をする。
堕ちた。手が燐の体を拓こうとしたところで。
「おい、日本では未成年に手を出すのは合法なのか?」
こん、という堅い音が部屋に響いた。
寝室の扉の前には、リュウが立っている。
手に書類を持っていることから報告書の提出に来たのだろう。
執務室に入ったと思ったら、寝室から言い争う声が聞こえてくるわ、
未成年が悪い悪魔に喰われようとしているわ。
リュウにしたら不可思議この上ない状態だ。
「悪魔同士ですし。お気にせず」
「それもそうだな」
リュウはくるりと振り返る。
燐はとっさに叫んだ。
「おい!この状態を無視か!」
「冗談だ」
「通じねぇよ!」
「奥村君、逃げるならあの悪魔には会えないと思いなさい」
メフィストに痛いところを突かれ、燐は押し黙る。
リュウは首を傾げた。
「何を言っている。玉兎は消えたわけではないぞ」
メフィストと燐の言い争いを聞いていたせいか、リュウはある程度事情を知っているらしい。
燐は呆然とし、メフィストは舌打ちした。
「余計なことを」
メフィストのつぶやいたその言葉が全てを物語っていた。
うさ麻呂は別に消滅したわけではない。
時を司る悪魔は退治しても、時がたつと共にまた再生することが多い。
うさ麻呂は千年もの昔から存在していたが、
かつてのリュウの祖先が退治せず封印という手段を取ったのもそのためだ。
うさ麻呂は膨大な力を使って時空を食った。
現在あの祠にうさ麻呂はいるかもしれないし、いないかもしれない。
でも、何年先かはわからないが、いつか必ず。
燐はメフィストの胸ぐらを掴みあげた。
「おい!メフィストてめぇ嘘つきやがったな!!」
「合法的に貴方を手に入れられると思ったんですけど」
「違法だろ!」
「なるほど、未成年に手を出すのは違法なのだな」
リュウが淡々と口にする。燐は怒鳴った。
「当たり前だろ!」
「了解した。悪魔同士のまぐわいを見なくて済むことになって安心だ」
「待て、見る気だったのか。それにまぐわいって・・・おい」
「冗談だ」
「通じねぇよ!」
「訂正する、性交だ」
「もっとリアルだろ!」
燐はメフィストにビンタをかますと、寝室から出ていった。
メフィストもリュウが来たことで気分が削がれたようだ。
リュウはメフィストに報告書を投げると、燐に続いて部屋を出ていった。
メフィストは去っていくリュウの方を見て、言葉を放つ。
「わざとらしい報告の仕方、ありがとうございます」
機会はまだある。
燐を手に入れるのはまた次のタイミングを見計らうとしよう。
メフィストはにやりと笑った。
***
「おい奥村燐」
「なんだよ」
メフィストに騙されたことに怒り心頭な燐にリュウが話しかける。
目の前に赤色の鍵が投げられ、燐は慌ててその鍵を掴んだ。
なんだこれ。燐の訝しげな視線にリュウが答える。
「玉兎のことが語りたければ、いつでも来い」
あの支部長に騙されるよりはましだろう。とだけ言い残してリュウは去っていった。
燐は渡された鍵を見る。うさ麻呂のことを誰も覚えていなかった。
それがやはり少しだけ寂しかったのかもしれない。
「そっか、そうだよな・・・」
俺だけはずっと忘れない。
でも俺にできることはそれだけじゃないはずだ。
あいつがいたことを人に語ることだってできる。
あの絵本が千年先の今に残っていたように。
「わかった!あんたがうさ麻呂のこと忘れねーように、何度だって行くからな!」
背後から聞こえてきた元気な言葉にリュウは笑う。
その後、燐が鍵を使って乗り込んだ先はリュウの寝室に繋がっていたという。
*劇場版と劇場版小説ネタあります*
「出動要請が出ていますよ☆」
いきなり現れたメフィストが、燐に軽い口調で告げた。
ここは旧男子寮。六○二号室だ。雪男は仕事をしているし、燐は課題をやっていた。
冬休みを満喫、とまではいかないが久しぶりに家にいた途端にこれか。雪男はため息をついた。
祓魔師になって数年。休日出勤当たり前の勤務体制だ。
今更休みの間に上司が現れようと、動揺する雪男ではなかった。
雪男が準備をしようと椅子から立ち上がると、メフィストが違う違うと手を振った。
「お呼びがかかっているのは、先生の方ではないんです。奥村君のほうなんですよ」
「え、兄は候補生ですよ」
「でも、直々の指名なんです。無下にするのも・・・ねぇ?」
メフィストはにやりと笑った。魔神の落胤である燐に直々に来る指名など碌でもないに決まっている。
雪男の眉間に皺がよった。対して、燐は嬉しそうだ。
任務にいけるんだ、とはしゃいでいる。座学が苦手な燐にとっては願ってもない任務だろう。
しかし、雪男はそう単純には考えられない。
そもそも、燐はまだ祓魔師ではない。候補生の身分である。
学生の身でありながら危険な任務に着く等、普通ならありえない。
騎士團の、使えるものは使ってやろうという魂胆が見えて、雪男は燐に振られる任務が好きではなかった。
使えない、と判断されたときに兄は一体どうなるのだろうか。
考えたくはないが、否定はできない考えだ。燐の処刑は保留になっただけで撤回されたわけではない。
「先生、騎士團にとって有益であると見せつけるのも方法の一つかと」
「・・・わかっています」
雪男の心を読んだかのようにメフィストが告げた。
でも、危険なことはさせたくないのが家族というものではないだろうか。
燐は倶梨伽羅を肩にかけて、準備は万端。という様子だ。
早くこの部屋、というよりも課題から抜け出したいだけなのだろう。
雪男はため息をついた。雪男の精神の安定を考えるなら、この部屋に閉じこもってくれた方がいいのだが。
聞き分けるような燐ではない。
「で、どこ行くんだ?」
燐の問いに、メフィストが懐から鍵を取り出した。
はい、と渡された鍵を受け取って不思議そうに見る。今まで見たこともない鍵だった。
新しいところへ行くのだろうか。珍しい。
「これで、台湾支部へ向かって下さい」
「は?」
「え・・・」
台湾、と言われて浮かんだのはあの南にある島だ。そう、日本ではない。
海外だ。貧乏修道院で育ったせいで、未だかつて海外に行ったことなどない。
当然パスポートだってないのに。いきなり行けとはどういうことだ。
「パスポートの申請なら無用です。騎士團は有事の際に備えて各国と協定を結んでいますから。
違法にはなりませんよ。単独行動は許されませんが、海外支部の人間が付けばある程度の行動は許されています」
「すっげー!俺海外初めて!」
「ちょっと待ってください!候補生にいきなり海外任務させるんですか!?」
「言葉の違いなら心配いりませんよ。台湾は日本語通じます」
「そうなの?俺行きたい!」
「兄さんは黙っててよ!」
雪男の心臓は心配で爆発しそうだった。なんだそれ。いきなり海外。
日本にいる時でさえ心配で仕様がないのに、海外なんか行ったらなにがあるか。
それに、海外の方が悪魔に対して風当たりが強い。ヨーロッパなどは魔女狩りがあったくらいだ。
悪魔への偏見や、排除は比べものにならない。
日本の場合はアニミズムに通じる神道があるせいか、生活空間の傍らに神や精霊、
悪魔がいる事にあまり抵抗がないのが他国とは違う珍しい特徴である。
雪男がぐるぐると悩んでいるのを後目に、燐はさっさと鍵を扉に差していた。
雪男がノブを回そうとする燐を慌てて止める。
「ちょっと待ってよ!」
「なんだよ、考えても無駄だろ。行ってから考えようぜ」
メフィストは燐の様子に笑いを隠せないようだ。ぶふッと噴出している。
雪男は観念して、メフィストに向き直る。
「僕も行きます、いいですよね?」
兄を海外で一人置き去りにしてしまうなんて、雪男が心配で参ってしまう。
メフィストは雪男の行動を予想していたのか、簡単に許可を出した。
「イイですよ、向こうには奥村君の監視役として上一級祓魔師の方を付けてもらう予定でしたけれど。
奥村先生、喧嘩しないでくださいね」
「は?」
「行けばわかりますよ。いってらっしゃい」
メフィストに促されて、二人は扉の向こうに押しやられた。
雪男は普段から緊急出動に備えているので、コートを羽織るだけで準備はできている。
くぐった扉の向こうには、日本とは違う異国の地が待っていた。
ビルの並びや、雑踏が日本とは違う。不思議な情緒あふれる光景だった。
所々日本語がある点から、やはり日本語も通じるのだろう。少しだけほっとする。
町の片隅で、編笠を被っている人物がいた。こちらを見ている。雪男はその人物に覚えがあった。
「リュウ=セイリュウ・・・さんですか?」
「覚えていたか」
リュウは笠を外して、簡単なあいさつをした。
あの祭りの時以来だ。相変わらず年齢不詳な外見をしている。
しかし、視線に以前の時のような冷酷さはなかった。なにか、憑き物が落ちたような顔をしている。
「奥村雪男、俺に鍛えられにでも来たのか?」
そういえば、そういう話しもあった。雪男は謹んでその話を辞退する。
今日は兄の監視に来たのであって、修行に来たわけではない。
リュウはそうか、とだけ言うと燐に向き直った。雪男は気づく。
メフィストが言っていた燐の監視役の上一級祓魔師とは、リュウのことだったのだと。
「来い、奥村燐」
リュウと燐は視線を交わすと、頷き合う。お互いに懐かしそうな目をしている。
雪男の胸にちくりと痛みが走った。自分は間に入れないような雰囲気を感じたのだ。
でも、と雪男は疑問に思う。リュウと燐はあの祭りの時もそんなに言葉を交わしてはいなかった。
任務の時だって、一緒になったことはない。それなのに、なぜこんなにも近い仲になっているのだろう。
雪男は無意識のうちに不快になった。なんだか自分が知らない兄を知っているぞと言われたような気がして。
「貴方が、兄を呼んだんですか?」
雪男はリュウに問いかけた。
「そうだ、やって欲しいことがあってな」
「危険なことはさせないで頂きたい」
雪男はきつい口調で言った。最初に言っておかなければ、兄がどんな目にあわされるかわかったものではない。
雪男の鋭い言葉に、燐が少し慌てた声を出す。
「俺は大丈夫だって、心配すんなよ」
「だって・・・」
「そうだな、説明はしよう」
リュウと兄弟は台湾支部の門をくぐった。沖縄にある首里城を彷彿とさせるような、赤い門に赤い建物。
素直に美しい建物だと思った。その門の裏手に、中庭に続く道があった。
リュウと色違いの衣装に身を包んだ門番の横を通り抜けると、芝生に包まれた道を歩く。
程なくして着いた庭は、美しい花が咲いていた。その花の中に、埋もれるように石が置いてある。
それを横目でちらりと見て、燐は立ち止った。
石の方になにかの光が見えたからだ。急に立ち止った燐に、リュウは問いかける。
「どうした」
もう一度見るが、光はもう消えている。気のせいか。
「いや・・・なんでもない」
「いくぞ」
中庭を通り抜けると、小さな離れがあった。そこはシンプルな作りで、屋根も黒い色をしている。
中に入ると、小さな机と椅子があるだけだった。
しかし、窓から見える中庭が美しい様相をしているので、休憩所として造られたのかもしれない。
三人は中に入って用意された椅子に座る。リュウが手を挙げると、どこからともなく使用人のような者が出てきた。
使用人は三人の前にお茶を置くと、すぐに去って行った。離れの中にお茶のいい香りが広がる。
「いいにおいだな」
「飲め、別に退魔の術などかけてはいない」
雪男が警戒していたのを知ってか、リュウは先に口をつけた。雪男もお茶に口をつける。
「では頂きます」
美味しい。そして、特にハーブや退魔の聖水等が使われていないことを確認して、燐に飲むように言った。
「お前、やりすぎだぞ・・・」
燐の小言を聞きのがして、雪男はお茶を飲んだ。
素直に美味しいと思ったので美味しいですね、とだけ言っている。
リュウが雪男の態度を気にしていないのが幸いだ。燐は弟の態度に少し緊張している。
燐は、あの祭りの日のことを覚えている。でも雪男は覚えていないのだ。
うさ麻呂と過ごした思い出を持っているものは、今はもう。
燐はちらりとリュウを見た。リュウも、覚えてはいる。らしい。直接聞いたことはないのでわからないが。
態度からわかった。燐のようにはっきりとではないだろうが、やはりあの絵本の一族の血を引いているからだろうか。
「奥村燐、お前を呼んだのは他でもない。話して欲しい悪魔がいる」
「悪魔?」
「そうだ、歴史的な建造物に憑りついていて無理に殺せば建物に傷がつかないとも限らない。
悪魔と話せる者は騎士團にもわずかにしかいないのでな。呼んだのは、そのためだ」
雪男はうわあああ、と思った。嫌な予感がしたのは歴史的建造物。という点だ。
兄はとにかく任務の度に物を壊す。どうしよう、説得に失敗して建物壊したらどうしよう。
嫌な汗が止まらなかった。
対して燐は笑いながらリュウに話しかけている。
「まかせとけって!今からでもいいから行こうぜ!」
「ちょっと兄さん、そんな安請け合いしないでよ!」
「では、善は急げだ。行くぞ」
リュウは懐から鍵を取り出すと、離れの扉に差した。雪男は今だけはこの便利鍵が憎かった。
頭の中には弁償の二文字しかない。開かれた扉の向こうには、高そうな建物が。
終わった。と雪男は思った。
***
しかし、当初の雪男の予想は外れたのだった。建物に憑りついていた悪魔は、黒い塊だった。
初めに見た時にはわからなかったが、魍魎の集合体らしい。
だが集合体になっていることで意志を持っているようだ。
魍魎を祓うには、一気に焼き尽くすか消滅させるのが一番だ。
建物が重要文化財級でなければできただろうが、傷をつけずにこれを祓うのは難しい。
祓っても祓っても魍魎はどこからともなく沸いてくる。うっとおしいことこの上ないのが腐の眷属の特性だった。
燐が悪魔に声をかけた。すると、悪魔は燐の声に反応して視線をぐるりと向けてくる。
燐はその瞬間にぞくりとした寒気を感じた。
なにこれ。嫌な予感。そしてその燐の嫌な予感はよく当たる。
悪魔は嬉々として燐の方に飛びついてきた。建物から離れたので、任務としては成功だ。
悪魔は大声で吠えた。
『わ、若君イイイイイイイイイイイイイ!!!お探ししておりましたああああ!!!』
「ぎゃあああ!こいつアスタロトの眷属だああああ!!!」
燐は一目散に逃げた。アスタロト、それは燐に初めて襲いかかってきた悪魔でもある。
八候王の一人にも数えられる腐の王だが、ことあるごとに燐を追いかけてくるストーカー体質も持っていた。
アスタロト自身だけではなく、その眷属にも燐を追うように指示しているとか。なにこれ怖い。
燐は恐怖でいっぱいになった。
建物から十分に離れたことを確認すると、雪男は魍魎に発砲した。
しかし、分解はされるが消滅はしない。やはり全体攻撃でないと無理なようだ。
「兄さん!!」
そうこうしているうちに、燐が魍魎の手に握られていた。大量のイナゴの群れにたかられているようなものだ。
燐の悲鳴は止まない。それでも必死に語りかけているところを見ると、
真面目に任務をこなそうとしているようだった。
兄さん、もう建物から離れているから気にしないで燃やしていいんだよ!
体をわさわさ触られているのかもしれない。
燐の体が震えている。雪男がキレそうになったところで、リュウが飛び出した。
「破ッ!」
棍を振りかざして、燐を捕えている腕を切り取った。魍魎が離れる。リュウは燐に声をかけた。
「あの時と同じようにする、お前は隙を叩け!」
そう言うと、リュウは魍魎の体に飛びついた。
魍魎が融合しすぎて、すでに人が乗れるまでに実体化しているようだ。
どんどん性質が悪くなってきている。早く叩かなければ、何が起こるかわからない。
リュウは棍を魍魎の体に当てると、呪を唱えて爆発させる。
これは、幽霊列車を排除した時と同じやり方だった。肉片を飛び散らせながら、魍魎の体を削っていく。
リュウの狙いが、燐にはわかった。
魍魎は体を蠢かせながら四本足で走っていった。身体が徐々に小さくなっていく。
燐はその隙を狙って、倶梨伽羅を抜いた。青い炎に包まれる。刀に炎を収束させて、振り下ろした。
「終わりだッ!!」
炎は魍魎を焼き尽くした。しかし、リュウを焼いたりはしない。リュウは青い炎の放たれた地面に降り立った。
身体に纏わりついていた魍魎も焼き尽くされて消えていく。空気も浄化されているようだ。
リュウは炎の中から歩いて出てきた。燐に向き直って笑いかける。
「協力、感謝する」
「お前・・・あいつが俺のこと狙ってたって知ってたんじゃねーだろうな!?」
「悪魔の言葉はわからん」
「本当かよ・・・」
だが嘘をついているようにも見えない。燐は納得はできないまでも、一応怒りを収めた。
すると、背後から何かプレッシャーのようなものを感じた。燐は振り返る。
背後には、不機嫌を隠そうともしない雪男がいた。
「なに、あれ」
「なにって?」
「あの時と同じようにって、何」
「あー・・・それは」
実に説明しにくい。幽霊列車と遭遇し、うさ麻呂と出会い。別れた。あの出来事はなかったことにされている。
燐は確かに経験したことだが、なかったことを説明しろと言われても難しい。
燐が悩んでいると、リュウが燐を引き寄せて雪男に告げた。
「俺とこいつだけの、秘密だ。諦めろ」
「え」
からかうように告げるものだから、燐も動揺する。こいつ、こんな顔もできたのか。
でも、怖い。雪男の形相が怖い。人を殺しそうな目をしているじゃないか。
「ゆ、雪男ッ誤解だって」
「秘密ねぇー、ふぅーん。二人で何してたのかすごく気になるな。僕」
たぶん日本に帰ってからもねちねちいじめられるタイプの怒り方だ。最悪である。
悪魔を祓ったので、もうここにいる必要はない。
リュウが使用した鍵を使って、三人は離れに戻ってきた。
そこには新しいお茶と菓子が用意されていた。一服してから帰れ、ということだろう。
でも、雪男とリュウのぎすぎすした関係に慣れなくて、燐はしばらくして離れを抜け出した。
道を辿って、中庭の方へ足を踏み入れる。来た時に見かけた、あの光が気になっていた。
花々に埋もれる石の傍に、そっとしゃがみこむ。
石は無造作にあるように見えるが、何かの意図をもっているようだった。
そう、まるで。誰かのお墓のような。
燐が見ていると、誰かの声が聞こえてきた。
『・・・り・・・う』
「え?」
『リュウ、だいじょうぶかなぁ』
燐が目を見張る。お墓の上には、小さな猫の悪魔がいた。
燐は猫に話しかける。もしかして、この猫が呼んでいるのはあの男のことではないだろうか。
「お前、あいつの知り合いか?」
『ぼくがみえるの?』
「ああ、俺悪魔だからな」
『ぼく、リュウにはらわれちゃったんだ。でも、それはリュウのせいなんかじゃない。
リュウがそのこときにしてないか、ずっとしんぱいだったんだ』
悪魔でも、思い残したことがあると幽霊。ゴーストになるものなのか。
この悪魔はリュウのことが心配で、この世に残っているらしい。
悪魔は随分とかわいらしい外見をしていた。あの仏頂面のリュウとこの悪魔が一緒にいる所を想像して少し笑った。
人間であるリュウには悪魔の言葉もわからないし。こんなに力の弱い悪魔では実体化することもできないだろう。
それでも、リュウのことが心配で、ずっとここに残っていたのだ。燐は悪魔に笑いかける。
「・・・お前、あいつの友達なのか?」
猫の悪魔が笑った。
『うん、だいじなともだちだよ。ずっと、ずっと!』
リュウもこの猫の悪魔が大事だったのだろう。
だから、この美しい中庭にひっそりとお墓を作ったのだ。
燐は離れにいる二人に声をかけた。
悪魔がいるぞ、というと二人は急いで飛んでくるだろう。二人には見えないこの悪魔の言葉を、伝えてやろう。
リュウは、ずっと聞きたかった友達の言葉だろうから。とても驚くかもしれない。
目の前にいる透明な悪魔を見て、燐はうさ麻呂の姿を思い出した。
なかったことにされても、燐はうさ麻呂の姿を覚えている。あの時のリュウを、燐を、町の皆を救ったのはうさ麻呂だ。
燐は覚えている。忘れたりなんかしない。
「ずっとずっと大切な・・・俺の弟だからな」
雪男が聞けば、また怒りそうな話である。あのときもすごく動揺していたから。
燐は雪男の動揺が不思議で仕方がなかった。家族が増えることはいいことだろうに。
雪男の動揺の影には、雪男の兄を取られるかもしれないという独占欲があったことに、燐が気づくことはない。
リュウは秘密だ、と言ったけれど。帰ったら雪男に話そうと燐は思った。
寂しがり屋で、人が好きで、それでも人を守っていった。
大切な、弟がいたという話を。
眠る兄の側に雪男は寄り添っていた。
燐の茨は徐々に心臓にまで達してきている。どうにかして阻止しようと、雪男は色々なことを試した。
燐の眠りはどんどん深くなり、雪男が体を動かしても気づくことはなかった。
雪男は調合した薬を注射器に入れ、眠る燐の腕に刺す。
ちくりとした痛みでも、燐が起きることはない。
雪男はされるがままの燐の腕を、元の位置に直す。
髪が顔にかかっていたので、指で梳いて撫でつけた。
そのまま口元まで手をずらして、手の甲を唇につける。呼吸は浅いけれど、ある。
眠っているだけなのに雪男の心のざわつきは収まらない。
この呼吸が止まったらどうしよう。
雪男は燐の着物をはだけさせて、胸に届きそうな茨を見た。
先ほど燐に注入した薬と、肌に施してある青いインクは同じものでできている。
メフィストから渡されたものだが、確かに効果は出ているようだ。
少しだけだが、進行を遅らせることができている。でも、それもいつまで持つかはわからない。
メフィストは、根が深く張りすぎていて摘出はもう無理だと言った。
解決はしていない。誤魔化しているだけ。
雪男は燐の体をなぞった。不安を与えないように、心臓部分の茨は描いていない。
燐も気づいていないようだった。
その方が燐にとってもいいだろう。いくら兄でも、目に見えて迫る死の刻印を前にして
平静にしてはいられないだろうから。
雪男は取り乱す燐の姿を想像した。怯える兄の姿を、雪男は見たことがない。
目の前にしたら自分は平静でいられるだろうか。
そう考えて、本当は自分のためにしているのかもしれない。と雪男は思った。
唯一の肉親である兄がこんな状態なのに、考えるのは自分のことばかり。
雪男は燐の頬にそっと触れる。
「なんで、僕はこうなんだろうね」
問いかけても寝ている燐は答えない。雪男は唇を指でなぞる。
顔をそっと寄せた。頬に軽く口づける。
起きていたら、きっとすごい顔をして詰め寄ってくるだろう。
寝ているから、燐が気づくことはない。そう、雪男が何をしても燐は気づかない。
それはきっと悲しいことだ。
「ねぇ、兄さん起きてよ」
体を揺すってみるが、起きる気配はない。
雪男は仕方なく、持っていた聖水を手のひらに落とした。
指で摘んで、洗礼を施すように燐の周囲に軽く振りかける。
十字を切れば、簡易の結界ができあがる。茨も悪魔と同じだ。
結界の中ならば動きが鈍るだろうと考えてのことだ。
雪男は結界に異常がないことを確認すると、報告書を作るために席に着いた。
ちらりと背後を確認すれば燐が動いた気配はない。静かな部屋だった。
雪男がキーボードをたたく音だけがカタカタと響くだけ。
燐の寝息も小さなもので、あるのかないのかもわからない。
雪男は一端手を休めて燐の側に立つ、寝返りも打たないようなので
燐の体を持ち上げて、少しだけ傾けてやった。
「床ずれとかは・・・ないか」
意識のない患者や寝たきりの場合には、時折体の向きを変えないと床ずれが起きる。
この床ずれはひどくなれば傷と同じで感染症を引き起こしかねない。
気をつけなければならない症状だ。
しかし、傷があったとしても燐の場合は悪魔の治癒力で治ってしまうので
床ずれが起きる可能性は低いかもしれない。
雪男は考えながらも燐の体を転がした。
少しでも触れていたかったのかもしれない。
燐が元気でいるときは、うるさくてうっとおしいと思っていたのに。
いざ静かになるとこうして構ってしまう。
自分の矛盾した行動に笑ってしまう。
「兄さん」
呼びかけても、起きる気配はない。結界も張った。薬もある。
あとは何をすれば元に戻るのか。雪男はずっと考えていた。タイムリミットは近いのだ。
なんとかして答えを見つけなければ兄は死んでしまう。
そうだ、このままではいけない。
雪男は腕の中に大人しく収まる燐をぎゅっと抱きしめた。そのまま同じ布団に横になる。
だめだとわかっているのに、この腕の中に収まる位置に
兄がいることにひどく安堵している自分がいることに気づく。
治って欲しいと思う気持ちも本当なのに。
このままどこにも行かないで欲しいと思う気持ちも同時に存在する。
燐はすぐどこかにいってしまう。雪男の手の届かないところへ。
そう考えると、今は雪男にとって随分都合のいい状況な訳だ。汚い自分の欲望を自覚する。
「兄さん、起きてよ」
起きて、僕を安心させてくれ。こんな状態の兄さんを腕に抱いて心を落ち着けている僕を怒ってくれ。
雪男は兄の首筋に顔を埋めた。心臓の音がとくとくと聞こえてくる。まだ、兄は生きている。
僕がなんとかしないといけない。
雪男は起きあがって、眠る兄の額にキスをした。唇には決してしない。
それはルール違反のように思えたから。
考えよう、最後の最後まで。茨を排除する方法を。雪男は机に向かう。資料を探す。
兄が寝ていることをいいことに、連日徹夜だってした。探した。探した。
燐は時折起きては雪男を見つめた。雪男は燐を安心させようと大丈夫だよ、と嘘をついた。
でも、最後まで助ける方法は見つけられなかった。
その結果が。この様だ。
雪男は腕の中で冷たくなっていく燐を抱きしめていた。
毛布でくるまって二人でいたら、暖かかったのに。
今では雪男の体温しか感じることができない。静かな夜だった。
空には青い月も昇っている。燐の胸には、青く光る薔薇が咲いている。
燐の命を食らって咲いた花だ。憎らしいくらい美しい花だった。
「俺は、死なねーよ」
燐が雪男に告げた言葉。うそつき。じゃあなんで兄さんは僕の腕の中で冷たくなっているのさ。
雪男の言葉に燐が反応することはなかった。
雪男は自分のポケットが震えていることに気づいた。携帯が着信を告げている。
非通知。予感がして、雪男は努めて平静に電話に出た。
『お兄さん元気ィ?』
雪男の神経を逆なでするイヤな声だ。たぶんずっと見ていたのだろう。
雪男が努力している姿を、燐を助けようとしている姿を。この男はあざ笑っていたのだ。
『君は、自分の欲望を自覚した方がいいよ』
雪男は反論する気も起きなかった。黙って藤堂の声を聞いている。
お兄さんが腕の中にいる時、どう思った。君は安心したはずだ。
君のお兄さんは君に心配かけてばかりだ。
君が大人しくしろと言っても言うことを聞かないし、すぐに危険に首を突っ込んでしまう。
挙げ句の果てに、君が七歳の頃から努力して手に入れた力を、いとも簡単に飛び越えてしまうんだ。
君はずっとお兄さんに憧れていた。
お兄さんは、魔神の青い炎を継ぐ特別な存在。対して君はどうだろうね。
お兄さんばかりに行く注目。
お兄さんばかりが受け入れられていく様相。
君は、自分の欲望を自覚するべきだ。
「僕、は・・・」
雪男は確かに思っていた。周囲に受け入れられていく兄がうらやましいと思っていた。
そして、もう兄は自分だけのものではないことも理解していた。
この腕の中で、どこにも行かず、誰にも会わずに。ただ自分の為だけに存在してくれる存在。
青い美しい薔薇を胸に灯して眠る、欲しかったもの。
僕は、手放したくないと思っている。
『だから、そのままでいいんじゃないのかい』
辛いことも忘れ、悲しいことからも逃げて。
閉鎖された空間で過ごした日々は、雪男の心をかきむしりながらも安らげた。
まるで、このままずっとそうしていられるように錯覚をした。
そうだ、楽しいことばかりをして過ごす物語を、僕は知っている。
ネバーランド
子供が子供のままいられる世界。
過ぎない時間を望んだ大人が焦がれてやまない世界だ。
悪魔は、そのままそこにいれば、立ち止まればいいと囁いている。
雪男はぼんやりと、兄の言葉を思い出していた。
「俺は死なねーよ」
死んだじゃないか。心臓を茨に食われて殺された。
心臓を―――
雪男は気がついた。兄の胸に宿る薔薇を見る。
この薔薇は、宿主の力を吸収して成長している。今美しく輝いているのも、燐の力を吸い取っているからだろう。
燐が炎を使えば、その炎を吸い取って成長していたのがその証拠だ。
兄が死んだのなら、なぜ茨はまだ咲いているのだろうか。
雪男は電話口で、笑った。
「藤堂、よくもそんなことが言えたな」
燐に茨を植え付けて身動きを封じ、雪男の絶望と、欲望を刺激した。
全く、悪魔のような作戦だ。事実、藤堂は悪魔に堕ちているが。
兄に対する独占欲を雪男は確かに自覚した。
でも、茨の作り出したネバーランドはまやかしだ。
悪魔が作り出した世界には、裏がある。
「兄さんは、生きている」
心臓、そう。燐は悪魔だ。悪魔は心臓と尻尾が弱点である。
燐の悪魔の心臓は、倶利伽羅に封印されている。
肉体にある心臓とは別物だ。茨が植え付けられてから、燐は倶利伽羅に触れていない。
燐の悪魔の心臓はまだ鼓動を止めていない。
雪男は燐の胸に咲いた薔薇に指をかける。茨が指に絡んで、血が出た。
知ったことか。雪男は力を込めた。
ぶちり、ぶちり。と茨が燐の体から離れていく。メフィストは茨の摘出は無理だと言った。
でも、こうして姿を現している場合なら、取り除くことができる。
心臓の証を取り除くこの行為は、燐にわずかに残されていた人としての部分を殺す行為になるかもしれない。
携帯電話をその場に置く、雪男は選んだ。
「兄さん、起きてよ」
兄の胸から摘んだ薔薇を、口に含む。
そのまま呼吸の止まった唇に、口移しで薔薇を含ませた。
薔薇は命の光を灯しているからか、あたたかい。
意識のない、燐の唇を奪った。ルール違反かな、と思ったけれど、この際許してもらうことにしよう。
燐の体が青い光に包まれる。生命の光だ。
これで、兄さんは。
携帯電話から、声が聞こえてきた。
『君は、この選択に後悔しないかい』
ネバーランドはすぐそこだ。悪魔は囁く。
「大人のくせに、餓鬼みたいなこと言うなよ」
雪男は藤堂を笑った。藤堂もそうだね。と笑う。
「じゃあ僕も遠慮はしないよ」
雪男の目の前に藤堂が降り立った。