青祓のネタ庫
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「雪男」
僕を呼ぶ声が聞こえる。
何度か目を開けてみるが、目の前は青い炎で
いっぱいで、その声の主はどこにいるのかわからない。
声の位置からして、きっと炎の向こう側にいるのだろうと予測を立てる。
懐かしい声だ。たった一人の家族の声だ。
「・・・兄さん」
呼びかけるが、炎の燃える音がすごいから聞こえたかはわからない。
それでも、僕は何度も呼んだ。
兄さん、兄さん。行かないでくれ。
そっちに行ったら帰ってこられなくなるよ。
地面に倒れたまま、動けない僕はしゃべることでしか兄を引き留めることができない。
ここは決戦の場だ。魔神との最後の戦いの場。
僕の数メートル先には虚無界への扉が開いている。
魔神はどうしたのだろう。先ほどまで聞こえていた魔神の声は、今は聞こえない。
兄さんの声だけだ。
もう一度喋ろうとして、腹部に鋭い痛みが走る。
魔神によって腹を切られた。腹部の傷は決して軽いとは言えないものだ。
しかし、この炎に包まれていると不思議と息がしやすい。
痛みも徐々にだが軽くなってきている気がする。
「雪男、怪我はちゃんと治るからな」
大人しくしてろよ。と兄さんは言う。
今どうなっているの。兄さん、魔神は。
兄さんは大丈夫なの。
いいたいことが山ほどあったけど、そのどれも声にならない。
暖かい炎がまた腹部を包み込む。
はぁ、と息をはいて傷口を押さえた。血は止まっていた。
なぜだろう。ただ一つ、音が聞こえる。
足音。それは僕から遠ざかっていく音。
「じゃあ、行ってくる」
あ、そうだ。冷蔵庫の中に残り物で作ったおかずがあるからちゃんと食べろよ。
兄さんは、ちょっと散歩に行ってくる。
くらいの声色だった。そこに悲壮感はまるでない。
本当に、ちょっと行って帰ってくるつもりなのかな。
そうだといいな。
兄さん、散歩にでも行くの?
僕も行っちゃだめかな。
兄さん、帰ってくるの遅くなりそうだし。
心配なんだ。ダメかな。
答えの代わりに、遠くの方で、扉が閉まる音が聞こえた。
「待ってよ」
たぶん、兄には聞こえていなかっただろう。
その証拠に、もう兄の声は聞こえてこない。
目の前がぼやけてみえる。
たぶん、眼鏡が割れたからだ。
それから1年。
兄は帰ってはこなかった。
メフィストはパソコンをインターネットに繋げて、画面を何度がクリックした。
パスワード制らしく、メフィストはメールに来ていたパスワードを見ると、
そのまま打ち込んでいた。
エンターキーを押すと、画面が黒く切り替わる。
そのサイトのトップページには、オークション。と書かれていた。
シュラはサイトをまじまじと見ると、眉間に皺を寄せて考え込んだ。
「オークションサイトか?にしてはどうも厳重にしてあるな」
「ええ、トップページだけでも見えにくくはしてありますが魔法陣やルーン文字で
並の悪魔では見れないような代物になってますね。えげつない」
「画像や動画もありますけど・・・これどう見ても違法サイトですよね?」
メフィストはスクロールバーを下に下げる。
そこにはオークションサイトだけあって数々の品が乗っていた。
「ええ、こちらのサイトは闇のオークションサイト。いわゆるブラックマーケットですね。
扱っている品は主に悪魔に関するものです。呪いの椅子や持ち主を殺す刀。
魔導書なんかもありますね。怪しげなお守りから正十字騎士団に見つかれば
即座に逮捕されるレベルのものまでゴロゴロありますよ」
「いいんですかアクセスして」
「いいんですよ、私悪魔ですもん」
メフィストが慣れた手つきでキーボードを押すと、一際豪華なページが現れた。
どうやら、このオークションサイトの一押しの商品らしい。
「おもしろいのは、ここからですよ」
メフィストが動画をクリックすると、画像が荒いながら映像が始まった。
どうやら商品の紹介動画らしい。
司会者の男は仮面を被っており興奮しながらマイクに向かって話している。
「さぁ、このオークション始まって以来の商品が現れました!
海外の悪魔崇拝者が発見したこの商品は、とんでもないものです。
以前から、本物の悪魔や悪魔憑きの人間など様々な商品を扱ってまいりましたが、
なんといっても今回は見た目の美しさが他の追随を許しません。
その上、この商品は抵抗をしません。
今まで当社で悪魔を落とされた方の中には、逆に襲われて命を落とした方もいらっしゃることでしょう。
捕まろうが、死のうが。買った方の自己責任というのが当社のスタンスでございます。
しかし、しかし!この商品は抵抗をしません!
切ろうとしても、殺そうとしても、傷は治る上に、見た目は美しいまま!
まさに持ち主がどう使おうともお釣りが出るほどの人形です!どうぞご覧あれ!」
司会者が示した先には、人影があった。
青いライトで照らされており、椅子に座っているようだ。
黒髪に、青い着物を着ている。
肌は白く、陶磁器のように血が通っていない印象を受けた。
首飾りや身につけているアクセサリーを見るとかなり値の張る品のようだ。
そして、その表情がライトに照らされた。
雪男は、思わずパソコンの画面を掴んでしまった。
ぼんやりと開けている目に光はない。
しかし、青い瞳の奥にある赤い光彩は間違えようもない。
表情はぼんやりとしており意識がないことは明白だった。
雪男は燐の胸元を見て、困惑した声を出した。
「兄・・・さん・・・」
「奥村先生もそう思いますか」
「なんだよ、これ!どうなってやがるメフィスト!」
シュラが激高した。
当然だ。自分の弟子がいかがわしいオークションに商品として出品されているなんて。
しかも、燐本人に意識はまるでない。
人形のような状態だ。意識がないのであれば、自分で逃げだすことも抵抗することもできないだろう。
オークション側の人間はそれすらも価値であるように吹聴している。
抵抗できない人間を売り払う。
人身売買がブラックマーケットでは平然と行われているのだ。
「ここは以前から騎士団がマークしていた物件でしてね。
悪魔や、悪魔堕ちした人間、ハーフの悪魔までが売りに出されていたこともある
人身売買の温床のようなサイトです。
悪魔と名のつくものは、人間の目からしたら魅力的に映るのでしょう。
その容貌も人をくらますような美しい者が多いが、扱いずらい残虐さも持っている。
実際に一般人が悪魔を購入したことで死人も出ています。
それでも人は悪魔を欲してしまう。己の欲望を満たすために」
動画の盛り上がりは最高潮に達していた。
画面には映っていないが観客席があったのだろう。
売れ、だの俺はいくらでも出す。だの下劣な言葉が飛び交っている。
オークションの司会者は、一本のナイフを取り出した。
それを上に掲げて、戸惑いなく燐に振り降ろす。
「えッ!?」
雪男の動揺など盛り上がる会場にとっては些末なことだろう。
燐の頬から赤い鮮血が滴りおちる。燐はぴくりとも動かなかった。
司会者のされるがままだ。
司会者はそんな燐の顎を掴んで上を向かせると、持っていた布で頬の血をふき取った。
そこには、一筋の傷跡すら残っていない。
しかし、その頬に血以外の液体が流れ落ちた。
透明な滴だ。その先を辿ると、虚ろなまなざしがあった。
燐は、表情一つ変えずに泣いていた。
恐らく、感情を伴ってではなく、人体の反射による作用だろう。
それでも、静かに涙を流している。その姿は、
死人のようなのに感情を伴っているように錯覚させる。
司会者は、燐の顔をカメラに向けてつぶやいた。
「どのように扱おうとも、お客様の自由でございます」
夜は人型悪魔の姿へと変貌し、燐は青い炎を纏う。
夜の断ちと燐の炎で、ヘドロの腕はたちまち姿を消した。
「邪悪なるものの進入を禁ずる!!」
夜が叫ぶと、薄透明な膜が部屋を覆った。
本体は、扉の前で固まっている。
夜が張った結界が邪魔をして入れないのだろう。
結界は狭い場所に張るほど有利だ。
広い場所、例えば道路の真ん中で結界を張っても、
ヘドロに周囲を囲まれれば逃げ道はなくなってしまう。
その点、障害物が多くこのホテルの部屋のように仕切られた部屋ごと結界に閉じこめれば、易々と手は出せない。
燐は改めて、この場に逃げ込んだ夜の用意の良さに気づく。
悪魔は、結界に向けてなおも腕を伸ばした。
しかし、やはり腕は弾かれ、夜と燐に届きはしない。
悪魔は、しばらく考えるかのように動きを止めると、腕を一直線に伸ばしてきた。
「おわ!!」
心臓をひとつきにせんと伸ばされたそれを避け、燐はベッドに転がった。
腕が針のように伸びて、結界を鋭く貫いたのだ。
腕が戻ると、結界は空いた穴を塞ぐように修正される。一転突出型の攻撃。
「ッチ、やっぱ俺の結界じゃ強度が低い!!」
夜が刀を振るって、真空の刃をヘドロに飛ばす。
ばしゅ、という鈍い音を響かせて、ヘドロの腕が切れるが、またすぐに再生した。
その腕が、また二人に延びる。応戦して、何本かは切り落としたが、やはり全ては無理だった。
夜は剣の腹で軌道を逸らして攻撃をかわした。
その逸れたヘドロの腕が、ベッドサイドに当たる。
がしゃんという大きな音を立てて、小物を入れる引き出しが壊れてしまった。
黒い腕はなおも、燐と夜に向かってのびる。
腕には、壊れた引き出しの破片や、中身がぶら下がっていた。
特に鋭い木の破片はやっかいだ。
燐が注意深く腕の動きを見ていると、視界の端に変なものが見えた。
「ん?」
ピンク色の長細いものや、鞭、だろうか。
変な仮面に、足下に落ちてきたヌルヌルする液体。
腕は、それらをまとわりつかせて、夜と燐に攻撃を繰り広げている。
夜はそんな様子にめんどくさそうな顔を隠さない。
しかし、その変なものについては特に突っ込んでこなかった。
燐だけが、この状況のおかしさに気づいている。
一番近くに来た腕を、炎で燃やす。
すると、腕についていたいろいろなものが、床に落ちてきた。
燐はそれを見たことがある。養父藤本獅朗が隠し持っていた秘蔵の雑誌に。
これと似たようなものがあったのだ。
雑誌の裏の方や、広告で乗っていたので覚えていた。
「あ、ちょ、これ・・・えええええ!???」
目の前に転がるのは。いわゆる、大人のおもちゃである。
燐も目にするのは初めてだ。
知識としては、エロの探求者である男子高校生だから知っている。
しかし、知っているものが目の前にあったからといって。
どうすればいいかわかるかどうかは別問題だ。
なんで、こんなものがこの部屋に入ってるんだ?田舎のホテルには備え付け?
いや、ありえない。雑誌でもあった。
そうだ、備え付けでこんなものがあるホテルというのはいわゆるラブがつくホテル。
ホテルラブ。違う、ラブホテル。俺、今ラブホテルにいるのか。
頭の中に戦闘とはどうでもいいことがぐるぐると回って集中できない。
そんな油断を敵は見逃さなかった。
隙をついて、黒い腕が、燐の足に絡んだ。そのまま床に引き倒されてしまう。
かなり強い衝撃が全身を襲う。黒い腕に絡んでいた道具の一つが衝撃で割れた。
体に、ヌルヌルした液体がつく。気持ち悪い。
そのまま扉の外に引きずり出されそうになった。
扉の外には、大口を空けて燐を飲み込もうとする悪魔。
悪魔の体の先に広がるのは、巨大な虚空だ。
虚無界へと繋がる悪魔の穴。
それは春先に自分を飲み込もうとした、虚無界の門のようで。
恐怖で身がすくむ。
「くそッ!離せ!!!」
暴れる燐の前に、影が落ちる。他の黒い腕をかいくぐって
夜は燐の足を掴む腕に刃を向けた。一線が走る。
腕と共に、腕についていたなにかの形を象ったものも一刀両断されていた。
ぐお。と燐は自分のことではないのになぜか痛みを覚えた。
夜は燐を抱えると、部屋の全身鏡に向けて刃を繰り出す。
ばりんと鏡が割れて、壁ごと隣の部屋へと続く穴が空いた。
夜は知らなかっただろうが、これはマジックミラーだ。
元いた部屋からはただの鏡でしかないが、反対側から見れば部屋の様子がもろわかりという。
いわゆるのぞきアイテムである。
まさかこれが逃げ道になるとは作った当事者たちは露ほども思っていないだろう。
夜は燐を抱えてその穴をくぐると、ポケットから手榴弾を取り出し元いた部屋へと放り投げる。
直後に爆発。
悪魔の悲鳴と爆音が響く。夜は燐を部屋のベッドに放り投げると、壁に手をついた。
そこには、事前に描かれた魔法陣があった。
夜が手をおいた部分から順番に魔法陣が赤く光を帯びていく。
心なしか、夜の息が荒い。燐は夜に駆け寄った。
この陣はいったいなにをするためのものなのか。
知識のない燐にはわからないが、あまり夜にとっては好ましくないように思える。
「夜、これは」
「あいつを排除する為の特大のプレゼントだよ。
ただ、俺はどうあがいても下級悪魔でしかないからな。
自分の属性にないものを呼ぶのは骨が折れるんだ」
赤い炎がちりちりと魔法陣に灯る。
燐は炎の形を視認せずに感じた。隣の部屋の壁越しに、床に倒れた悪魔を囲むようにして現れた炎の檻。
檻を形作る炎は幾重にも重なって、悪魔の体を拘束していく。
悪魔は腕を出そうとするが、それを阻止するかのように炎は檻の形を変える。
燐はその光景を素直にすごいと思った。
夜は下級悪魔だ。自分の力の限界をいやというほど知っている。
だから、力技ではなく細かい技術を応用して敵を追いつめて絡めとる。
悪魔としての階級は燐が上だが、祓魔師としては夜の方が何倍も上であることを燐は実感した。
目の前には壁がある。
しかし、夜はその先を見ている。夜は燐につぶやいた。
「見えるだろ、燐。お前の出番だ!」
燐は夜の声に答えた。意識を集中させて、見えない敵を感じ、
感覚で視認することでターゲットに狙いを定める。
夜のおかげで動かない敵を捉えることはたやすかった。燐は一気に力を込める。
青い炎が、壁越しに悪魔の体を燃やし尽くしていく。
隣の部屋から、断末魔の声が聞こえてきた。
夜の檻と燐の炎で悪魔は燃やし尽くされる。
最後の欠片まで燃えたことを感じ取ると、炎の出力を弱めた。終わった。
燐が意識を戻すと、夜が壁を背に座り込んでいた。
「おい夜、大丈夫か!?」
「平気だ。疲れただけさ」
「なんでこんなまどろっこしいことやったんだ?
俺と夜が両方から悪魔を叩いた方が早かったんじゃ・・・」
「バカ。俺とお前は両方とも接近戦タイプだろう。
あの悪魔は近づいた奴を飲み込んで虚無界へ送るんだ。
俺はともかく、燐は絶対に接近戦は無理だ。
俺は手騎士じゃないし下級だから悪魔も呼べないけど、
あれくらいの中距離攻撃ならできるからな。もっと頭を使えよ、燐」
なにも近づいて倒すことだけが戦術ではない。
今のような接近戦ができない相手に対しても、称号に関係なく祓魔師は戦わなければならない。
いかに効率よく戦局を運べるかは、味方の負担を減らすことにもつながる。
手のひらには、炎の召還で使っただろう夜の血がべっとりとこびりついていた。
燐はまだ、夜が先ほど行ったような炎の使い方はできない。
もしも、炎をうまく使えば、もっとうまくやれたのではないだろうか。
燐は改めて、自分の戦い方について考えさせられた。
「・・・わかった、次はもうちょっと考えて戦ってみる」
「そうだ、いくら悪魔の回復力があるからって甘えるな。俺たちだって、死ぬ時は死ぬんだ」
悪魔は人間にとっては万能に見える存在かもしれないが、そんなことはない。
だから悪魔として生きていくなら覚えなくてはならないことがたくさんある。
燐は、それを今日夜から学んだ。
「なぁ夜」
「なんだ」
「お前は、死なないよな?」
「さぁどうだかな。でも、お前の前では死なないよ」
「そうか」
「そうだよ」
「死ぬなよ」
「努力するよ」
「俺も、努力する」
「そうしろ、燐」
立ち上がって時計を見れば、もう朝が近かった。
今からでも鍵を使えば学園に帰れるだろうが、燐の足下はおぼつかなかった。
緊張の糸が切れたせいで、眠いのだろう。
夜は燐から鍵を受け取って、燐の代わりに鍵穴に差そうとした。
が、できなかった。見れば、鍵の形がぐにゃりと変わっている。
夜は焦った。鍵が壊れている。
「おい燐、この鍵どうしたんだよ!」
「・・・え?って曲がってる!!・・・あ、そうかさっき悪魔に思い切り倒されたからだ、
床にぶつかって変な音してたし!!」
「・・・差せねぇぞ、これは迎えが来るまでここにいるしかないな」
「え、ここいんの?」
「言っておくが、ここから半径二十キロ以内に民家はおろか、店もないからな。
歩いても、駅まで一日でつけるかどうか・・・」
「バイクは?」
「バカ言え、今は朝が近いとはいえ夜中だぞ。事故ったらどうする。
ただでさえここらへんは悪魔が多いんだ。山道から飛び出してきたら一瞬でドカンだ」
夜と燐は、学園に帰ることを諦めて、数個離れた部屋に移った。
部屋としての外観は保たれているし、一晩くらいだったら泊まってもいいだろう。
夜は部屋に結界を張ると、コートを脱いだ。
燐は別の部屋に行こうとしたが、夜に止められる。
「おい、燐もここに泊まれ」
「なんで?部屋いっぱいあるじゃん」
「悪魔が多いってさっき言っただろ。目が覚めて、お前が浚われてたりなんかしたら、
俺の責任になるんだよ」
燐は、寝場所を確認した。ベッドがひとつだけ。ソファもない。
極めつけは、ベッドの近くの小物入れというか。
悪魔が壊したことで、中からありとあらゆる夜の七つ道具が出てきてしまった。
先ほどの部屋と、間取りが同じなのだ。きっと部屋の中にあるものも同じだろう。
あんなものの近くで寝ろというのか。
燐は花も恥じらうエロの探求者。男子高校生である。
興味があっても、知り合いの前で堂々とあの道具を観察する自信がない。
お目にかかりたいような、かかりたくないような。
そんな複雑な思春期男子心が働いている。
燐は夜に一言、問いかけた。
「夜、ここがどういう場所か知ってるか」
「ホテルだろ、それがどうした」
「・・・そうだな、うん。」
夜は純粋な悪魔だ。燐のように人間と混じった俗物的な思考はしていないようだ。
というか、ただ単純に知らないだけかもしれないが。
夜は、そわそわと落ち着きなく動く燐にさらりと告げた。
「俺と寝ればいいだろ、燐」
「・・・・・・」
その言葉を言われて、燐は返答できなかった。
***
雪男が燐がいるホテルの前に駆けつけたのは、朝になってのことだった。
勝呂は着いて行きたがったが、将来有望な優等生をあんな場所に連れていくわけにもいかない。
これから先、訓練で勝呂と燐が一緒になることだってあるだろう。
祓魔師に必要なチームワークを、こんなことで乱すわけにもいかない。
なにより、なにか事があったときに、燐が塾に居にくい状況を作るのだけは
避けなければならなかった。
雪男は、シュラの運転する車でホテルの近くまで乗り付けた。
さすがに、十五歳が車を運転するわけにもいかないので、この点ではシュラに感謝すべきだろう。
シュラは、車から降りて、ホテルを見上げて言った。
「アイツ・・・いい勉強になっただろうな」
べんきょう部屋の文字を見て想像することは一つだろう。
しみじみとつぶやくな。雪男はシュラに怒鳴りそうになった。
まだ燐がどうこうなった訳ではない。
それよりも、ここら辺はまだ悪魔の出現が高いスポットだということが気になった。
悪魔と一戦やらかして怪我をしていたら大変だ。
雪男はホテルの中に入っていった。
上の方から、かすかに何かが燃えたにおいがする。
雪男とシュラは警戒しながら上に上がっていった。
無人のホテルだとカウンターで確かめたので、遠慮はいらない。
壊れた部屋を確認し、悪魔との戦闘の痕跡を発見。
二人は燐がどこかの部屋にいるとアタリをつけて、部屋を空けていった。
「いましたか?」
「いや、こっちはだめだ。本当に悪魔と一戦やってるとはね・・・さて、どうするか」
二人が話し合っていると、かすかだが、物音が聞こえてきた。
二人は、物音を頼りに一つの部屋にたどり着く。
先陣を切ったのは、雪男だった。ドアを蹴やぶって銃を室内に向ける。そこには。
「あれ・・・雪男?」
寝ぼけて起きあがる燐の姿があった。燐の無事を確認して、雪男は銃を降ろした。
その音で、燐の隣にあった布団の膨らみから、誰かが顔を出す。
「あー、おはようございま・・・す」
夜は、全裸だった。
裸の男と、隣の寝乱れた兄の姿を見て、雪男は硬直した。
昨日の夜、二人は一緒のベッドで寝ることになったのだが、男が二人でベッドに入ると。
かなりきつい。寝返りも打ちにくい。そこで夜は考えた。元の姿。
つまり猫型の悪魔の姿に戻って寝ればいいのだと。
二人は、猫と人間が寝るような体勢で一緒に寝ていた。
だが、ひとつ誤算があった。小型の悪魔の姿に戻るということは、服を着ていないということだ。
ご丁寧に、寝相の悪い燐のせいで、夜の服はベッドの下に散乱していた。
ベッドから起きあがる、全裸の男とその隣の男子。
極めつけは、燐の首にあるかすかな傷跡。血を飲むために夜が噛んだ痕だ。
うっすらとした赤い痕は、まるで何かの後のようないらない雰囲気を出してしまっている。
めざといシュラはそれを見逃しはしない。
「よーう、燐。勉強できたか?」
シュラは、一言つぶやくと携帯電話で写真を撮った。
ぴろりーんという間抜けな音が、やけに寒く部屋に響く。
燐は考えた。昨日の夜の戦い方は自分のことを見つめ直すいい機会になった。
夜には世話になったし、まだ帰ってから剣の稽古もつけてもらいたい。
約束をしたのだから、夜は守ってくれるだろう。
燐は寝ぼけながら答えた。
「昨日の夜はいいべんきょうになったぜ」
燐のこれからを考えると、まさに、いいべんきょう部屋となったのだ。
このホテルでの出来事は。しかし、雪男とシュラがそんなことを知るはずもない。
「何を勉強したんだ!ナニを!!!」
燐の言葉に雪男が激怒したのは言うまでもない。
燐が暗い道を歩いていると、行く先を照らしてくれていた月が雲に隠れてしまった。
山の中。街灯もない。悪魔の目があるので闇夜でも問題なく歩けるが、こう暗闇に囲まれていては気が滅入ってしまう。
しかも、夜の山には下級悪魔が彷徨いているらしく、時折声が聞こえてくるのもうるさい。
誰だ。人間だ。若いぞ。でも男だ。
食べる。食べちゃだめだよ。でもおいしそうだな。
食べるって何だ。食われてたまるか。
どうせ誰もいないし、いいだろう。
燐は一呼吸おいて、青い炎を纏った。
すると、山から聞こえてきたひそひそ声が、一斉に静まる。
神の炎と呼べるそれを纏った燐に近寄れるものはそうはいない。
燐は夜道も照らせるし、一石二鳥かな。と思ってそのまま歩きだした。
夜の山奥に、鬼火のような青い光がぽつりと灯る。
燐の背後に延びた影に最初に顔を出したのは、野生のグリーンマンだった。
グリーンマンは嬉しそうに小さな足で燐の後をついていく。襲う様子はない。
ただ後ろをついていきたいだけのようだ。
その様子を見たコールタールが、自分も、と燐の後ろに続く。
ゴブリンが混ざるのに、そう時間はかからなかった。
山から下りた悪魔が、青い炎を目印に行進する光景。
百鬼夜行のような状況になっても、燐は前を向いて歩いていたので全く気がつかなかった。
燐が纏う炎は、畏怖と恐怖と、そして羨望の眼差しで讃えられる。
虚無界の暗闇を照らす、悪魔の本能に囁く青い炎。
誰もいない山奥だからこそ、その香りにつられる悪魔は五万といる。
突然燐の背後で、下級悪魔が一目散に散っていった。
代わりに残ったのは、ドス黒い塊。その黒い手が燐に向かってゆっくりと延びていく。
「ミ・・・ツケタ・・・」
「え?」
突然聞こえた声に振り向くと、そこには自分を飲み込もうと大口を開けている黒い塊が。
燐はとっさに倶利伽羅を抜いて炎の出力を上げた。
強い光源に照らされて、背後の悪魔が呻く。燐はその隙を狙って、倶利伽羅で悪魔を祓った。
青い炎に照らされて、悪魔は燃え尽きていく。
図体の割に、あっさり倒せたなと燐は若干不審に思う。
大きさのある相手は大抵中級から上級に属している。
いくら炎がすべての悪魔に有効だといっても、抵抗もなしに消えるのは珍しい。
燐は思いながらも深くは考えなかった。悪魔はもう死んでいたからだ。
道路の反対車線に悪魔の体が残ってしまったが、じきに燃え尽きて消滅するだろう。
車が通らないことはわかっているが念のため車が来てないか燐は確認する。
すると、何百メートル先だろうか。車のライトが見えた。
よかった。燐はなんとしてでもこの車に乗りたかった。
でも、今ここにこられてはまずい。
事故にでもなれば燐の責任問題だ。燐は車の方向に手を振りながらかけよった。
車の運転手は気づいたようだ。燐はさらに声をかける。
「おーい!!」
「ぎゃああああああああああああ!!!」
運転手は絶叫して、燐と燃える悪魔の横を猛スピードで突っ切って行った。
燐が話す暇もない。背後には走り去る車のもの悲しい音だけ。
なんであんな幽霊を見たかのような叫びをあげて去っていったのだろう。
燐は自分の手を見た。
青く光っている。
「・・・そうか、俺燃えてんじゃん!」
一般人から見たら全身火だるまの人間が手を振って歩いてきている光景。
そりゃ、全力で逃げるに決まってる。
この国道の怪談話にでもなりそうな出来事だ。
燐は落胆した。歩いてはや数時間。せっかく来た初めての車を見逃してしまった。
もうこれは朝まで来なくても不思議ではない。燐はとぼとぼと歩き出す。
背後の悪魔はもう燃え尽きているから大丈夫だろう。
今度は、青い炎を纏わずに歩いているので、星の明かりがぼんやりと夜道を照らすだけだ。
音もない。と思っていると。
バキ。山から音が聞こえた。
燐が視線を向けると、何かが山の斜面をすごい勢いで降りてくる。
ほぼ落下と同じスピードだ。
燐はその光景を悪魔の視力で見ることができた。
黒いバイクが、月の光を背にして燐の元へと落ちてきた。
「うわああああ!!!」
燐はそれを急いでよける。直後、山の木々の破片とともに、バイクは道路に着地した。
運転手はフルフェイスのヘルメットを被っているので顔はわからない。
しかし全身黒ずくめの男、であろうことはわかった。
体型が女性とは全く違ったからだ。
バイクを呆然と見つめていると、燐が話しかける前に男がバイクの後ろを指さした。
乗れ、ということだろうか。
ここで雪男がいたなら知らない人の車に乗ってはいけないうんぬん。
といっただろうが生憎雪男は不在だ。
燐はこのまま朝まで歩き続ける方と、バイクに乗って、危なければ飛び降りる方の二つを天秤にかけた。
自分は悪魔で頑丈だ。ちょっとやそっとのことでは大丈夫だろう。
燐はバイクに近づいた。男は燐の行動にじれたのか、腕をとって素早く背後に乗せた。
そして燐を乗せた瞬間、バイクを急発進させたのだ。
「う、わ!」
燐はあわてて振り落とされないように男の体に腕を回す。
バイクは猛スピードで国道を走っていく。
燐は知らない誰かに乗せてもらいながら、
明日の朝までには町につけなかっただろうな。とバイクが走った距離を感じて思った。男は一言も声を発しない。
けれど止まったら一言礼を言わないといけないだろう。
行く先がわからないバイクに乗りながら、燐はのんきにそう思っていた。
***
程なくして、バイクはある一件の建物に入った。
看板はよく見えなかったが、どうやら外観からホテルらしい。
そうか、この人はここに泊まる予定だったんだな。
ホテルならフロントに頼めば学園に電話くらいしてくれるかもしれない。
燐は帰る希望が見えたことが素直にうれしかった。
「ありがとうございます」
燐は律儀に男にお礼を言った。男は燐の言葉に一瞬行動を止めながらも、
燐の手をつかんでぐいぐいホテルの中へと引っ張っていった。
燐がフロントに声をかけようとするが、フロントの人がいない。
もう夜だから人がいないのだろうか。おかしいな。
男が、フロントにおざなりにお金を置いた。一晩はいれるくらいの金額だ。
お金を置くと、男は燐を再度引っ張った。お金が回収される様子はない。
大丈夫なのだろうかと不安になる。
無人であるとは露ほども思わず、燐は引っ張られるままに部屋の前まで連れて行かれた。
部屋番号は燐と雪男の住んでいる学園の寮と同じ番号だった。
鍵を使って、男は部屋の扉を開ける。
男は燐の腕を放さない。さすがの燐もこれにはあわてる。
「ま、待ってください!」
燐は声をあげた。ふつう、これだけ大声をあげれば誰かが来るだろうに。
誰も来ない。部屋のある階はしんとしている。
もしかしたら、自分たちしかこのホテルにはいないのかもしれない。
どうしよう。どうしよう。
なにがなんだかわからずにいる燐を男はぽいっと簡単に部屋の中に放り投げた。
がちゃんと鍵の閉められた音がして、燐は顔面蒼白になる。
いくらなんでもこれはおかしい。どうしよう。
でも、炎だして逃げてもいいのか?一般人相手に?
そりゃだめだろう。魔障を負わせたら責任が持てない。
頭が混乱すると、意外とやってもいいのだろうかと思って
行動を躊躇してしまうのが人間と言うものだ。
燐が戸惑っていると、男は燐の肩を押した。
背後には、ベッドが一つ。
二つではない。一つだ。
燐の体が、ベッドに押し倒される。のし掛かるのは男。
腕が筋張っていて、筋肉がある。男だ。女ではない。
男はヘルメットに手をかけて、勢いよく脱いだ。
燐が顔を確認するよりも早く、ヘルメットが燐の頭めがけて降ってくる。
どうやら脱いだ拍子に手が滑ったようだ。
「う、うそだろッ―――!!」
頭を庇おうとするも、遅かった。ごつん、という鈍い音を響かせて、燐の意識が揺れた。
いきなり部屋に連れ込まれて、ヘルメットが降ってきて、散々すぎる。
男は意識の揺れた燐を確認しつつ、燐の上着に手をかけた。
乱暴にネクタイとシャツをはだけさせられる。
顔は確認できない。しかし、男の息が首もとにかかり燐はぞくりとした感覚を覚えた。
知らない相手に、自分の体を暴かれようとしている。それは恐怖といってもいい。
燐の手を取って、男は指を絡めてきた。
燐の手を指がなぞっている。なんだよこいつ。
しかし、指は何かの意志を持って手のひらをたどっている。
燐は体が動かせない分、手のひらに意識が集中した。
そして、指が文字をなぞっていることに気づいた。
(わる・・・い・・・?)
頭で理解する前に、首筋に鋭利ななにかが突きつけられた。
冷たい何かが、燐の体に進入する。
首もとから、血が流れ出す。噛まれていた。
「い、ってぇええええ!!!!!!」
燐は暴れるが、抱きしめられて抵抗を封じられる。
男はごくりごくりと燐の血を飲んでいる。
男が口を、のどを動かすたびに、燐の首筋に男の髪の毛と唇が当たる。
男が、燐の背に腕を回してきた。背中を大きな大人の手が這い回る。
何かを探っているような、意図がある触り方だ。痛い、くすぐったい。気持ち悪い。
全部が一緒になって襲ってきている。
これには燐もキレた。
一般人だろうが容赦する必要はもうない。
これは正当防衛だろう。燐は全身に力を込めて、青い炎を宿らせた。
男がそれに気づいて、ぱっと素早く燐から離れる。
まるで、燐が炎を出すことを知っていたかのような動きだ。
燐は首もとを押さえながら、ベッドから起きあがる。
男と視線が合った。燐は唖然とする。
「よ・・・夜・・・!?」
依然雪山で出会った悪魔でありながら上一級祓魔師の資格を持つ男だ。
遭難しかけた燐を助けてくれた恩人。
どうしてこんなところで。黒いコートを身にまとった夜は、のどの方を押さえていた。
息は荒い。
相手が知り合いだとわかってから燐の行動は早かった。
急いで夜にかけよって、背中を撫でる。
「馬鹿、俺の血なんか飲むからだろ!!」
「・・・いや・・・だい・・・じょうぶだ」
夜はそこで初めて声を出した。
思えば最初から夜の声を聞けば、こんなに混乱することはなかったのだ。
燐が抗議しようとするが、夜の手が離れた首筋を見てぎょっとする。
そこには首を刈り取ろうとしたかのような、まっすぐな傷跡が残っていた。
夜は悪魔だ。ちょっとやそっとのことでは死なない。
傷跡から察するに、敵に首を切られるのと同時に、声帯もやられてしまっていた。
夜は声を出さなかったのではなく、出すことができなかったのだ。
重傷とも言っていい傷は、うっすらとした赤い線を残して徐々に消えていく。
「なぁ夜、どういうことなんだ?なんでお前がここに」
「話せば長くなる・・・準備をしながら話そう。奴が来る。・・・ひどいことして悪かったな」
夜は急いで言うと、燐の頭を撫でた。
燐は、魔神の血を引く落胤である。その血に宿る力は、炎だけではない。
燐は夜のただならぬ様子で緊急事態であることは理解できた。
申し訳なさそうな顔をするので、燐もそれ以上なにも言うことができない。
噛まれた首の傷も、血は止まっている。
うっすらとだが痕が残っているが、時間がたてば消えるだろう。
下の階で、ごつん。という音がした。部屋の電気が一瞬明滅するがすぐにつく。
肌を、ぴりぴりした感覚が襲う。
まるで、何かが迫っているような雰囲気だ。夜が言っていたのはこれのことか。
燐はベッドの脇に放り出されていた倶利伽羅を持った。
音はゆっくりと、確実に上に上がってきている。
夜は治った傷を確認するかのように、何度か咳払いをした。
声はもう大丈夫なようだ。
「今来ている奴、ヘドロみたいな黒い塊の悪魔なんだ。
産業廃棄物とか、山に不法投棄されたゴミや黒い念が集積してできた悪魔なんだけど、やっかいな能力を持っている」
夜は聖水を部屋の周囲に振りかけた。
悪魔の体にとって、聖水は毒だ。
自分と燐にかからないように満遍なく振ると、瓶を捨てる。
十字を切って結界を張るが、悪魔が張った聖なる結界がどこまで持つかはわからない。
詠唱や結界など、悪魔である身としてはどうしてもこの辺りが不得手になってしまう。
夜は燐に目配せした。電気がまた一瞬消えて、つく。
廊下の方から、ずるりずるりという音が聞こえてくる。
「俺、黒い塊みたいなのだったら、道路で祓ったぞ。もしかしてそのことか?」
炎で燃やしたが簡単にカタが付く悪魔だった。
普通、もう少し抵抗があってもいいものなのに、あの悪魔は跡形も残さずに消えていった。
「それは多分、あいつの欠片だ。本体じゃない。飲み込まれなくてよかったな。
飲まれた瞬間、お前は虚無界行きだったぞ」
「え」
「あいつのやっかいな能力ってのはな、個体は一瞬で倒せるんだけど、分裂する力がある。
しかも、その分かれた個体全てが、虚無界へ通じる穴なんだ。
飲み込まれて消えた奴も何人か居る。俺はそれを討伐しにきたんだ。
あんなところで燐に会ってびっくりしたぞ。
あいつの本体と一戦ヤった後だったから、声はでないし、お前を連れて逃げないとだし」
声が出ないから、ジェスチャーでの会話しかできなかったが、
燐はほいほいと後ろに乗ってくれて助かったと夜は言う。
しかし、次からは身知らぬ人の運転するものに乗ってはいけないということを
燐は知るべきである。と注意も忘れない。今回のことはいい教訓になっただろう。
「いきなり血吸われて、かなりびびったけどな俺」
「それは悪かった、あいつとやらかす前に。体を回復させておきたかったんだ」
燐の血は、悪魔の力を活性化させる力がある。
燐はあらゆるものがあらゆる目的で狙う魔神の落胤だ。
その血は極上と言ってもいい。召還の時に使えば、上位の悪魔が引き寄せられるような代物でもある。
それを下級悪魔である夜が飲めばどうなるか。
傷は癒え、ドーピングをしたかのような作用が現れる。
心なしか、夜の声のトーンもいつもより高い気がする。
「俺は栄養ドリンクか・・・」
「そう言うなって」
夜は自分の懐を漁ると、一本の鍵を燐に投げてよこした。
燐はそれを片手で受け取る。
「学園に繋がる鍵だ。やばくなったら俺を置いて逃げろ。なんなら今すぐでもいい」
「なんだよそれ!!」
燐は理不尽だ。と感じた。ここまで巻き込んでおきながら。
夜をおいて帰れるわけがない。
燐はそこまで薄情ではない。と夜に怒った。夜は苦笑する。
「やっぱダメか。すまない協力してくれ」
「わかりゃーいいんだよ、その代わり帰ったら俺の剣の稽古の相手しろよ」
夜は剣を構えながら言う。燐を背後に置き、扉の前に立つ様は正に騎士だ。
漆黒の騎士はからかいまじりに言う。
「仰せのままに、若君様」
「若君言うな!」
扉が突き破られた。ヘドロのような腕が、二人に伸びる。
剣を抜いたのは同時だった。
勝呂は燃えていく赤い視界の中、燐の耳元に唇を寄せた。
それは、悪魔の記憶を覗き見ていた時に知った、悪魔の致死説ともいえる言葉だった。
燐はその言葉にはっとした表情を取った。
まだ、勝呂には意識がある。燐は燃える勝呂をものともせずに、抱きしめた。
勝呂の呼吸は荒い。中にいる悪魔が、カルラの炎でのたうちまわっていることがわかる。
しかし、まだ勝呂の体から離れようとしない。しつこい悪魔だ。燐は怒鳴った。
「勝呂から出ていけ!!クソ野郎!!」
悪魔は燐の放つ圧力と、カルラの炎に耐えられなかったのだろう。
半分だけ、悪魔はその実体を表した。
黒い、ドス黒い塊だ。人間の魂はここまで黒くなれるのかというくらいの漆黒の塊だった。
下級や、中級レベルではない。この悪魔は、堕ちるところまで堕ちた魂のなれの果てだ。
上級にも匹敵する黒い力を持っている。
叶わなかった恋。憎いと想う心。異常な性愛と執着。
それは、なおも勝呂の体から離れようとしない。
勝呂は、燐に向かって叫んだ。
「やれ!!奥村!!!俺に構うな!」
燐は一瞬躊躇するが、勝呂の言葉を信じ、手のひらを降り上げた。
同時に、勝呂の頬に衝撃が走る。痛い。しかし、我慢だ。
勝呂はかすれる視線で燐を見つめた。
絶対零度の青い瞳が、自分を見下ろしている。
青い瞳の中に宿る赤色の光彩がまるで燃えているかのような印象を受けた。
その振り切った右手の平の跡は、くっきりと自分の頬についているはずだ。
勝呂が感じた痛みは悪魔も感じているらしく、低くうなる声が背後から聞こえてきている。
燐は絶対零度の瞳で、背後の悪魔に向かって言った。
勝呂が伝えた、悪魔の致死説だ。
「この、浮気者」
悪魔は―――男は、生前燐に似た男子高校生に振られたことが心残りだった。
恋心はいつしかストーカーまでレベルアップし、相手に対しての執着はもはや呪いとも呼べるほどだった。
メッフィーランドで高校生にすがりついても、ほんの少しの接触も許されないほど男は嫌われていた。
だから、男は男子高校生への思いを振り切るためにあるお願いをしていたのだ。
この、浮気者。と言ってくれと。
そうすれば、男の頭の中で男と男子高校生は一度つき合っていたことになる。
妄想上の設定をなんとか壊したくなかった男は、
自分の浮気によって振られてしまったのだという新たな設定を生み出した。
そうして、振られたことで一度男子高校生との妄想に区切りをつけ、
次のターゲットを見つけようと思ったのだ。
だが、その言葉を得ることもなく男は死んでしまった。
男の妄想に区切りをつけるための言葉が、男にとっての致死説だったのだ。
勝呂の体から、黒い影が剥がれ落ちて消えていく。
カルラの炎を纏ったまま、勝呂は倒れ込んだ。
燐はそんな炎に包まれた勝呂を倒れる前に抱き止めた。
炎は少し熱かったが燐を焼いたりはしない。それよりも、勝呂のことが心配だ。
悪魔に憑依されたあげくに、カルラを使い、燐にビンタされた。疲労していないはずがない。
燐は不安げな声で勝呂に話しかけた。
勝呂の頭の中では、男の過去が浮かんでは消えていた。
もう少し落ち着けば、完全に消えるだろう。
男の視線から見た男子高校生は、確かに燐に似ていた。
勝ち気な瞳で、怯えたような表情で。それでも立ち向かっていくようなそんな姿を見ていた。
目を覚まさなければ。記憶の中の高校生ではない。
目の前にいる奥村燐を、見つけたかった。
「勝呂、大丈夫か?なぁ勝呂・・・」
声が聞こえる。自分を心配する声だ。
お前こそ大丈夫だったのか、悪魔に。
俺の姿を借りた悪魔に襲われて。怖かったんじゃないか。
勝呂は、答えるように燐の背中を抱きしめた。
「俺には、お前だけや」
呟いた言葉は、燐に届いていただろうか。
カルラの炎が消え、二人の間に沈黙が訪れる。
勝呂は目を瞑っていたが、しばらく燐が支えてくれていたおかげで体力は徐々に戻ってきたようだ。
だが妙な寒さを感じて、勝呂は目を開けた。
目の前には、鏡があった。ミラーハウスなのだから当たり前だ。しかし、問題はそこではない。
『お前達、いつまで裸のまま抱き合っているのだ?』
ぽこんと現れたカルラが、冷めた瞳で二人を見つめていた。
勝呂は呆然としていた。
視線を逸らしたくても、ここは全包囲死角なしの鏡張りだ。
裸のまま抱き合う二人が四方八方に映っている。
「う、うがあああああ!!!」
勝呂は燐の顔を手で覆い隠した。燐も状況に気づいたのか、顔を真っ赤にして震えている。
まずい、どうしてこうなった。勝呂が焦っていると、燐が慌てながら答えた。
「あ、あれだろ勝呂。お前も俺と同じで炎の扱いに慣れてなくて、
服まで燃やしちまったんだよな!ははは!」
二人は距離を保ちつつ、そのまま後ろを向いた。
正面から見るのは無理だ。余りにも動揺しすぎている。
しかも取り憑かれていたとはいえ、勝呂は燐に対して途中まで。
かなり際どいことまでやってしまっている。
視界の端に映る背中や、しっぽの生えた尾てい骨まで。その姿は勝呂の危うい理性を刺激した。
勝呂は、別にアブノーマルな趣味を持っていたわけではない。
悪魔が取り憑いたことで悪魔の視界で燐を見たことで。
きっと動揺しているのだ。と勝呂は自身を納得させようとした。
勝呂はストイックかつストイックにできているのだ。
『やれやれ、人間というのは実にまだるっこしい生き物だ。
自分の心を偽っているからこそ、悪魔に付け入る隙を作るのだぞ竜士』
カルラが勝呂の頭にのっかってつぶやいた。
燐にぶたれてじんじんと痛む頬に触れ、勝呂は思った。
どうしてこんなことになってしまったのだろうかと。
勝呂竜士はストイックかつストイックに生きてきた。
自分を律するからこそ悪魔に立ち向かえるのだとそう信じてきた。
だが、今回の結果はどうだ。
確かに自分は、奥村燐を手に入れたいと思ってしまった。
悪魔なんかに渡したくはないと。
勝呂は自分の身の内にあった自らも知らない感情を自覚した。
人は、聖人君子ではいられない。汚い心も醜い感情も人間を作る上で必要なものだ。
勝呂はそれを自覚し、受け入れたからこそ最後まで自分を律することができたのだ。
燐をこんな方法で手に入れたくはないと。強く思った。
その思いが、悪魔への抵抗力となった。
自らを縛るだけでは、人は成長しない。
勝呂は身を持って実感した。
自らを律しない悪魔に出会ったことで、勝呂は燐への想いを自覚することができた。
そこまではいい。
だが、現実問題二人は裸で全包囲鏡張りの状態だ。ラブホテルもびっくりの状況である。
ここの難問を突破しなければ今日の任務は完遂できないだろう。
勝呂が服まで燃やしてしまったのは、燐もコントロールするのに相当手間取ったあれだ。
勝呂はまだカルラと契約して間もないため、達磨のように自在にカルラを操るまではいっていない。
今回も、無我夢中で燃やしたようなものだ。従って服は燃えてしまった。もう戻ることもない。
まずは、外部に連絡を取らなければならない。
勝呂はちらりと背後を向いた。
勝呂と燐の間に、燐の携帯電話が落ちていた。
悪魔が燐に命じて床に置くように言ったものが、難を免れていたらしい。勝呂は燐に話しかけた。
「奥村、それで電話してくれへんか。誰かに服持って来てもらわなアカン」
「それもそうだな、じゃあ雪男に・・・」
「アカン!!待て!それはアカン!!!」
「え、なんで」
「なんでかわからんけどアカンねん!」
勝呂の第六感が雪男を呼んではいけないと告げている。
いくら勝呂が優等生で通っているとはいえ、この状況を作り出したのは紛れもなく勝呂だ。
燐に近づく不埒な輩。志摩と同じような扱いを受けるのだけはごめんだった。
燐は炎で燃やしてもパンツを残していたが、勝呂はパンツすら残らない全裸な分余計に性質が悪いと思われそうだ。
「ここは子猫丸辺りに頼むしかないやろ」
「でも、あいつの服借りれないだろ。小さいし」
「それ本人の前で言いなや・・・宝、も無理や論外や。残るは志摩か」
「サイズ的には借りれるぞ」
「ただ・・・暴走する気配がするわ」
うっわ、うっわ。なんですの坊と奥村君。
人のこと散々エロ魔神やなんや言うてたくせに、今一番。
いや、今年一番の破廉恥な格好してはるんは二人でっせ。
うぷぷ。どないしたりましょうか。
こっちの鏡に映ってはる二人写メして実家の方に送っておきましょうか。
みんな坊が童貞捨てた言うて、正十字乗り込んできますよ。
お赤飯が黒い猫の便でやってきますよ!うひょひょ~
究極の選択ではあるが、行動を起こす前に死ぬ気で止めれば被害は少なさそうだ。
「・・・背に腹は変えられんわ。志摩呼ぶか」
「俺もなんとなく想像ついた」
二人は少しだけ笑って、同時にくしゃみをした。
流石に長時間裸でいるのは寒い。
勝呂が燐の方を振り返ると、燐は腕をさすりながら携帯電話をいじっていた。
おそらくそう時間はかからずに助けは来るだろう。
勝呂が視線を戻すと、鏡に黒い影が映っているのが見えた。
ゴブリンだ。任務で追っていた駆除対象が、まさかミラーハウスの中まで入りこんでいるとは。
ゴブリンは何かから逃げているかのような必死の形相だ。
そのゴブリンが向かう先には燐がいる。まずい。このままいけば燐が襲われてしまう。
「稲荷の神にかしこみ申す!!!!」
牙は二人に届く前にかき消えた。
鏡の中に、黒髪の少女が映る。
ゴブリンを駆除するためにミラーハウスに入ってきた出雲だった。
勝呂は助かった。と思うと同時に。
「まったく、あんた達なにちんたらやって・・・ってきゃあああああああああ!!変態ゴリラ―――ッ!!!」
「待て、誤解やああああああああ!!!!」
燐を庇うために、勝呂は燐の上にのしかかっていた。
そう、全裸で。
ミラーハウスには全裸で同級生にのしかかる勝呂と全裸で押し倒されている燐が映し出されていた。
これはもはや視界の暴力に等しい。
出雲は喉の奥から絶叫を響かせ、半泣きで走り去っていった。
おそらく、数秒で雪男がここにたどり着くだろう。そしてこう言うのだ。
「今回は悪魔・・・フェアリーの仕業だったようですね。
知ってますかフェアリーって俗語で同性愛の男っていうんです!
いい意味じゃないのでよい子は使用しないように!!」
響く銃声まで想像できた。おそらく自分の命は持って数分だ。
勝呂の下にいる燐が、身じろぎをした。
そうだ、いつまでも下敷きにしているわけにはいかない。
勝呂が離れようとすると、燐が勝呂の手を離れないようにそっと握った。
燐は震える声でつぶやく。
「お、おれもだよ」
燐の顔は真っ赤だった。
それは全裸である恥ずかしさとは少し趣が違うようだ。
「あ?なにがや?」
「お前が言ってくれた言葉・・・ってああ!もういい!!」
勝呂は、それが燐の答えだと知った。
自分の言った言葉を思い出す。
『俺には、お前だけや』
勝呂の顔に、熱が集まる。
言葉は、確かに燐に届いていた。
明蛇の皆。おとん、おかん。
京都から離れて早数か月。
お互い全裸のミラーハウスでの告白となりましたが。
正十字学園で恋人ができました。