青祓のネタ庫
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先月号のショックで書き上げた夏コミの無配です
ネタバレ有りの為注意。
お前の命は、あいつに生かされた命なんやで。
子供のころから何度も聞いてきた言葉が頭に響く。
志摩はその言葉を聞くと何も言うことができなくなった。
会ったこともない、知らない兄の話を聞いて、自分にどうして欲しいというのだろう。
立派になれ?ちゃんとしろ?そんな言葉聞き飽きた。
言ってやりたかった。俺じゃなくて兄貴が生きとったらよかったんやないの。
俺にはそんな責任とか重すぎる。俺はもっと楽に生きたい。もっと楽しいことをして生きていきたい。
それの何があかんのや。苦しいことから逃げて、何が悪いんや。ずっとずっと。そう言ってやりたかった。
「だから、俺は楽な方に行こうと思ってん」
志摩は抱えていた出雲を、イルミナティ側の人間に引き渡した。
燐はやめろと叫ぶが、出雲はそのまま連れていかれてしまう。抵抗しようとする燐を、志摩の黒い炎が突き刺した。
身体を刺し貫かれてしまえば、身動きは取れない。
自分も炎を宿しているが、この炎は質が違う感じがする。
黒くて、どろどろしてて。まるで。燐は倒れたまま、志摩を睨み付ける。
「流石奥村君、感じる?俺の炎のこと」
志摩を現しているかのような、黒い炎。魂を、心を焼き尽くすような痛みに耐えながら燐は叫ぶ。
「なんでだよ」
なんでお前がスパイなんだ。燐は信じたくなかった。
出雲が連れていかれそうになっている。その光景を目にした時、燐は真っ先に刀を抜いて、
出雲を連れ去ろうとしたイルミナティの男に襲いかかった。しかしその刃を止めたのは、志摩だった。
「志摩!?なんでだッ」
動揺している燐に黒い炎が襲いかかる。燐は青い炎で防御した。
黒い炎は青い炎に遮られては近づくことができないらしかった。
炎と炎のぶつかり合い。志摩は言った。
「この炎を燃やされるとな。俺、死んでまうねん」
聞いて、燐の炎の勢いが収まった。刀を持つ手が震える。
その隙に、志摩は黒い炎で燐の体を絡め取った。
自身の危機に反応したのか。
青い炎は燐の意志に反して黒い炎を焼き尽くそうとする。止めたのは、燐だった。
「ダメだ!」
志摩を殺してしまう。そう思い、倶梨伽羅を鞘に納める。焔は一瞬にして消えていった。
志摩はにやりと笑って夜魔徳を使って燐を拘束する。
手と足。体を上から押さえつけられ、燐は地面に縫い付けられた。志摩は燐に話しかける。
「ごめんなぁ。出雲ちゃんは頂いてくわ」
「・・・てめぇ、本当に」
燐の言葉に志摩は笑って頷く。
「そうやで、俺はスパイ。敵側の人間や」
奥村君達上手に騙されてくれて助かったわ。そう志摩は告げる。
燐は納得ができなかった。勝呂達とあんなにも仲が良くて。
不浄王の時には一緒に戦った仲間なのに。
そうだ、京都の。明蛇宗の人たちともあんなに楽しそうに。
家族がいて。友達がいて。そんな世界を捨てて、暗い世界を選ぶ志摩を燐は理解ができない。
「お前、家族や。勝呂達のことも裏切ってたのかよ」
家族。その言葉に志摩の笑顔が消えた。
「家族?そんなもんクソくらえや」
志摩は家族に、家に縛られてきた。長男は、志摩を守って死んだ。
よくできた兄で、家を継ぐことに何の障害もない立派な人だった。らしい。と志摩は聞いている。
そう、志摩は兄に会ったことがない。会ったこともない家族に、生まれた時から縛られていた。
聞いた話では、この夜魔徳は死んだ兄が使役できる悪魔だった。
志摩の家に憑く悪魔。勝呂家のカルラと原理としては同じだろう。
家を継ぐ者が継いでいく悪魔。家督の象徴の様なものだ。
兄は夜魔徳を、自身ではなく。まだ見ぬ母の腹にいる弟へと譲った。
そして魔神の炎に焼かれて死んだのだ。だから志摩はこうしてここにいる。
「…恩着せがましい。この力譲ってくれなんて。そんなこと頼んどらんわ」
志摩は恨めしそうに黒い炎を見た。本当に、自分の内面を移すような炎だ。
燐の青い炎が美しく全てを燃やす炎なら、自分の炎は心を砕く薄暗い炎。
お前の命は、あいつに生かされた命なんやで。
子供のころから何度も聞いてきた言葉が頭に響く。
志摩はその言葉を聞くと何も言うことができなくなった。
会ったこともない、知らない兄の話を聞いて、自分にどうして欲しいというのだろう。
立派になれ?ちゃんとしろ?そんな言葉聞き飽きた。
言ってやりたかった。俺じゃなくて兄貴が生きとったらよかったんやないの。
俺にはそんな責任とか重すぎる。俺はもっと楽に生きたい。もっと楽しいことをして生きていきたい。
それの何があかんのや。苦しいことから逃げて、何が悪いんや。ずっとずっと。そう言ってやりたかった。
「だから、俺は楽な方に行こうと思ってん」
これが無ければ、志摩はもっと自由に生きられたのかもしれないのに。
勝呂の家を守ることも、悪魔と戦うことを強いられることもなかったはずだ。
こんな道を選ばなくても、よかったはずなのに。
「お前、本当にこの道が楽って思ってんのかよ」
「…思ってへんよ」
「だったら」
「もう戻られへんのよ」
黒い炎がまた燐を刺した。燐が低く呻く。かなりの痛みだろう。
この炎は悪魔の器ではなく、魂を燃やし尽くすもの。
内部から甚振られる痛みはどれほどのものか。
耐えられるのも燐が魔神の落胤という特殊な立場だからだろう。
炎を出さないようにはしているが、内部では青い炎が黒い炎の侵入を阻止しようとしているはずだ。
それにしても。と志摩はため息をつく。
燐は自分に。志摩に害が及ぶとわかった途端に、青い炎を収めた。
本当は焼き尽くしたい本能を抑え込んでまで耐えている。
馬鹿だ。この同級生は本当に馬鹿だ。
志摩がうそつきなことを知っている癖に、その言葉を信じているなんてとんだ大馬鹿だ。
志摩は言った。
「奥村君って優しいなぁ。反吐が出るわ」
燐の態度は力ある者故の優しさだ。人よりも力があるから。
人よりも特殊な力を持っているから。全てを壊す力があるから、誰よりも人にやさしくできる。
志摩には燐の優しさがまぶしいものであると共に、どうしようもなく憎い。
恐らく、人が彼を恐れる理由もそこからだ。人は弱いからこそ、誰よりも人に厳しく、人を切り捨てる。
燐は悪魔だ。悪魔だからこそ人にやさしく寄り添える。
人が憧れる人間という者に一番近いのが悪魔だなんて。本当に、笑えない。
志摩は父親から譲り受けた錫杖に黒い炎を灯した。
その矛先を、燐の心臓に当てる。
「ああ、そうや。違うわ」
錫杖を燐の身体から離して、手の先。燐が握りしめている倶梨伽羅に向けた。
そこには燐の悪魔の心臓が封印してある。全ての情報は、志摩に筒抜けだ。
仲間の手の内は知っている。
誰よりも近くにいたからこそ知っている。
「狙うなら、ここやんな」
黒い炎が倶梨伽羅を包めば、反射的に燐の体と刀が青い炎に包まれた。
本能的にまずいと感じているのだろう。悪魔の心臓を壊されれば、いくら上級悪魔といえども死ぬ。
悪魔の急所を志摩に壊されようとしている。
燐はもがいてなんとか黒い炎から抜け出そうとしているが、夜魔徳がそれを許さない。
「俺を殺したら、坊や子猫さんから奥村君すごく恨まれるやろうな」
例えばここで俺と奥村君が戦っとるとこ見られて、俺が奥村君が暴走した。
助けてって言ったら、たぶん騎士團側は俺の言い分を信じるやろうな。
だって俺人間やし。坊たちに必死に訴えてどっちの言い分信じるかやってみる?
きっとおもろいやんな。その想像がついて、少し笑う。
自分の嫌味な言い方にも嫌気が差す。燐は苦しそうに息をしながら志摩に言った。
「お前、自分の事嫌いなんだな」
「ああ大嫌いやで」
こんな風にしか生きることのできない自分が嫌いだ。
だからイルミナティに入ったのかもしれない。
イルミナティにはそんな輩ばかりだ。
世界を恨んで自分を嫌う。そんな集団ばかりだと思う。
「でも俺も皆もお前のこと好きだよ」
頼むから、戻ってこいよ。
聞いて、志摩は錫杖を倶梨伽羅に突き刺した。
黒い炎が倶梨伽羅を貫く。燐の体ががくりと力が抜けて、動かなくなった。
青い炎がろうそくの火が消えるかのように消えていく。
「奥村君…」
話しかけても燐は動かなかった。触れた体は冷たい。
「馬鹿やな、俺のこと燃やしたくなくて自分が刺されるとか。本当に馬鹿やな」
うそつきな自分の言葉を信じなくてもよかったのに。
錫杖をどかそうとすると、悪寒がした。命が脅かされるような、そんな危機感。
「夜魔徳くん!」
使い魔に声をかけて、急いでその場を離れる。
夜魔徳も状況のまずさを理解したのだろう。志摩を覆うように黒い炎を発動させる。
燐の体から、火柱のような青い炎が巻き上がった。燐に意識はない。
炎の勢いに支えられて倒れていた体が起き上がった。ぼんやりとした瞳でこちらを見ている。
『まずいぞ、あの炎には宿主の意識がない。悪魔の本能に従って、命を脅かす何物をも破壊する』
「えええ!?あかんやんまずいやん!」
志摩はとんでもないものを呼び起こしてしまったらしい。
魔神に通じる炎の意志を敵に回しては、勝てるわけもない。
燐の意識が無いのなら、志摩など一瞬で灰にさせられる。
魔神の炎は物質界、虚無界のどちらにも干渉する特殊な力だ。
こうなっては分が悪い。
「目的も果たせたし、とんずらやな」
志摩は夜魔徳に捕まって、その場を離れた。
すると、志摩がいた場所に青い炎の塊が降ってきた。あと少し離れるタイミングが遅かったとしたら。
そう考えて、ぞっとする。
やはり、奥村燐の存在は物質界のイレギュラーだ。
志摩に命令を与える上役もそこは十分すぎるほど理解はしているだろうが。
イルミナティの組織に必要な出雲。その先にある目的に燐も絡んでいる。
ここで彼を連れていくこともできただろうが、そうなればメフィスト=フェレスが黙っていないだろう。
時間を操る悪魔を敵に回すのは得策ではない。
現に、イルミナティが作った虚無界の門を周辺の時間を停止させることで止めたような悪魔だ。
次元が違う。
彼は燐の存在を守るためにあらゆる手を尽くしている。
メフィストがいなければ燐は物質界で生きていくことは難しい。
志摩は眼下に広がる光景を眺めた。学園祭の夜。普段とは違った風景だ。
提灯や雪洞の灯りに包まれて、町は騒いでいる。人が笑っている。
こんな戦いがあることなんて知らずに、普段通りの日常が過ぎていくのだ。
「くだらんわ」
だが、それこそが志摩が求めてやまないものだった。
誰に縛られるでもなく、捕らわれるでもなく過ぎていく日常。
この学園で過ごした日々は間違いなく楽しかったと言える。
例え皆を騙していたとしても、その思いだけは本物だ。
志摩はこの学園の裏側も知っていた。知っていたからこそ強く感じる。
まさしく、この学園は籠の鳥だ。出雲や、燐が囲われている牢獄のような町。
今日この町から、志摩は去っていく。
「またな奥村君、この道の行く先で待ってるで」
志摩の表情は、黒い炎の影に隠れて見えなかった。
***
燐が目を覚ますと、周囲は騒がしかった。
祓魔師達が慌ただしく現場検証を行っているし、救急車も来ている。
担架に乗せられて、自分は運ばれようとしているらしい。視線を横に向ければ雪男と目があった。
「兄さん!」
不安そうな顔をしていた。燐の目が覚めるのかどうか。
気が気ではなかったのだろう。自分たちは二人だけの家族だ。
一人を失ってしまえば、本当にひとりぼっちになってしまう。
燐は問いかけた。
「出雲は、志摩は…?」
雪男は口を噤む。それが全てを物語っていた。ああ、彼は去ってしまったのだ。
昨日まで近くにいて、寮の部屋にも遊びに行って。一緒に女の子に声をかけたり、学園祭を楽しんだり。
出雲にも悪いことをした。彼女は燐の呼びかけに答えて、店を手伝ってくれようとしていたのに。
出雲を守れなかった。
志摩を止めることもできなかった。
「ちくしょう」
悔しい。裏切られた思いは強い。
それでも何もできなかった自分が悔しい。
何かをしていれば止めれたのではないか。そんな思いが止まない。
「兄さんのせいじゃないよ」
たぶん、誰のせいでもない。どうしてもっと簡単に生きれないのだろうか。
この世界は不自由な事ばかりだ。
皆で笑っていられる世界。そんな日が続くことを望んでいただけなのに。
雪男はそっと慰めるように燐の手を握る。
志摩は何でも持っているように思えた。あたたかい家族、騒げる友達、
祓魔の家系だったとしても他と何も違わない。
「ひとりぼっちの寂しさだって、知らないくせに」
家族や友達が周りにいてくれることを、疎ましいと思うことすら燐には羨ましい。
悪魔だと罵られて、人に嫌われてきた燐にとっては。
悪魔の尻尾だって、牙だって、青い炎だって持ってないのに。
燐がなりたくてしょうがない人間なのに。
アイツはどこまで性格が曲がっているのだろうか。
燐は志摩にされた仕打ちを思い出して、ふつふつと怒りが沸いてきた。
「俺にしたこと。倍返しにしてお返ししてやる」
「温いね。僕も手伝って百倍にしてあげるよ」
思い知らせてやる。と雪男の眼鏡がきらりと光った。
その光景をそっと見なかったことにした。
志摩はさよならとは言わなかった。また、と言っていた。
だから燐はまた志摩に会う。出雲も取り返さなくてはならない。
彼女には直接危険な目に遭わせてしまったことを謝らなければならない。
志摩に会う。そして出雲を取り返す。
今度の敵は、昨日の友達だ。
もし次に会えたなら。今度こそ言えなかった言葉を言ってやる。
ぐだぐだと色々言っていたが、燐が志摩に告げる言葉はただ一つ。
「甘えるな」
ついでに一発殴ることも忘れないでおこう。
兄さんは冷たい瞳で僕を見つめる。
当然だ、自分を追放する判断を下した輩を兄は一生許さないだろう。
そういう覚悟でここへは来た。
でも、当時の僕はそんな判断しかできなかった。
兄さんの状況は、まさに生きるか死ぬかの瀬戸際だったからだ。
「奥村燐の処刑を命ずる」
カンッと法廷に響いた裁決の言葉。三賢者は燐の存在を邪魔者とみなした。
燐は悪魔からも人間からもその存在を狙われていた。
悪魔からすれば、次期魔神ともいえる落胤を人間側に置いておくことが屈辱なのだろう。
悪魔からの襲撃は増していた。悪魔は口々に燐の帰還を望んで、消滅していった。
燐は何度も何度も悪魔をその手で殺した。
騎士團にとって悪魔への確かな対抗手段になっていたはずなのだ。
しかし一部の人間が、誠しやかに囁きだした。
魔神の落胤がこちらにいるから、悪魔は騎士團に牙を向くのではないか。
最初は馬鹿馬鹿しいとされていた言葉だ。
燐の騎士團への貢献度は知られていたし、大規模な悪魔の駆除を行うにも青い炎は不可欠だった。
だが、人間側の恐怖というのは伝染していく。
燐が行った行為に対して、人は少しずつ少しずつ毒を持って接した。
共に任務を行った者は、燐をまるで道具のように扱った。
傷を負っていたとしても、燐よりも軽傷な人間の治癒を優先した。
治療をしてくれればまだいい方で、そのまままるで燐が最初から任務にいなかったかのように扱う者も出た。
悪魔は人間が燐に対してそんな扱いをしていることが許せなかった。
悪魔は積極的に人間を襲った。燐への攻撃を最小限に留めて。
ほら、やっぱりあいつは悪魔なんだ。
人は燐を責めた。勿論そんな人間ばかりだったわけではない。
だが毒は確実に騎士團内部に広がり、取り返しのつかないところまで来ていた。
人は弱い。だから自分より強いものに対しての恐怖心を抑えない。
それは迫害という手段で確実に燐を追いつめていた。
対して、雪男への対応は緩くなっていった。
雪男は魔神の落胤と言えども人間だったから、矛先は全て燐へと向かっていった。
雪男は人間の中で追いつめられていく燐の背中を見ていた。
処刑宣言だけは免れたいと、雪男は八方に手を尽くした。
燐を殺されたくはなかった。無くしたくなかったからだ。
でも、全て無駄に終わった。
三賢者が下した決断が覆ることはない。
ならば。雪男はこの裁決に異を唱えた。
「お待ち下さい。処刑の判断は早計だと考えます」
燐の地位が陥れられると同時に、雪男の地位は上がっていった。
落ちこぼれの兄、優秀な弟。雪男の従順な姿勢は、騎士團にとって良いものに映った。
人間は言った。あんなのがお兄さんで、君の生まれはとても不幸だったね。
人は可哀想な者に同情的だった。
雪男はそれに対して腹立たしく思ってもいたし、内心そんな人間を全て皆殺しにしてやりたいと思っていた。
燐よりも雪男の方がよほど人にとって悪意を持っていたが、人はそんなことには気づかない。
人が最初に見るのはその人の外見。つまり表面しか見ていない。
それに雪男は取り繕うことがうまかった。
自分が人であったので、人がどんなに汚いことをするかもよく理解していた。
そうやってのし上がっていくことで、燐を守れると思っていた。
処刑の判断が下ってしまった今、どうやって燐の命を守るのか。雪男の考えはその方向にシフトしていく。
「三賢者の命令は絶対だぞ」
「ええ、十分承知しております。ですが、処刑すればそこで終わりです」
「何が言いたい」
「彼にはまだ利用価値があると言っているのです。
殺せば終わりですが、生きてさえいればまた利用することができるでしょう。
悪魔に対抗するためには、青い炎が必要だと考えます」
「ならばどうする。騎士團の地下深くにでも幽閉するのか」
幽閉。そうなってしまうとまずい。雪男は口を噤んで周囲の言葉を待った。
すると、裁判員の一人が叫んだ。あいつがいるから悪魔が来るんだ。
ここに幽閉されればこっちが悪魔に狙われる。
男の声に、周囲が賛同した。
そうだ、あいつさえいなくなればいいんだ。
殺せ、殺してしまえ。でも、どうする。落胤を殺されたことで悪魔がこちらへ復讐しに来ないのか。
ならば幽閉か。それは駄目だ。殺せ。どちらにせよ、ここに置いておくわけにはいかない。
周囲に伝染した言葉は、雪男に味方した。
雪男は発言する。
「奥村燐の、騎士團からの永久追放を提言します」
雪男の言葉は、裁決の場に染み渡った。
生かさず殺さすの判断。
それはこちらに被害が及ばず、また危険を遠ざける最も良い判断のように思えた。
雪男が三賢者の判断を待っていると、雪男の声に賛同するものがいた。
「僕もその方がいいと思うなァ、彼を殺せば失うものも多いと思います。
悪魔の復讐なんて皆ごめんでしょう?」
それはライトニングの言葉だった。彼は騎士團の参謀のような男だ。
現に大規模な作戦があれば必ずといって良いほど彼は関わっていた。
その騎士團の人望厚い者からの言葉だ。賛同者は多かった。
三賢者はそのまま再審議に入り、やがて一つの結論が出た。
「奥村燐を、騎士團からの永久追放処分とする」
雪男はひとまず胸を撫で下ろした。
兄が殺されるという最悪の結果は回避できたからだ。
後は、自分が彼を匿う準備をしなければならない。急がなければ。
雪男が審議の場を後にしようとすると、声をかけてきた男がいた。
振り返れば、その人物は雪男の提案に賛同した騎士團の参謀ライトニングだった。
「望む裁決を得られてよかったね」
「・・・貴方の後押しがあったからだとは自覚しております」
雪男はこんな場所でもたついている場合ではない、と思っていた。
早く帰って、兄に全てを説明しなければならない。
燐の知らない所で決定された事実は、きっと酷く兄を傷つけるだろうことはわかっていたからだ。
「それは全然構わないんだけどね。
実のお兄さんにこんなことできるなんて、君本当はお兄さんのこと嫌いなの?」
お兄さんのことが大嫌いなんだろう。
それはかつての雪男を苛んだ、藤堂の言葉の反復のようだった。
雪男はそれをすぐさま否定する。
「そんなわけないでしょう」
「生きてさえいればよかったの?うーん。それもまた難儀な答えだなぁ」
ライトニングは頭を掻いた。雪男の言葉に納得がいっていないようだ。
雪男は苛ついていた。早く帰りたかった。兄に会いたかった。
失礼します。と口にして素早くその場を離れた。
これ以上付き合ってられない。
そんな雪男の意識を感じ取ってライトニングもそれ以上は何も言わなかった。
ライトニングは雪男がいなくなった後、一人ぽつりとつぶやいた。
「だって、彼は。奥村燐の目標は聖騎士になって、
藤本獅郎のやってきたことが正しかったことを証明したかったはずだ。
騎士團からの永久追放ともなれば、藤本獅郎の名誉を回復させる手段を永遠に絶ったということだろう」
認めてもらう事ができなかった彼は、どんな思いであの判決を受け入れるのか。
しかもその判断は残酷なことに実の弟が下したのだ。
彼の目標を引き裂いても。それでも、生きていてもらいたかったのか。
「あの兄弟、なんだか根っこの所で完全にすれ違っている気がするよ」
ライトニングはため息をついて歩き出した。
***
雪男が日本支部に戻ってくると、扉の前にはメフィストがいた。
雪男はメフィストに声をかける。日本支部にはメフィストの結界が張ってある。
燐の場所を補足するにはメフィストの力が不可欠だ。
寮にいなかった場合を考えると、一刻も早く燐を見つけなければならない。
「フェレス卿、兄がどこにいるかわかりますか」
燐は現時点ではまだ監視の対象であるはず。
そうなれば居場所を知らないはずがない。だがメフィストは雪男の予想を覆した。
「さぁ、わかりません。彼はもうすでに私の結界の補足範囲から出ていますからね」
その言葉は雪男の心に突き刺さった。
まさか、自分は間に合わなかったのか。雪男はメフィストに詰め寄る。
「どういう、ことですか・・・」
「そのままの意味ですよ。奥村燐の永久追放が決定しました。
そうなれば彼がこの学園にいられるはずもない。彼は上級悪魔です。
この学園の結界は、上級悪魔の侵入を許しません。
私が丁重に結界の外まで案内して、先程最後の別れを済ましてきました」
雪男はすぐに部屋から飛び出そうとした。
先程、というならばまだ近くにいるかもしれない。
こんなにも早く決定が下されたのなら、燐は何も知ることができなかっただろう。
雪男は元生徒である燐の同期に連絡を取ろうとした。しかしメフィストがそれを無駄だと遮る。
「騎士團からの永久追放を受けた身です。もう誰にも彼と接触することはできません。
現に奥村君は同期に既に監視用の悪魔がついていることも悟っていましたよ」
誰にも連絡を取ることもなく、去って行った兄。
その胸中はどれほどのものだっただろうか。
雪男は燐に説明をしなければならなかった。
こうしている間にも、燐は一歩一歩雪男から遠ざかって行く。
待って、待ってよ兄さん。違うんだ。
「ああ、そういえば奥村君から言伝を預かっています」
メフィストは淡々とした声で告げる。
「お前を一生許さない、だそうです」
雪男が帰った部屋に、燐の姿はどこにもなかった。
代わりのように置いて行かれた荷物と、携帯電話。
そして、騎士団から通告された書類がぽつんとあるだけだった。
おかえりも、ただいまも、もう聞くことはできないのだ。
雪男はぽっかりと空いた部屋を見渡した。
まるで自分の心のような光景だった。
からんからん。という音が響いて、来客の合図を告げた。
時計は午後四時を示している。ランチタイムもとっくに終わり、夜の営業まで時間がある。
カフェにしては遅い時間帯だろう。店内に客の姿はなかった。
奥から、店主が出て来て客に声をかけた。
「はい、いらっしゃいませ・・・」
客の顔を確認して店主は店の奥から出てきたことを心底後悔した。
しまった。居留守を使えばよかった。そう思っても後の祭りである。
ここは狭い店だ。集団で使えるような机もなく、カウンターごしの対応だけ。
それでも客にはご飯がおいしいと密かな人気店になっていた。
一人で切り盛りするにはちょうどいいサイズだったのに。
店主はため息をついた。すると、客の方から声がかかった。
「数年ぶりに会ってその対応はないよね」
客の男は、眼鏡と黒子が特徴的だったが一目で職業がわかる服装をしていた。
黒いコートを羽織って、胸に祓魔師のバッジをつけている。
あまり一般的な職業とはいいがたいが、その危険度の高さから給料は良いと噂の祓魔師だ。
その内容とえげつなさについて店主はよく知っていた。知りたくもなかったが。
「そっちこそ、とうとう俺を捕まえにでも来たのかよ雪男」
店主こと、燐はそう言い返した。いつまでも子供のような対応をしてられるほど軽い人生を
歩んできたわけではない。この店を持つまでの間だってかなり苦労をしてきた。
一人でここまでやってきたのだ。
燐にとってこれまでの道のりと苦労は自分に自信をつけることにもつながったし、
なによりこんな自分でも社会と繋がりを持てるのだという安心にもなった。
自分は魔神の落胤で、今でも悪魔に狙われている。
それが数年前に祓魔師にも追われるようになった。それだけの違いだ。
燐はとりあえずと雪男の目の前にアイスコーヒーを出した。
ガムシロップはなし、ミルクのみを置いてやる。その動作に雪男は目を細めた。
自分の好みを知っているからこそできるやり方だ。
雪男は思わずつぶやいた。
「帰ってきてよ兄さん」
それは雪男の本心だった。でもその言葉を聞いた燐は鋭い視線を雪男に向ける。
「よく言うぜ」
自分を追い出した場所に。そんなところに今更戻れと言うのか。燐は雪男に遠慮はしない。
自分には今の人生だってある。そして雪男にだってそうだろう。
燐がいないこの数年は雪男は確かに自由だったはずだ。
それを言われると雪男は何も言えなくなってしまう。
燐が言った言葉は紛れもない事実だったからだ。
***
魔神を倒し、物質界に平穏が訪れた時に騎士團が取った行動は、今でも許せるものではない。
永久追放という判断は、これまで騎士團に貢献してきた燐にとって酷なものだった。
何のために魔神と命を懸けて戦ったのだろう。
ただ、認めて貰いたかった。神父が自分を生かしてくれたことは正しかったのだと証明をしたかった。
だから聖騎士を目指していた。今まで何があっても我慢をして耐えてきた。
それなのに、それらすべてを無に帰すような傲慢で冷徹な判断だった。
燐は納得がいかなかったが、反論して上層部の判断が覆ることは無いだろう。
それはこの数年でよく思い知っていた。
「なんだよ、俺がやってきたこと。全部無駄だったってことなのかよ」
燐は紙切れ一枚で告げられた内容を見て、項垂れた。
処刑にならなかっただけましだと考えるべきだろうか。でもそこまでまだ開き直れなかった。
いつか報われると信じていたことが、こんな形で裏切られた。
燐の体はまだ魔神との戦いの傷が癒えていない。ずきりと痛む腹を抑えて呻いた。
涙が出るかと思ったけれど、それももう出ない。
監視役をしている雪男はこの判断を知っているのだろうか。いや、それももう関係ないか。
燐が追い出されることで、監視役ももうお役御免だ。
前向きに考えるのであれば、雪男を解放してやれる。
燐は部屋の中を見渡した。ここは六〇二号室だ。兄弟はまだ旧男子寮で暮らしていた。
監視の意味もあって住んでいたここも、もう必要なくなる。
祓魔師に関係するものも置いてあるので、持って行けるものは少量だろう。
燐がこの学園に留まれるのは、あと数時間だった。
正午になれば、燐は祓魔師ではなくなる。必然的にここを追い出されることになる。
燐は荷物を纏めた。今まで世話になった装備品も置いていく。
あれだけ苦労して取った祓魔師の証も全てだ。
少しの着替えと、お金。そして倶梨伽羅。それだけを持って燐は靴を履いた。
心残りがないとは言い切れない。心残りだらけだ。
少しだけ悩んで、携帯電話もおいて行った。
おそらく騎士團への連絡手段を持っていると後々やっかいなことになるだろう。
悪魔に情報を流す気だなどと、あることないこと言われそうだ。
燐は荷物を持つと、六○二号室の扉を閉める前に一度だけお辞儀をした。
この部屋にはお世話になった。これからもう二度と訪れることはできないだろう。
雪男に書置きの一つでも残そうかとも思ったが、やめておいた。
燐は一人で、まるで買い物に行くかのように外に出た。
いつもの道を通って、町の外に繋がる道まで歩く。
燐は目を凝らす。時刻は、十一時時五十五分。あと五分だけか。
町と道の境に、薄い紫色の膜があった。普通の人間には見えないそれは、結界の境界線だ。
メフィストが張っているその結界は、低級から中級までの悪魔しか入れない。
上級ともなればメフィストの許可した悪魔しか入ることはできない。燐は上級の悪魔だ。
騎士團の決定に従ったとすれば、あと五分でこの町に燐は入ることができなくなる。
一歩を踏み出して、燐は結界の外へと出た。
そして上に上にと積み上げられた町を見上げる。大きな町だ、今まで燐が住んでいた町。
これからは住むことも足を踏み入れることもできなくなる町。
どうしてこうなったのだろう。
「俺、がんばったのになぁ・・・」
浮かび上がるのは悔しさだった。それでも、こうするしかないだろう。
俯いている燐の前に、突然影が降り立った。燐はこの気配を知っている。
ピンク色に包まれた長身の男。メフィストだった。
「こんにちは、奥村君」
メフィストはなんでもないように燐に話しかけた。
燐もなんでもないように返す。
「世話になったな」
「おや、てっきり恨み言でも言われるかと思いましたが」
「別に聖騎士になれなかったのはお前の判断じゃないだろ」
「このままでいいのですか」
「いいもなにも、こうするしかないだろ」
恐らく命令に従わなかった場合は処刑。もしくは燐の大切な者に手を出すだろう。
騎士團はそういうところだ。だから燐は騎士團の命令に従った。
「でも、俺が騎士團の命令に従うのはこれが最後だ」
追放したというのなら、これからは好きに生きてやる。もう騎士團に縛られることもなく。
誰の監視を受けるわけでもなく。一人で。
正午を告げる鐘が鳴った。燐は手を伸ばした。結界の向こう側にメフィストがいる。
手はメフィストに届くことなく、結界に弾かれた。もう町に入ることはできない。
「残念。お前のこと最後に殴ろうと思ってたのに」
「物騒ですね。こちら側にいてよかったですよ」
「お前ともこれで本当に最後だな、じゃあな」
燐が背を向けて行こうとするとメフィストが燐を引き止めた。
「奥村君、誰にも声をかけずに行くのですか」
燐が振り返る。その瞳には青い炎が宿っていた。
感情の高ぶりによって引き出されたそれは、間違いなく怒りの炎だった。
悪魔としての瞳で燐は言った。
「どの口が言うんだよ。皆に俺と接触しないように監視用の悪魔をつけておきながらッ」
人間は気づかないだろう。燐と接触したら命令が発動するタイプの悪魔だ。
悪魔は燐ではなく、人を襲うようにできている。それを知っていながら、燐が皆に会えるわけがない。
俺を一人に追い込んでおきながら、お前がそれを言うのか。
メフィストは拍手をした。
「流石、末の弟は一人前の悪魔に成長できたようでお兄ちゃんは嬉しいですよ」
「胸糞ワリィ、お前の顔を見なくて済んで清々するぜ」
「その言葉、そっくりそのまま奥村先生にお伝えしておきましょう」
やめろよそれは誤解されるだろ。最後まで嫌な男だな。燐はげんなりした。
メフィストはそれでは謝罪の意味を込めて、と言葉を告げた。
「最後に、いいことを教えてあげますよ」
その悪魔の言葉は碌なものではなかった。
だが聞かなかったことにはできない。できはしない。それは真実だったからだ。
***
「飲んだら帰れ、そして二度とここへ来るな」
それは燐の本心だった。雪男に何も告げずに出ていった兄。
燐が出ていったあの日から、雪男は燐を探していた。ずっとずっと。
でも行方は知れず、燐の友人たちにも連絡はひとつもなかった。
燐は消息不明になっていた。
ようやくたどり着いた先にいた兄は、もう関わりたくはないと雪男を追い出す。
こんなはずじゃなかったのに。
そんな言葉が頭をよぎる。
燐は未だ動かない雪男に、最終通告を告げた。
「お前、俺が何も知らないと思っているのか」
俺を永久追放する判断を下したのは、お前だろ。
その言葉に雪男は何も言えなくなる。
メフィストが燐に告げた真実だ。
何故それを燐に教えたのか。面白いと思ったからだろうか。
はたまた実の弟に追われるという立場になった燐への同情だったのかはわからない。
それでも、紛れもない真実だった。
「知ってたんだね、兄さん」
雪男の胸元には、聖騎士の証であるバッジが輝いている。
雪男は神父に一人になりたいと言って燐のいる病室から離れた。
空っぽのベッドを見たくなかったからだ。
見れば自分の不甲斐なさと向き合うことになる。悪魔の姿も見れなくなった雪男は自分の無力さを思い知った。
どうしてこうなったのだろう。
雪男の胸の内には後悔しかない。悪魔の姿が見えなくなればいいと思ったことも。
兄がいなくなってしまえばいいと思ったことも本当だ。
でも、こんなことを望んでいたわけではなかった。
どうしてうまくいかないのだろう。
雪男は暗い病院の中を彷徨った。緑色の非常口の明かりだけがぼんやりと辺りを照らしている。
燐の姿が見えなくなったのは、雪男がそう望んだからだろう。
だからあんな夢を見て、あんな悲しそうな兄の顔を最後に見ることになった。
見えなくなると、会いたくてしょうがなかった。
人間は無いものねだりだな。と雪男は自嘲した。あんなにも無くなればいいと思っていたことが
無くなってしまえばどれだけ自分の生活の中に。人生に入り込んでいたのかがよくわかる。
雪男は祓魔師としての人生を、生き方を。決して悪いとは思っていなかったのだ。
悪魔に怯える人を助けることは、自身の心を救うことにもつながっていた。
今更普通の人間になれと言われても、なれるわけはない。
「兄さんがいなくなったら、どうしよう・・・」
病室で苦しむ兄の顔すら、雪男は見ることが叶わない。
会いたくても会えない。触りたくても触れない。
そこにいるはずなのに、見ることができない。
その状況は雪男の心にある変化を齎した。
いなくなればいいという心は、そのまま兄を思う心に変わっていった。
なんて都合がいいのだろう。いなくなってからそのことに気づくなんて。
雪男は自分の心がそんな思いでいっぱいになっていることを自覚していた。
それでも。
「兄さんに会いたい」
雪男は祓魔師で、魔神の落胤の奥村燐の弟だ。
そのことはもう否定することはできない。
失う恐怖が雪男の心を動かした。
悪魔の姿を見ることができなくなったことで雪男は兄への想いを自覚した。
このまま兄を失えば、雪男は自分のことを許せない。
ふと、雪男は足を止める。視線の先には闇があった。
大きな闇だ。雪男はその闇に見覚えがあった。
「こんな時間に何の用ですか、フェレス卿」
雪男の視線の先にはメフィストがいた。非常口の前に佇んで、食えない笑みでこちらを見ている。
こんばんわ、と話しかけられるが雪男は軽く会釈するだけに留めた。
メフィストが何の思惑もなくここに来るはずもない。
燐の状況が、神父を通して伝えられたのだろう。この悪魔と神父、そして自分は共犯者だ。
兄はまだ自分が悪魔であることを自覚していない。
だから人である内は、人として育てることを約束されている。
この危機的状況で、もし悪魔としての力に覚醒してしまえばこれまでの日常は終わりを告げるだろう。
「奥村君が危ない状況だと聞いて伺ったのですよ。様子は如何ですか」
「・・・正直、良くないです」
医工騎士としての知識があるから判断がつくが、あの医療機器の数値は間違いなく良くない。
普通の人間なら持ちこたえられるか否かの瀬戸際だろう。
燐が持ちこたえているのは、きっと眠っている悪魔の力が働いているからだ。
その点だけは本当に悪魔でよかったと思えるところだ。
「一つ質問です。悪魔のいない世界を生きてみて、どう思いましたか?」
メフィストは食えない質問をしてきた。
悪魔を無くし、兄を無くした世界は雪男には普通に過ごすことができた。
こんなことが起きなければ、きっとこのまま高校を受験して悪魔とは関係のない日常を生きて、
いつか医者になっていたのだろう。
悪魔の姿が見えなければ祓魔師として生きることはできない。
どんなに兄に係わりたいと思っても。どんなに神父と一緒に戦いたいと思っても。
雪男だけ、蚊帳の外だ。
兄はいつか悪魔としての力に目覚める。
そうした時、兄は一人で自分の運命に立ち向かわなければならない。
何故なら兄は悪魔で、弟である雪男はただの人間だから。
悪魔も見えない人間に、できることは何もない。
兄がいなければこうだっただろう世界を体験して、わかったことがある。
それはもう自分は普通には生きれないということ。
悪魔も兄もいない世界は、灰色だ。色がない。
自分はもうただの人には戻れない。
力のない人間には戻りたくない。雪男は答えた。
「普通でした。何も知らずにいれば普通に生きることができたかもしれません。
でも僕はもう知っています。兄が悪魔であることも、いつか一人になることも。
僕はもう弱い自分に戻りたくなんかない」
当初の雪男には選択肢が与えられていなかった。生まれた時から兄から魔障を受けて
見えるものとして生きざるをえなかった。悪魔からの身の守り方戦い方。
それは悪魔の姿が見える雪男が生きていくうえで必要なことだった。
見えない選択肢を与えられて、その日常を生きて、その上で雪男は選んだ。
「僕は戦いたい、だから悪魔の姿が見えるようになりたい。兄さんに会いたい」
それは 願い。小さなころに雪男が望んだ願いとは違うのかもしれない。
見えなくなればいいと思ったこともあった。
でも、大きくなった雪男にはその先にある願いを叶えたかった。
歪んでいると思われるかもしれない、その願いを。
「ならば、一つヒントをあげましょう」
非常階段の緑のライトが二人を照らす。
メフィストは満足そうに微笑んで雪男にあるものを手渡した。
そして、全ての謎が紐解かれる。
***
「・・・う」
カーテンから差し込んだ光で、燐は目を覚ました。
体中が痛い。これまで体験したこのない痛みだった。
それは燐が日常とはかけ離れた体験をしたからに他ならない。
しかし、それは弟である雪男にも神父にも言えないことだった。
燐は起き上がることができなかったが、視線だけを窓に向けた。
そこにはカーテンを開けた雪男がいた。燐は思わず声をかける。
「ゆきお」
「兄さん、起きたんだ」
声をかけられるが、二人の視線が合うことはない。
雪男は燐の姿を見ることができなくなったと神父から聞いた。
そのことに寂しさを覚えながらも、これでよかったのだと燐は心の中で己に言い聞かせた。
目の前にいるのに、声だけで会話をする。電話をしているような気分だ。
雪男からは自分がどれだけ危ない状況だったかを説明された。一般病棟に移れたのが奇跡だとも。
無事に目が覚めてよかった、と安堵の声を聞くと悪いことをしたと燐は思った。
「悪い、お前勉強あるのに付き合わせて。もう大丈夫だから・・・」
帰れよ、と言おうとすると雪男の眉間に皺が寄った。燐はまずいことを言ってしまったと口を噤む。
雪男は椅子を引き寄せて燐の傍に座った。
そして、ベッドの脇に立てかけてあった物を燐に見せる。
燐の目が見開かれた。だってそれは。
「倶梨伽羅、だよね。兄さんの悪魔の心臓が封印されている剣だ」
雪男は剣を軽く抜いた。すると燐の体が青い炎で包まれる。
雪男が驚かないのは、見えていないからだろう。
身体の痛みも徐々に消えていく、悪魔としての回復力で傷を癒しているのだろう。
雪男は昨晩、危篤状態だった燐の体を悪魔化させることで持ち直させたのだ。
メフィストの言葉を聞いて、雪男はすぐに神父に掛け合って神隠しの鍵を使ってもらった。
引き出しを開けた先には倶梨伽羅があった。しかしその鞘に封印の札はなかった。
二人は確信した。
「兄さんはすでに悪魔として目覚めていたんだね」
目覚めたのはつい最近のことだろう。
燐は心臓を封印されたことで人間として生きていた。そう、人間として生きていたのだ。
だから、雪男が悪魔の姿が見えなくなったときに疑うべきだった。もう悪魔として目覚めていたのだと。
あの時から、燐はもう人間ではなくなっていたのだ。
だから見ることができなくなった。
そして、悪魔メフィスト=フェレスとある取引をしていたことももう雪男は知っている。
雪男に対して思わせぶりな態度を見せていたのも、雪男が今回のことに気づくかを試していたのだとすれば頷ける。
雪男は手の中にあるものを燐に見せた。それは目薬だった。
燐の体が強張る。やはり、正体を知っていたのか。
雪男はその目薬をゴミ箱に投げ捨てた。
乱暴な弟の様子に、燐は動揺を隠せない。そうだ、こんな姿は今まで一度だって見せたことはなかった。
一見何の変哲もない目薬のようにも見えるが、あれはメフィスト=フェレスの持ち物だ。
悪魔が見えなくなる目薬。人知を超えた力だ。それを燐は雪男に使用した。
雪男は夢を思い出す。悲しそうな兄の顔。そして目覚めた時に泣いていた自分。
あれは涙でもなければ、夢でもなかったのだ。
「悪魔に目覚めた時に、フェレス卿と取引したんだってね。
自分が言うことを聞く代わりに、僕が祓魔師を辞めるように仕向けろなんて。馬鹿なことを」
一番最初に悪魔に目覚めた燐を見つけたのがメフィストだった。
戸惑う燐を導いたのは、メフィストの甘言。神父や雪男のこともその時に知ったのだ。
そして、燐がまず先に思ったことが雪男を悪魔の世界から解放してやることだった。
あの晩に雪男が呟いた言葉を、燐は聞いていた。
「俺がいなくなった方が、お前のためになるって思ったんだ。だから俺は・・・」
燐が怪我をしたのは、町に潜む悪魔と戦ったから。
悪魔が減れば、神父や雪男に被害が及ぶことはないと考えたからだった。
でも燐の力はまだ目覚めたばかりで、退魔の心得もない。そんな無茶をしていたら体がいくつあっても足りない。
不良と喧嘩をしたとしても出血多量で死ぬことは稀だろう。
燐の怪我は普通の怪我ではない。悪魔につけられたものだ。
もっと見ていればよかった。そうすればこんな遠回りすることもなかっただろうに。
「兄さんはわかってないよ」
兄さんなんかいなければ。
そう思ったのはあの時の本心だ。でも違う。そうじゃないんだ。
雪男はそれを伝えたかった。今度は間違えない。
目の前にいる大切な人の姿は見えない。でも、もうそこにいることは知っている。
雪男は燐に手を伸ばした。
見えないけれどそっと感じる体温。雪男は迷わなかった。
寝ている燐に覆いかぶさる。近づく雪男に、燐は抵抗した。
燐は力の入らない手で雪男を遠ざけようとする。
「雪男、やめろッなにする気だ」
「同じことをするんだよ」
燐の手を退かせて、強引に唇を奪った。
聞こえてきた燐の声がくぐもる、唇に感じるのはほのかな体温と柔らかな感触。
口を開けさせて、舌を侵入させた。
途端に走るのは、甘い痛みだった。それは燐の八重歯に舌が傷つけられた証だった。
雪男は燐から魔障を受けて、悪魔が見えるようになった。
同じ悪魔からの魔障で、再び見えるようになるのかは賭けだった。
雪男は目を開ける。灰色だった世界に色が戻る。
そこには青い炎を体に宿して輝く兄の姿があった。
母の胎内でも自分は同じことを思ったのかもしれない。
青く輝く片割れに触れたくて手を伸ばしたから、僕は魔障を受けたのだ。
呆然とした、悲しそうな顔をする燐の表情は雪男の心を締め付ける。
そんな顔をしないで。そう思いながらも雪男の心を満たすのは喜びだった。
自覚した心にもう嘘はつけない。僕の目は、兄さんの姿をはっきりと視認できる。
お互いの唇には、血の跡がついている。その跡が見えることが今はとても愛おしい。
雪男はその血をそっと舐めとった。
「やっと会えたね、兄さん」
僕の初恋は、血の味がした。
魔障がなくなるなんてことは、前代未聞だ。
魔障は、一度受ければ一生消えないことで知られている。
そのせいで祓魔師にならざるをえない人生を背負わされたものは大勢居る。
魔障はそれだけ人の人生に関わるのだ。
魔障が消えることはない。それが今までの通例だったはずなのに。
雪男は生まれた時に燐によって魔障を受け、生まれた時から悪魔が見えていた。
それがこの瞬間に無くなるなんてことは、想像したこともなかった。
今、雪男の世界は見たこともない景色で埋め尽くされていた。
影もなく、陰鬱な化け物も存在しない世界。これが普通の人が見ている景色なのか。
雪男は感心したと同時に恐ろしくなった。
一般人は悪魔がいることを知らないが、雪男はすでに悪魔がいることを知っている。
どの物陰に潜んでいて、どんな物に取り憑いているかを、見ることができないのだ。
敵がいることに気づけないのは恐ろしいことだ。
そして何より、この視界に唯一の家族の兄の姿は映らなくなってしまった。
「雪男、これは見えるか?」
神父は目の前に透明な小瓶を置いた。たしかこれには魍魎のサンプルが入っていたはずだ。
でもその姿は雪男には視認することができない。透明な小瓶に見えるだけだった。
雪男は素直に首を横に振った。神父はそうか、とつぶやいた。
その声は疲れたような声色だった。僕は神父を失望させてしまっただろうか。
兄を守るために祓魔師になったのに、兄を狙う悪魔を見ることができないなんて。雪男は掌を握りしめる。
神父はしばらく考えて、背後に向かって話しかけた。
「いるんだろ、メフィスト」
「流石気づいていましたね藤本」
ぽん、というピンク色の煙と共にメフィストが出現する。
ここは修道院にある神父の部屋だ。そこに集ったのは神父と、雪男と、悪魔であるメフィストの三人。
雪男は驚いた。メフィストの姿は確かに見ることができたからだ。
「その様子だと、メフィストのことは見えるみたいだな」
メフィストが歩いてこちらに来る様子を雪男は視線で追うことができた。
見えなくていいものが見えるというのは、この世の中よくあることである。
なんで、兄さんが見えなくてこの人が見えるんだ。雪男の視線は不満に満ちていた。
「これはこれはおもしろい事態になっていますねぇ☆」
メフィストは雪男の姿をじろじろと見た。別に外見の何かが変わったわけではない。
雪男の見る世界が変わっただけだ。
「私の姿が見えるのは物質界の人間の体に憑依しているからでしょうね」
「じゃあ何で燐の姿は見えないんだ?」
「燐君の場合は特別です。悪魔として体を持ってこちらに存在しているなんて彼くらいですよ。
悪魔という存在が見えなくなっているなら、見えなくなったとしてもおかしくはないでしょう」
「そもそも、魔障が無くなるなんてことがあるのか」
「さぁ人知を越えた力が働いたならどうだか」
「おいふざけるなよ」
「原因は思い当たりませんか」
メフィストは雪男に問いかけた。雪男は夢を見た。夢の中で燐は消えていった。
その晩につぶやいた言葉があった。
でもそれが原因で魔障が無くなるなんてことはあり得ないだろう。雪男は首を振った。
メフィストはやれやれとつぶやいた。そして持っていたファンシーな傘の先を雪男に向ける。
「貴方には休職してもらいましょう☆」
雪男はぽかんとした。休職。なんの話。一瞬止まるが思い当たった。
祓魔師としての仕事や任務が無くなるということだ。雪男は信じられない提案に反論する。
「何故ですか!?」
「悪魔が見えないのなら、祓魔師をする意味もないでしょう」
「でも、僕には・・・」
「雪男」
神父が声をかける。荒ぶっていた心を静めるように諭すように呼びかけられた。
雪男は神父の目を見た。静かな瞳をしていた。
「祓魔師は休職しろ。お前は中学生だ。この時期に勉強やもっと他のことをやるといい」
「神父さんまでそんなこと言うの」
祓魔師としてこれまで頑張ってきたことが否定されたような気がした。
神父は雪男の気持ちを知ってか、そうじゃない。とつぶやいた。
「悪魔が見えないなら、普通の道を選ぶことだってできるだろう」
「兄さんはどうするのさ」
「まぁ俺が頑張れば済むことだろ」
「私もいますし、大丈夫でしょう」
大人二人は勝手に話を進めていった。雪男は疎外感を覚える。
少し前まではその話に自分も混ざっていたと思うと、無力感に苛まれた。
悪魔が見えない。大切な兄の姿も見えない。
ならば、自分にできることは何もないのだ。それを思い知らされた。
雪男は目の前にある小瓶の蓋を開けて、その中に指を突っ込んだ。
しばらくしていると、ちくりと指の先が何かに噛みつかれた感触が。
雪男の様子に気づいた神父は急いで小瓶を奪い取った
「馬鹿!何してんだ!」
「魍魎くらいならなんてことないよ」
「そうじゃなくて、せっかく悪魔が見えなくなったなら何も進んで怪我することは・・・」
雪男は神父の言葉を聞かず、周囲をきょろきょろと見回した。
悪魔の姿は見えなかった。雪男はため息をついた。どうしてだ。
新たに魔障を負ったはずなのに見えないなんて。
雪男は自分の目をこすった。それでも世界は変わらなかった。
「しばらく祓魔と関係ない世界で生きてみてください。
自ずと見えてくるものもあるでしょう」
「・・・はい」
雪男は諦めるしかなかった。でも、兄の姿だけが見えなくなったなんてどう説明すればいいんだろう。
それがとても辛かった。雪男の脳裏には夢で見た悲しそうな燐の顔しか浮かんでこない。
「説明は俺が上手くするよ。心配すんな」
「・・・うん」
返事はしたが、納得はできない。
これから兄が家出したら雪男は見つけることができない。
喧嘩して怪我をして帰ってきても、その怪我を手当することもできない。
もしかしたら、話すことだって今まで以上に減るかもしれない。
自分のことが見えない相手に、進んで関わろうとはしないだろう。
兄は学校でも、いつでも一人だった。
雪男はその隣に立てる唯一の存在であることに、不思議な満足感を得ていた。
これからはそうじゃない。
兄はひとりだ。
そんな兄を放っておけと言われて納得できるはずもない。
人は無いものねだりだ。自分には無いものを常に求めてしまう。
小さな頃、雪男は願った。悪魔の見えない世界が欲しいと。
でもその願いが叶った世界は、とてつもなく寂しいものになっていた。
今更、普通に生きろと言われても。雪男にはどうしたらいいのかまるでわからなかった。
***
「雪男いるか?」
兄の声が聞こえてきて、雪男は内心動揺していた。
なぜなら、扉の開いた向こうには誰もいなかったからだ。
声だけが兄がそこにいることを教えてくれる。
「ご飯できたの」
「うん、早く来いよ」
雪男は慎重に扉の方へ向かった。見えない燐にぶつかってはいけないと思ったからだ。
燐はそんな雪男の思いをあっさりと打ち破る。
「こっちだよ。お前体調が悪いのが目にきたってジジイから聞いたけど。大変だな。俺のこと見えないんだろ」
「う、うん・・・ごめんね」
「いいよ別に。体調悪いんなら、甘えとけ」
そのまま透明な腕に引っ張られてリビングに着いた。
ご飯を食べるとき、燐がいる場所だけ箸がふわふわと浮いているように見えているので、そこにいることを教えてくれる。
燐は神父からの説明を信じているので、今のところ何の問題もなく過ごせている。
この時ばかりは馬鹿、いや素直な燐の頭に安心した。
燐は相変わらず学校にはあまり顔を出さないし、二人はすれ違う日が多かった。
ただ、燐がいなくなっても雪男は探すことができなかったから、ますます二人の距離は空いていく一方だった。
祓魔師としての任務で家を空けることが少なくなった雪男には、それが苦痛にも感じられた。
***
ある夜、雪男は勉強をしていた。すると部屋の窓が開いて少しの物音が聞こえてくる。
一瞬悪魔かとも思ったけれど教会に足を踏み入れる悪魔などいない。
足音は静かに部屋の床を叩いた。
「兄さん?」
雪男は話しかけた。雪男が見えないということを知っている燐は、雪男が話しかけたり呼びかければすぐに答えてくれた。
今日はしばらく間が空いた。どうしたのだろうか。
「兄さん、調子でも悪いの」
「・・・平気だよ」
部屋の隅に腰掛けたようだ。雪男は勉強机から離れて音がした方向へ向かって歩く。
しゃがみこんだ。雪男の視界には壁しかなかった。声だけがそこに燐がいることを教えてくれる。
「夜遅くまでどこ行ってたの。神父さん達心配してたよ」
「探してた?」
「うん、外に行ってる。携帯に連絡するからね」
「そっか・・・」
燐は黙ってはしゃべってを繰り返した。
兄は今どんな顔をしているのだろう。雪男にはわからなかった。
「お前さ、高校受験するんだよな」
「うん。兄さんは就活どう」
「うまく、いかねーな。なんか・・・いろいろ」
「そっか」
「雪男はさ、俺みたいにはなるなよ。普通に生きろよ」
「何言ってんの。兄さんは普通だよ。高校行かずに働こうとしている人なんていくらだっているんだからね」
それっきり、燐は黙った。寝てしまったのだろうか。
雪男は手探りで燐の位置を探したが、わからなかった。
見えなければベッドに運ぶこともできない。仕方なく、神父の携帯に連絡を取った。
祓魔師になった時に連絡用にと買ってもらったものだ。
寝ている燐に見つかることはないだろうが、部屋の外で電話をかける。
燐が教会に戻っていることに安堵した神父は、帰ってきたら説教だ。と言って電話を切った。
雪男の代わりに探しに出てくれたのは長友だった。
近場だったらしく、すぐに戻る。と言って電話は切れた。
本当は燐を探すのは雪男の役目だったのに。
雪男は一抹の寂しさを抱えながらも、燐が無事に戻ったことに安心していた。
もしも悪魔に遭遇していたらと思うと、怖くて眠ることができない。
以前の雪男なら燐に忠告できたかもしれないが、今の雪男にそれはできないから。
程なくして、神父が帰ってきた声がした。雪男は神父を出迎えるため、玄関に向かった。
見えやすいように、廊下の明かりをつける。
「神父さん、おかえり」
「雪男ただいま―――ッ!?」
神父の顔が青ざめる。どうしたのだろうか。
まさか、教会の中に悪魔が入り込んだのだろうか。
神父は靴を履いたまま廊下を歩いて、雪男の肩を掴んだ。
「お前、怪我は!?」
「怪我?そんなのしてないけど、何を言ってるの?」
雪男は首を傾げる。神父は信じられないという風につぶやいた。
「じゃあどうしてお前はそんなに血塗れなんだ」
神父が指摘した通り、雪男は全身血塗れだった。
血なんて、どこについてるの。と頬を触っている姿がむしろ恐ろしい。
神父はその血と、雪男が見えていないという事実に嫌な予感が隠せない。
雪男もその考えに至ったようだ。二人は急いで部屋の扉を開けた。雪男が先ほどまでいた部屋だ。
入った瞬間に、神父は血相を抱えて部屋の隅に向かって叫んでいた。
そこは、兄が。燐がいた場所だ。
何が起きているのか。雪男は悟った。
兄は怪我をしていたのだ。それも大量に出血する程の。
雪男にはそれが見えていなかった。
知らないまま、話しかけていた。
兄が出血多量で気を失っているのを、寝ているのだと思いこんでいた。
見えなかった。
何も見えていなかったからだ。
燐は駆けつけた救急車で病院に搬送された。
夜通しで行われた手術でなんとか一命は取り留めたが、明け方になっても意識は戻らなかった。
病室には入ることができなかったが、ガラス越しに見ることだけは許された。
神父と雪男はそのガラス越しにベッドに横たわる燐を見ていた。
雪男の視界には、白いベッドしか見えなかった。
「燐・・・」
神父が痛々しそうにつぶやいた。雪男は設置されている医療機器の数字を見て、燐の状態を確認する。
決して楽観できる数値ではなかった。
雪男は隣にいる神父に話しかけた。
「ねぇ神父さん。兄さんはどんな顔をしているの」
「雪男・・・」
見えないとつぶやく雪男の姿はいっそ横たわる燐よりも痛々しかった。
雪男は見えなくなった原因が思い当たるかと言われた時に言えなかった事実を神父に話した。
「見えなくなる前日にね。夢を見たんだ。兄さんが消えちゃう夢。
僕はその日任務の事でイライラしてて、兄さんがいなければ祓魔師になってなかったんじゃないかって思った。
それで苛立ち紛れに夢の中の兄さんに。兄さんなんていなければよかったって言ったんだ。
そうしたらね。兄さん悲しそうな顔で消えていったんだ。僕の目の前から」
朝になると、燐の姿は雪男の視界から消えた。
雪男が最後に見た燐は、悲しそうな顔をしていた。
「ねぇ、兄さんの笑った顔ってどんな顔だったっけ。
今どんな顔をしているの。わからないんだ。神父さん」
写真も映像も何もかも、雪男に燐の姿を教えることはない。
僕が、いなくなればいいなんて願ったからだ。
雪男は自分を責めていた。
兄の姿を見ることができなかったから、こんなことになってしまった。
兄は目覚めるのだろうか。それももうわからない。
僕の中の兄さんは一生笑うことのない。
悲しい顔のまま止まっている。
「わからないんだ」
雪男は空っぽの病室を見つめながら、静かに泣き続けていた。