青祓のネタ庫
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スーパーで買ってきたレモンを搾るとふわりとすっぱい香りが燐の鼻孔を刺激した。
さわやかな香りで、気分が良くなる。
二個目のレモンは輪切りにして、絞り果汁と一緒に小分けにしてコップに入れる。
そこに、炭酸水をそそぎ込んで、しばらく混ぜる。
最後に味を調整しながらはちみつをそそげば、レモンサイダーの出来上がりだ。
口に含めばすっぱくて、目が冴えるような感覚がする。
「うめー、やっぱ疲れてたんだな俺」
悪魔になってから滅多なことでは疲れなくなったが、
藤堂に会うという非現実的な事柄に捕らわれて、睡眠不足だったのかもしれない。
悪夢にうなされる悪魔というのも変な話だが。
燐はもう一口サイダーを飲んだ。口の中でしゅわしゅわと炭酸が消えていく。
この炭酸が消えるたびに自分の中の違和感も消えていくようだった。
「兄さん何作ってるの?あ、おいしそうだね」
「お前も飲むか?」
燐が台所に立っていると雪男は何かを察知したかのようにそばに寄ってくる。
それは小さな頃からの癖みたいなものだ。
台所に来た雪男に、燐は親鳥が雛に餌を与えるかのように物を与えた。
兄さんお腹空いた。
おう、待ってろよ今できるからな。
そうして雪男は食欲が赴くままに栄養満点の燐の手料理を与えられ、
身長を伸ばしていった。
燐は雪男に背を追い越されて悔しいといつもいっているが、
その雪男を大きくしたのは燐の手料理が原因と言ってもいい。
作る側の人間は、自分の作った物を大量に食べることは実は少ない。
こうして同じものを食べておきながら、摂取量に違いができ、
成長期の体格にも影響を与えたことを燐は知る由もなかった。
燐は昔と同じように雪男に作っていたサイダーを与えた。
雪男は一口飲んで、すっぱいね。と口を窄める。
「珍しいね、兄さんが甘くしないなんて。美味しいけど」
「そうか?これでも蜂蜜いれたんだぞ。まぁ蜂蜜高いからなぁ」
「僕もうちょっと入れよう」
雪男は蜂蜜を追加すると、サイダーを一気に飲み干した。
ほのかな甘みと刺激が体に染み渡る。うん、おいしい。雪男は燐にコップを返した。
底に沈んでいたレモンもすっぱいすっぱいと口にしながらも全て食べている。
貧乏修道院育ちだ。食べ物を粗末にするなどあり得ない。
「ごちそうさま。目が冴えたよ」
「そりゃよかった。ついでに風呂でも入ってこいよ」
「先に入っていいの?」
「おう、片づけ済んだら入るからいいよ。
仕事で疲れてんだろ、いいから行ってこい」
雪男はサイダーを飲む燐をちらりと見て、お言葉に甘えて。と台所を出ていった。
いつもなら、もう少し甘い味が好みだったはずなのになぁ。
雪男はやや不思議に思った。急に味覚が変わることなどあるのだろうか。
それともレモンには疲労回復効果があるから単純に疲れていたのだろうか。
「でも、悪魔が疲れるって・・・相当だよね」
燐の体力は底が知れない。
そもそも人間ではないので当たり前なのだが、任務に行った先で疲れただの、
体が動かないだの聞いたことがない。
でも、睡眠不足はあるらしいから一慨には言えないのかも知れない。
燐は魔神の落胤だ。検査を受けているが人間である雪男とは勝手が違う。
加えて青い炎を受け継いだ悪魔と人間のハーフなど、燐以外に存在したことがない。
どのようなものがどのような影響を与えているのかわからないのだ。
雪男は燐の様子を伺っておくことに決めた。
おそらく、そんな大事ではないのだろうけれど。
「ただの、寝不足かもしれないな」
燐はよく眠る。十時間は寝なければ気が済まないというのだから、
ショートスリーパーの雪男にしてみればそこもよくわからない。
燐と雪男は双子だが、別々の存在だ。片割れのことを全て知ることなど不可能だ。
考えごとをしながらお風呂からあがると、雪男と入れ違いに燐が脱衣所に入ってきた。
片づけが終わったようだ。目をしょぼしょぼさせて、とても眠そうだった。
時刻はまだ午後九時である。早いな。雪男は毎度のことながら感心した。
「ちょっと兄さん、お風呂で溺れないでよ」
「大丈夫だ。それに備えてクロを待機させている」
「そう・・・クロ、兄さんを頼むよ。僕は上で仕事してるから」
燐の足下からにゅるりと出てきた黒い猫はにゃーん。と雪男に返事をした。
猫は水場が苦手だというが、この様子だと前もつき合わされたことがあったのだろう。
慣れた様子で燐の後をついて行っている。
雪男にはクロの言葉はわからないが、まかせとけ!くらいは言ってくれたのだろう。
雪男は脱衣所を出ていった。
兄弟でも、十五歳になれば一緒にお風呂に入ることは珍しい。
たまに時間が被れば一緒に入ることもあるが、本当に稀なことだった。
雪男が去った後、燐は瞼をこすりながら服を脱いでいった。
節約を考えれば雪男と入ってもいいのだが、自分より成長した体を見るのは、
兄として悔しいものがある。いくら同日に生まれたからと言っても、兄は兄だ。
というのが燐の持論である。弟を追い抜く日を夢見ながら、今日もストレッチをする。
伸びをすれば、少しは背が伸びないだろうか。燐は鏡を見た。
特に変わったことはない。たぶん伸びても背骨の誤差数ミリの差くらいだろう。
せつない。燐は自分の体を鏡でまじまじと見る。
腹筋もあるし、ある程度の筋肉がついているのになんであんなに
雪男と体格が違うのだろう。不公平だ。
「クロだってそう思うよなー」
「でも、ねこのきょうだいでもたいかくって
ちがうからそんなもんじゃないのか?」
「クロ・・・お前結構大人な発言だな」
「おれはおとななんだぞ!」
クロは燐に訴えた。子猫の姿をしているが、かなりの年上である。
そう訴えてもあまり信じて貰えていないのが悲しいところだが。
クロは尻尾をふりふりと振りながら、風呂場に入っていった。燐も後に続く。
燐も、クロも気づいていなかった。
鏡に映る燐の身体には、植物の蔦が巻き付いていた。
まるで刺青のように皮膚の上に生じており、
腰回りをぐるりと取り囲んでいる。
時折小さな葉を生やしている蔦は、腹の中心から生じているようだ。
そこは、藤堂に種を植え付けられた場所だった。
蔦が動く。少しだけ蔦の先が伸びる。
まるで発芽して、成長しているかのように。
「クロー、シャンプーしてやろうか?」
「シャンプーきらい!」
「わかったって、じゃあ風呂蓋の上に
タオル敷いてやるからそこであったまってろよ」
クロは大喜びで燐の用意した待機場所でぬくぬく温まった。
湯の温かさが蓋から伝わって、床暖房みたいな役目を果たしている。
クロはこれがお気に入りだった。
だから風呂での燐のお目付け役を買って出ているという理由もある。
燐は目を閉じる。温かい湯に浸かっていると意識が揺れた。
目が自然と落ちていく。だめだな。やっぱり疲れているんだ。早く出よう。
燐にも、クロにも、その蔦は見えていない。
燐は蔦を巻き付けたまま湯船から出ようとした。
意識がぐるりと揺れる。あ、だめだ倒れそう。
燐が踏ん張ろうとすると、背中にふんわりとした感触がした。
振り返ればクロが巨大化しており燐の体を支えていた。
「りんだいじょうぶか?のぼせたのか?」
「おう・・・ありがとなクロ」
燐は起きあがると、ふらつきながら脱衣所にたどり着いた。
クロは燐が心配だった。ここ最近燐はとても眠そうだ。
これは雪男に報告をせねばなるまい。
部屋に戻った後、燐はすぐに布団に入って寝てしまった。
クロは仕事をしている雪男にしきりに訴えた。
「にゃあああん、なああ。にゃーにゃー」
「クロ?どうしたの?お腹空いたの?」
「うううん、にゃあああ!」
「えーと、うん。わかったわかった」
雪男はクロのお腹を撫でて、クロを落ち着けさせようと努力した。
しかし、クロと雪男は決定的にすれ違っている。
クロの感じた違和感が雪男に伝わることはなかった。
***
「あれ、奥村君どうしたの。次体育だから急いで着替えないと」
「今日寝坊して体操服忘れたんだ!雪男に借りてきた!」
燐は急いで更衣室に入ると、制服の上着を脱いだ。
醐醍院はもう既に着替えており、更衣室を出るところだった。
燐はシャツに手をかけて、服を脱ごうとしている。
服の隙間から、何かが見えた。醐醍院は燐がいつもと違うことに気づいた。
「あれ・・・?」
違和感を感じる。けれど、言っている暇はなかった。時間が迫っている。
燐が遅刻しそうなことは珍しくないので、醐醍院は急いでね。
とだけ言うと集合場所に向かった。
しかし、チャイムが鳴って点呼を取る時になっても燐は来なかった。
どうしたのだろう。更衣室までは来ていたのに。
醐醍院は首を傾げる。
背後でクラスメイトが小声で話をしている声が聞こえてきた。
サボりかな。奥村君ってちょっと怖いもんね。
不良だから。知ってる?刺青とかしてるって噂。
口さがない言葉が飛び交う様子に、醐醍院は我慢できなかった。
燐には悪魔が見えることで世話になった。
本当はいい人なのに。醐醍院は手を挙げた。
「すみません、様子を見てきてもいいですか?」
醐醍院は体育の教師にそう言うと、運動場から更衣室に向かって走った。
周囲に人の気配はない。醐醍院は更衣室の扉を開けた。
中はしいんとしていて、物音がしない。
もしかして祓魔塾関係でなにかあったのかな。
それならば醐醍院はどうしようもない、あきらめようか。
醐醍院がそう思いながら、更衣室の奥へ進むと。
暗く、冷たい床の上に倒れている燐がいた。
「奥村くん!?どうしたの!?奥村くんッ!!」
醐醍院が駆け寄る。燐は着替えの途中で倒れたらしい。
服がはだけていた。服の隙間から覗いた肌に、後醍院は驚愕した。
「なんだ、この模様は・・・」
燐の体に巻き付いている蔦を醐醍院は怯えながら見ていた。
肌にまるで刺青のように張り付いている。
触っても、ふくらみなどは感じられない。取り憑いているのか。
着替えの時に感じたあの違和感は、間違いではなかったのだ。
醐醍院は咄嗟に燐に服をかけて、その体を隠した。
そして、大声で人を呼ぶ。
「誰か、誰か来てくださいッ!奥村君が!!」
醐醍院は急いで更衣室から出て行った。
その間、燐はぴくりとも動かなかった。
自分は、藤堂に会ったのだろうか。
燐は疑問に思っていた。確かに腹を貫かれた痛みも、記憶もあるのに、
それが夢に思えてしょうがない。
電車内に飛び散っていた血が消えたことも原因の一つかもしれない。
燐は自分の腹に手をやって、撫でた。
ここに、なにかあるのか?
そう思うと底知れない恐怖が襲ってくる。
でも、それが本当なのか確証が持てない。
燐は自分の不可解な気持ちを持て余していた。
いっそ倶利伽羅か何かで自分の腹を裂いてみるべきだろうか。
そうすればそこになにがあるのかわかるだろうが。
「・・・駄目だな、頭おかしくなったって思われそうだ」
いきなり自分の腹を割く同級生とかイヤだろう。
塾生のうちの誰かがそれをやりだしたら、間違いなく止める。
それは燐だとしても例外ではないはずだ。
塾のみんなに変な目で見られるのはイヤだな。
燐は考えて、では雪男はどうだろう。と考えた。
よう雪男!ちょっと俺の腹切ってくんねぇ?
大丈夫、お前医者目指してるんだからできるって!
想像して、雪男の表情が歪むのが目に見えた。
駄目だ。雪男にそんなことさせられない。
腹を裂けば泣かれそうだし、腹を切ってくれと言えば怒られそうだ。
八方塞がりである。
唐突に、燐は呼ばれて振り返った。
「奥村ー!逃げろおおお!」
「え?」
燐が動く前に、動く物があった。
にゅるりとした蔦が燐の足を掴み、そのまま上に引っ張りあげられた。
世界が逆さに見える。宙ぶらりんのまま視線を向ければ、
下には大声で叫んでいる勝呂たちがいて、
蔦の方向を辿れば。大きな赤い果実の化け物がいた。
赤い実には大きな牙と口がついており、目は一つ目。
背丈は三階建てのビルくらいはありそうだ。ぎょろりと向けられた視線に慌てる。
口が開いている、こいつ。俺を食う気かよ。
しかも丸のみできるくらい口もでかい。
一気に迫った身の危険に燐は防衛本能を働かせた。
蔦ごと、一気に青い炎を纏ったのだ。
青い輝きに目がくらんだのか、蔦が緩む。抜け出せる。
燐がそのまま落下しようとすると、すかさず別の蔦が燐の腕に絡みついた。
足を掴んでいた蔦が、燐の腹をぐるりと取り囲む。ぞわりと鳥肌がたった。
腹周りの蔦が、燐の体を探るように動いている。
気持ち悪い。腕に巻き付く蔦は、もっと遠慮がなかった。
その蔦は、腹を囲んでいるものとは違う。赤い。
まるで血管のような色をしていた。
「くそ!気持ち悪ぃな!」
燐は振り払おうとするが、蔦の方が早かった。
燐の腕に巻き付くと、そこから土に根を下ろすかのように皮膚に食い込んだ。
どくん、どくん。と根が突き刺さったところから血が抜けていく感触がする。
でも、腕から血は出ていない。すべて根が吸い取っているのか。
根は更に燐から血と肉を奪おうと、根を張り巡らせた。
肩の方まで来ている。浸食が拡大している。
燐は炎を出そうとした。その前に、下から声が聞こえてきた。
「何やってんだ!馬鹿!」
声とともに、銃弾が飛んできた。
燐の腕に巣くっていた根がちぎられる。
体を取り囲んでいた蔦も、銃のおかげで切れている。
自由になった。燐は根を張り付けたままの腕を振るって、倶利伽羅を鞘から解き放つ。
燐の体からあふれる青い炎。すべてを焼き付くす、魔神の業火だ。
「よくも好き勝手やってくれたな!!」
それはもう盛大に燃やし尽くしてやった。
悪魔は断末魔の悲鳴を上げることもなく、跡形もなくなった。
燐は地面に降りて、華麗に着地。
したはずだったがその場によろめいて倒れ込んでしまった。
地上にいた勝呂たちが次々に飛んでくる。
「アホ!呆けとるからこんなことなるんやで!」
「悪い・・・でも敵倒したんだからそんな怒んなよ」
「怒るわ!見てみいこれ!」
勝呂に言われて、自分の腕を見た。
そこには悪魔に寄生されて根を張られている光景が。
グロテスクすぎて、近寄ってきた志摩が思わず目を反らしてしまうほどだった。
自分の体内に入っているとはいえ、悪魔は悪魔だ。
炎で燃やすべきか。
そう思って力を込めようとしたところで、頭を思い切り殴られた。
貧血によるものとは違う。頭のくらみ。
目に火花が散ってしまった。
これ以上脳細胞が死んでしまったらどう責任とってくれるんだ。
こんなことする奴なんて一人しかいない。
「いってぇな!!なにすんだよ!雪男!」
「なにしてる。はこっちの台詞だ!
戦闘の最中に突っ立っているなんて正気の沙汰じゃない!
一体何考えてるんだ!」
雪男は珍しく、額に血管を浮かせて怒っていた。
怖い。何そんなに怒ってるんだよ。全部終わったじゃん。
なんて言ったらどんな目にあうか。燐は想像して口を噤んでしまった。
雪男は押し黙る燐を無視して、怪我をしている腕を取った。
医工騎士として診察をしているようだ。
まじまじと見て、雪男はため息をついた。
勝呂たちに合図をして、燐を取り押さえるように言う。
「じゃ、押さえておいてください」
「はい」
「はーい」
「わかりました」
なにすんの。という疑問の言葉も許されないまま。
雪男が燐の腕から出ていた根を思い切り引っ張った。
血管から根が抜けていく感触、ぶちぶちという引き裂かれる音。
「いッてえええええええええ!!!!」
容赦のかけらもなく、引っ張り出された。
これが治療だというのならなんという荒療治だろうか。燐はぼろぼろと泣いた。
予告してくれたら覚悟もできたのに。
痛がる燐とは正反対に雪男はどこまでも冷静だった。
「はい終わり、違和感はない?もう傷口ふさがってるから大丈夫とは思うけど」
「え?あー。うん。違和感はないな」
手を握ったりして確かめるが、あの根が残っている感覚はなかった。
念のため青い炎で燃やしてみるが、何かが燃えることもない。
根が張っていたという事実は跡形もなくなっていた。
「よかった、寄生型の悪魔に取り憑かれると全身が乗っ取られることもあるんだよ。
兄さんは上級だろうから、滅多にそんなことにはならないだろうけど。
同じ悪魔だからこそ気をつけないといけない相手だったんだからね」
「寄生型の悪魔・・・」
燐は悪魔を燃やしつくした後を見た。赤い実の悪魔。
雪男が言うには、最初はただの山魅だったらしい。
そこに寄生型の悪魔が取り憑いてあんなにも巨大な悪魔にまでなってしまった。
だから、遅刻してきた燐には散々悪魔に近づいてはいけないと
言い聞かせていたのに。
「兄さん、今日は何かへんだよ。他に怪我してない?」
雪男は燐に手を伸ばした。蔓が腹の辺りに当たっていなかっただろうか。
寄生型の悪魔は触れた場所から取り憑くこともある。
念のため見せて、と燐の服をめくろうとした。
燐は雪男の手をとっさに振り払った。乾いた音が響く。
「触るな!」
「え・・・?」
雪男の手が、行き場をなくした。
燐は自分がなぜそんなことをしたのかわからなかった。
でも、雪男に触れられたくないと思ってしまった。
なぜだろう。
燐は藤堂に会ったことを思い出した。
口を開こうとした。なぁ雪男、俺あの藤堂っていう男に会ったんだ。
でも、それは言葉にならなかった。
「なんともねーよ、悪い」
「それならいいんだけど・・・」
雪男の視線が探るように見ている。
それをなんともないという風に流して、その場を離れた。
勝呂が燐に声をかける。
「奥村、なんかあったんか?遅刻してきてから変やぞ」
「大丈夫だって」
燐はなんともない、と答えた。
藤堂に会ったことを言おうとすると、なぜだか言いたくない気持ちになる。
燐は自然と自分の腹を撫でた。
プレゼントだよ、ここでしっかりと育てるといい。奥村燐君
藤堂の言葉が耳に響く。
でも、このことを言うことはできない。燐は吐き気を覚えた。
なぜだろう。別に変な物は食べていないのに吐きたい気分だった。
そして、妙な食欲があった。
「なんか、レモン食べたい」
レモンはビタミンが豊富で疲労回復にもなる。
たぶん疲れているのだろう。燐はそう結論づけて岐路につく。
何かが芽生え初めていることに、このときは誰も気がつかなかった。
燐は走っていた。任務に遅れてしまう。
それだけを考えて、悪魔の脚力を使って正十字の町を駆け抜ける。
変な夢を見た気がした。そのせいで寝坊して、こんな時間に寮を出ることになって
しまったのだ。雪男は、燐を起こしてはくれなかった。なんだよ。出るなら起こせよ。
燐はイライラしながら足に力を入れる。
近道である路地裏の階段を降りて、一気に加速してジャンプした。
一足で、家を二軒ほど飛び越えた。そのまま屋根を伝って、次から次へと飛んでいく。
目的の駅までは、このまま行けばすぐ着くだろう。
普段なら道を使うのだが、今は時間がない。
燐はそう言い訳をして、夜の町を駆けた。気持ちがいい夜だった。
夜空には雲一つなく、青い月が光っている。
燐にとっては美しい夜だが、一般人からしたら暗闇だ。
燐が飛んだり跳ねたりしていても、見間違いで済ましてくれるだろう。
雪男に見つかったら怒鳴られるだけでは済まないだろうが。
雪男は燐が悪魔としての力を使うことを恐れている。
燐が自分の元から離れていってしまうことが怖いのだ。
でも、燐は自分の力から逃げないことを決めた。
逃げても、この力はなくならない。だから、立ち向かうしかない。
自分は、魔神の落胤として祓魔師になる。
覚悟を決めた燐は、もう悪魔としての力を使うことを躊躇しなくなった。
まぁ確かに一般人の目の着く場所で力を使うことがいけないこともわかっている。
「怒られたら、お前が起こさないからだって言ってやろう!」
燐は駅の前にたどり着いた。といっても屋根の上だ。
時間的にもう終電だ。この終電に乗らなければ任務の目的地にいけなくなってしまう。
燐は人がいないことを確認すると、屋根の上から飛び降りた。
人ならば骨折するだろう高さも、燐ならば問題ない。
階段の三段目くらいから降りた、くらいの感覚だ。
雪男が危ないだろう。と注意するのも人間の感覚で語るからだろう。
悪魔に取っては高さなどあってないようなものだ。
燐は飛び降りてきた様子など窺わせない様に、小走りで駅へ向かった。
「すみません、終電ってこれですか?」
「そうだよ。乗り遅れたら次はないからね。乗るなら早めに」
「わかりました」
燐は駅に入ると、切符を買って改札を通った。思った通り、人はいない。
「なんだよ。皆もう行ったのか・・・」
勝呂達からのメールを確認すれば、一本前の電車で向かったようだ。
流石、30分前行動を地で行く男である。
時間帯が深夜であることから、志摩辺りは駄々をこねていそうだが。
燐が駅のホームで電車を待っていると、程なくして電車が入ってきた。
よく確認するが、幽霊列車ではないようだ。車掌も人間である。
ここで幽霊列車に乗ったら虚無界へ直行だ。そんなのはごめんである。
燐は時計を確認して、列車に乗り込んだ。時刻はちょうど夜の12時。
日付が変わってしまった。携帯電話を操作して、待ち合わせの場所を見る。
この電車の終点が目的地か。燐は誰もいない列車の中で、椅子に座った。
電車の窓側に一直線に設置された椅子だ。
いつもなら大勢の人がいるのだろうが、今は人の気配もなくしいんとしている。
窓には学園の夜景が映っては消えていった。
真夜中の列車は目的地がわかっていても、どこへ向かっているのかわからない錯覚を起こす。
一人でいると、その感覚がとても顕著だ。
なんだろう、ドキドキするな。
燐は自分の心臓を押さえた。
これは幽霊列車ではないのに、闇の中へ落ちていくようなそんな不安感。
燐は意識を戻そうとして、列車内の電球を見上げた。レトロな列車のせいか、電球だ。
列車自体も所々木を使って作ってある。
ごおお。大きな音がした。窓の外を見れば、漆黒に包まれていた。列車がトンネルに入ったようだ。
トンネル内では携帯電話も使えない。燐は携帯を弄ることもできず、ため息をついた。
ごおお。また大きな音がした。列車の中からだった。
見れば、帽子を被った男が一人燐のいる車内に入ってきた。
電車は三両編成だったので、後方の車両から入ってきたのだろう。
燐がいるのは、三両編成の車両のちょうど真ん中だった。
よかった。俺以外にも客がいたんだな。
そのことにちょっとだけ安心した。
終電の列車に乗る機会などあまりない。
人がいないことは知っていたが、やはり一人ではなんとなく落ち着かないものだ。
男は燐から離れた席に座った。もしかしたら男も燐と同じ心細さを感じていたのかもしれない。
燐は目を閉じた。任務に備えて仮眠を取ったとはいえ、まだ候補生の身分だ。
昼間は高校に行っているし、夕方は塾で勉強。
祓魔師のように時間に融通が利くわけでもないし、確実に睡眠不足だ。
目的地は終点なのだし、寝ていたとしても問題はないだろう。
燐は携帯電話で、アラームを設定した。
終点までの時間はアナウンスで確認したので間違いはないだろう。
電車でうたた寝して寝坊したなど、雪男の怒りが頂点に達しそうだ。
燐はアラームを設定すると、携帯を右手で握る。手で持っていれば、
アラームが作動してバイブ機能で起きるだろう。車内なのでマナーモードだ。
ちらりと男の方を確認した。男の方も、うつらうつらとしているようだ。体が揺れていた。
燐もそれに習って目を閉じる。アラームで起きなかったら、もう駅員さんに期待するしかない。
自分の寝汚さを自覚しているので、そこはもう開き直っている。
燐は程なくして、眠りに落ちた。
***
時間はどのくらいたった頃だっただろうか。
燐は自分の口から涎が落ちている感覚で、目を覚ました。
涎は普段はべとべとしているが、
寝ることで副交感神経が刺激されて唾液がさらさらになる。
唇に液体が落ちる感覚は覚えがある。燐は慣れた手つきで唇を拭った。
なぜだか、鉄さびのようなにおいがしている。おかしいな。
燐は目を開けた。ぼんやりとした視界が、手に焦点を合わせる。
手は、真っ赤に染まっていた。
「え・・・?」
燐は口を再度拭った。べっとりと今度は倍の量の血がこびりついている。
握っていた携帯電話が床に落ちた。
列車は揺れるので、揺れに合わせて携帯電話は床を滑っていく。
自分は、血を吐いている。なんで。
手から血が滴り落ち、下に落ちていく。視線が自然と下にいく。
自分の腹から、腕が生えていた。
正確には、男の腕が燐の腹を貫いていた。
男の顔は、見えない。帽子を被っている。
遠くの席を確認すると、先程車内に移動してきた男がいなくなっている。
あの男だ。燐は男の腕を掴んだ。男はそれでも、燐の腹から腕を抜こうとはしなかった。
普通の人間は、人間の腹を突き破ることなどできない。
こいつ、悪魔か。
燐は炎を出そうとするが、目覚めた意識が痛みに向かう。集中できない。
痛い。痛い。腹が焼けるように痛い。異物が侵入している感覚。
気持ち悪い。燐は血を吐いた。吐いた血は男の帽子にかかった。
男の腕が、燐の内部で動く。
「い・・・てぇッ」
「ああ動いたら駄目だよ。位置がずれる」
男は燐の腰を、もう片方の手で抑え込んだ。
中に入った男の手が、燐の腹をかき回す。燐は声にならない悲鳴を上げた。
くそ、なんだよこいつ。俺に何する気だ。
燐はなんとかして男をどかそうと、力の入らない腕で男の頭を叩いた。
帽子がずれ落ちて、男の顔が晒される。
燐の目が開かれる。燐は声を出そうとした。でも、できなかった。
男が落ちた帽子を、燐の口の中にねじ込んだからだ。
「大人しくしててもらおうか」
男はそのまま、燐を椅子の上に押し倒した。
燐の体は全身が椅子の上に乗る形になった。寝転がっているような状態だ。
ここは三両列車の真ん中だ。一番前には、運転手が。
一番後ろには車掌がいるが、真ん中には誰もいない。
見回りも、終点に着くまではないだろう。この車両の異常に気づくものはいない。
燐は足をばたつかせる。
抜け、抜けよ。くそ、超イテェ
意識が痛みで朦朧としてくる。
ぼんやりとした感覚でもわかったのが、腹の中に腕以外の何かが入ったことだった。
「ん!ううッ!!」
「ああ、わかるかい?種が入っていること」
種?なんだよそれ。意味わかんねぇ。なんで俺の腹なんかに。
男の腕が入っている異物感の他にある、なにかの感触。
それが種というものだろうか。
男の腕が燐の腹から引き抜かれた。
血がどくどくと出ている。列車の中は血まみれだろう。
男の手が、燐の腹に開いた穴を抑えている。
燐は悪魔だ。ネイガウスに襲われた時も、腹に穴が開いたがすぐに塞がってしまった。
きっとこの傷もすぐに塞がってしまうだろう。燐は恐れた。
種、と呼ばれたものの感覚。それがまだ燐の中に残されている。
このまま傷が塞がれば。考えただけで恐ろしい。
燐は傷を抑える男の腕をどかそうと、もがいた。
いやだ。気持ち悪い。離せ。
燐の抵抗を男も必死で抑える。男の手が、燐の尻尾に伸びた。
メフィストに隠すように言われてからは、腹に巻きつけていたのに。
痛みで、緩んでしまったようだ。男に尻尾を握られ、燐はもう抵抗できなかった。
だがせめてもの抵抗として、男が押さえている傷口に両手を乗せた。
無情にも、傷口は塞がってきていた。あと数分もすれば、跡形もなく消えていることだろう。
燐は失血したことが原因であろう、眠気に苛まれていた。
腹を突き破られたのだ、失った血は大きい。燐はどんどん瞼が落ちていくのを感じた。
だが上に伸し掛かっている男に、一言言ってやりたい。
燐は口に押し込まれていた帽子を、舌を使って吐き出した。
唾液が糸を引いて、床に落ちた帽子と燐の口を繋げている。気持ち悪い。
燐は吐き捨てるように言った。
「藤堂・・・ッ!テメェ俺に、なにしやがった!」
燐に伸し掛かる人物。それは京都を不浄の海に染めようとした。
弟である雪男を殺そうとした人物。藤堂三郎太だった。
初めて見た時とは随分年齢が違うが、指名手配もされている人物だ。
塾で手配書も見せられた。なにより声が同じだった。
間違うはずがない。
藤堂は、声を出した燐の頬を殴り飛ばした。
車掌が気づいて、ここに来ないとも限らないからだ。藤堂は容赦がなかった。
完全に意識を失った燐を見て、藤堂はほくそ笑んだ。
「プレゼントだよ、ここでしっかりと育てるといい。奥村燐君」
藤堂は燐の腹を撫でた。
傷口は跡形もなくなっていた。もう、自力で出すことは不可能だろう。
自分で腹を裂くなど、並大抵の神経ではできはしない。
それに、時間がたてば馴染んてきて、もう取り出すことなどできはしない。
藤堂は時計を確認した。終点までは、まだ時間がある。
燐はおそらく起きれないだろう。
藤堂は一呼吸おいて、カルラから奪った赤い炎を出した。
炎は、一瞬で座席や床に着いた血だけを焼き尽くした。
一瞬だけなので、車内の火災報知器も作動しない。煙も出さない焼き方。
それは、カルラの炎を完璧に操っていることに他ならない。
「じゃ、遅刻しないようにね」
藤堂は、次に止まった駅で降りて行った。
車内の異常に気づいたものは、誰もいなかった。
***
「ちょっと君、もう終点だよ!起きて!」
駅員の声で、燐は意識を取り戻す。
遠くの方で携帯電話のバイブの音が聞こえてきた。
無意識に自分の腹を撫でた。傷はない。
服も破れていなかった。
「大丈夫?家まで帰れるかい?」
駅員は意識の定まらない燐を心配したのか、顔の前で手を振った。
燐は意識を取り戻して、周囲を確認した。
「あれ・・・ない?」
傷口がない。のはわかる。燐の治癒力で塞がったのだ。
でも、座席や床に広がった燐の血までも跡形もなくなっている。
確かに出血したのに。あの量の血をあの短時間で片づけることは不可能だ。
一体どこに、夢か。でも痛みはあった。なんで。
燐はぐるぐると回る意識を定めようとした。
「携帯ならあるよ。はい」
「え?あ、ありがとうございます・・・」
駅員は燐が携帯を無くしたと思ったのだろう。
それを受け取って、燐は平静を取り戻した。
そして、バイブ機能がまだ生きていることを不思議に思った。
おかしい、確か設定では2分くらいにしたはずなのに。
燐は携帯を開いた。画面には、奥村雪男。と表示されていた。
着信だ。一気に、目が覚める。表示された時刻を見て青ざめた。
待ち合わせ時間を過ぎている。
案の定、電話に出ると思いっきり怒られた。
『ちょっと兄さん!!遅刻だよ!どこで何してるの!!?』
「うおおおお!ごめん!!」
燐は駅員にお礼を言って、素早く列車を降りた。
あれは、夢だったのだろうか。道を駆けながら燐は疑問に思った。
一抹の不安が抜けない。
血がないなんて変だ。あんなに出血したのに。
燐は自分の腹を撫でる。違和感は、ない。
夢と現実の区別がつかない。
燐はひとまず意識を任務へと向けた。
これ以上弟を怒らせたら、どうなるかわからない。
そのために燐は、駅員の言葉を聞き逃した。
「もう携帯落としちゃだめだよー」
燐は寝る前に携帯電話を握って寝たのに、落としていた。
その事実に気づかないまま燐は夜の町を駆けた。
植えつけられた種が、どくんと静かに脈打った。
今月号のSQネタバレ有り。単行本派は要注意!
メフィストの部屋に招かれて、食事を振る舞われた。
晩餐と聞いたのでなにが出てくるのかと思いきや、出てきたのはカップラーメンだった。
しかし、メフィストの好物はジャンクフードらしいので、
自分の好物で迎えてくれたというのは燐に対して思うところがあってのことか、否か。
燐は思った。こいつ、確実に面白がっているな。と。
カップラーメンの蓋を開けて、箸を取る。ナイフとフォークもあるが、
そんなもの使ってラーメンを食べるつもりはない。燐は麺を取って一口啜った。
「・・・まず、くはない」
が、しょせんインスタントだ。おいしいとは言いがたい味がする。
燐は小さな頃から家庭料理を極めてきた自信がある。
そのために鍛えた舌が、やはりあまりおいしくはないと訴えている。
まぁ食べられないことはないので燐は大人しく麺を啜った。
向かいにいるメフィストを覗けば、うきうきと嬉しそうに麺にかぶりついていた。
これが、俗にいう残念な大人だろうか。燐はため息をついた。
そんな男が、魔神の直系で、虚無界の第二権力者で、時の王サマエルだとは。
信じたくはないが虚無界まで連れて行かれた身としては信じるしかない。
そうなると自分の母親違いの兄に当たるのだろう。
カライ・・・じゃない。アマイモンもそう言っていた。
自分達は兄弟みたいなものだと。
燐は、メフィストに対してあまり良い感情をもっていない。
こいつが兄?絶対イヤだね。いや、本気で。
しかし、悪魔を見えなくする薬はメフィストしか持っていないのだ。
課題が何かはわからないが、メフィストに従うしかない。
それもまた燐の心に複雑な思いを抱かせる。
「メフィスト」
「なんですか?奥村君」
「俺は、お前の思い通りにはならねーからな」
箸を置いて、ごちそうさま。と手を合わせる。ご飯に罪はない。
頂いたことに感謝はしなければならない。
それは父、藤本獅郎に口を酸っぱくして躾られたことだ。
燐の父は藤本獅郎ただ一人だけだ。魔神ではない。
だから、メフィストがいくら自分の兄に当たろうとも、態度を変えるつもりはない。
今はかなわなくても、いつか絶対にあらがってみせる。燐はそう決めていた。
帰ろうと一歩を踏み出したところで、ぐらりと地面が揺れた。
おかしい、歩けない。燐は床に膝をついた。
意識が揺れる。メフィストはおかしそうに笑いながら、こちらに近づいてきた。
「おや。すみません、まだ内臓が回復してなかったのでしょうか。
刺激が強すぎたようですね」
燐は虚無界でアマイモンによってバラバラにされた。
悪魔の回復力で身体は元通りになったが、内蔵がまだたったのか。
そこにインスタントラーメンはきつすぎた。
燐はお腹を押さえてうずくまった。メフィストは燐の身体に触れようとする。
燐はメフィストの腕を振り払った。ぱしん。音がメフィストの部屋に響く。
「俺、に。触るなッ!」
「威勢だけは一人前ですね。警戒心もなかなかだ。ですが」
力が伴っていなければ、悪魔にとっては無意味です。
メフィストは燐の腕を引き上げて、そのまま横にあるベッドに放り投げた。
燐はやわらかい布団の上にうつ伏せで着地し、むぐ。とくぐもった声をあげた。
顔色はあまり良くない。メフィストは動けない燐を仰向けにひっくり返すと、
そのネクタイに手をかけた。
驚いたのは燐だ。部屋に連れてこられて、食事を振る舞われて。
帰ろうとしたら、ベッドに連れてこられた。これは、なんだ。まずいぞ。
映画とかでよくあるワンシーンみたいだ。
罠にはめられたターゲットがぺろりと食べられてしまう系のあれだ。
逃げようとするが、メフィストが上にのし掛かっているので動けない。
ネクタイを緩める手を外そうと手を伸ばすが、
力が入らないのですがりついているかのようだ。
メフィストは気分よく燐の上着をはだけさせた。
燐は気分が悪いのかうーうー唸っている。
「悪魔なら一瞬で治るんですけど、貴方半分人間ですもんね。
少しだけ手伝って差し上げますよ」
メフィストのひやりとした手が燐の腹を撫でる。
魔法陣が燐の身体に展開された。ざわりとした感覚。
燐は腕を張って、メフィストの身体がこれ以上近づかないようにしようとした。
「いや、だ!やめろ!」
「お兄さまが手伝ってやろうというのに、聞き分けのない弟だな」
そう言いながらメフィストの顔は嬉しそうだ。
メフィストの手が燐の腹を撫でる。
燐の腹には魔法陣があり、その上をメフィストの手が撫でている状態だ。
メフィストが手を動かすたびに、燐の中がざわついた。
「う、ああッ!やめッ!!」
「良い声だ、もっと鳴きなさい奥村君」
「いや、だ!ああ!」
内臓が、メフィストの手が動くたびにかき回されている。
魔法陣は治癒に使われるものだが、空間を司るメフィストが使えば、
腹を切り開かずとも手術を行える。
内臓は修復されるだけでなく、その位置も重要だ。
燐の場合内臓の位置がまだ不完全だったのだろう。
メフィストはそれを正しい位置に治しているのだ。
だが、いくら治すためとはいえ自分の意志とは関係なく
内臓をかき回されていることに変わりはない。
ひとしきり撫でられると、燐はごほりと咳をした。
口から血が出る。血がメフィストの寝具を汚す。
咳を何度か繰り返すと、燐の呼吸は落ち着いてきた。
「これで大丈夫でしょう。
治療だというのにはしたない声をあげて。いけない子ですね」
「こ・・・んの。クソピエロ!!」
燐は腕を振り上げてメフィストの顔面を殴ろうとした。
その腕も簡単にメフィストの手に止められる。
「感謝はされど、刃向かわれる謂われはありませんけど」
燐はメフィストの言葉に反応しなかった。
そう、身体が硬直している。メフィストが時間を止めたのだ。
燐の倶利伽羅を奪ったときも同じことをした。
この空間で動けるのはメフィストだけだ。
「ですが、治してあげたのですから相応の対価を貰いましょうかね」
メフィストの唇が燐の口からこぼれた血をなぞり、そのまま唇を奪った。
口の中に広がる濃厚な血の香り。魔神の直系たる甘美な味だ。
メフィストは我を忘れて燐の唇をむさぼった。燐は動くことはない。
そのままメフィストは手を燐の下半身に向けて伸ばした。
ここはベッドの上だ。やることといえばひとつしかない。
手が燐のズボンをはぎ取ろうと動くと。時の止まった世界に動きが生じた。
燐の身体から青い炎が吹き出して、メフィストの腕を焼いた。
つながっていた唇も、炎に焼かれる。
メフィストは舌打ちをして燐の身体から離れた。
途端に、炎は静かに収まっていった。
「これだから青い炎は・・・時を越えて反応するなどやっかいな」
そこに燐の意識はない。おそらく本能的なものが青い炎を動かしているのだ。
メフィストはことあるごとに燐を狙って仕掛けたが、
いつも青い炎に邪魔されて本懐を遂げられない。
今日は唇を奪えただけましな方か。
本来なら、燐の中をかき回すのはメフィストの手ではなく、もっと―――
いや、これ以上炎に焼かれてはたまらない。メフィストは指を鳴らして時を動かした。
燐はのし掛かるメフィストに向かって、反対側の腕で殴りかかった。
油断していたメフィストはもろに顔面で受けてしまい、ベッドの上に転がった。
燐は匍匐前進でベッドの上という危険地帯から抜け出すと、急いでドアの前に立った。
身体はもう大丈夫だった。
「この変態ピエロ!!!」
燐は顔を青ざめさせたり赤くさせたりしながら、部屋から飛び出していった。
おやおや、押し倒されただけであんなに動揺して可愛らしい。
時を止めて、もっとすごいことをしていたと言ったらどうなるだろうか。
メフィストは口角を上げて笑った。
「成長するがいい、末の弟よ。
成長し、挫折し、笑い、泣いて、苦しんで、もがいて、楽しんで、
動揺して、あがいて―――そして私の元へ堕ちて来い」
それまではこのままでいてやろう。
保留にしているだけで、止めることはない。
この遊びは、止めることなどできはしないのだ。
メフィストの顔は悦楽に歪んだ。
「本当に、私を飽きさせない末の弟は愛おしい」
寝具に着いた燐の血を指先で掬い上げると、べろりと舐めとった。
悪魔の愉悦は、終わらない。
燐は暗い部屋の中で、囲われていた。
電気は豆電球が一つ。
外に出るためのドアの前には燐の向かいに座っている人がいて出られない。
部屋はせまく、中は椅子が二個と机がひとつぎりぎり入るくらいの狭さだ。
部屋に設置された窓には枠が取り付けられており、その隙間から出ることはできない。
燐は拘束されていた。それも、人間に。
「で、なんで君夜にあんなとこ歩いていたのかな」
「おいいい、このパターン覚えがあるぞ・・・」
燐は机の上でうなだれた。ここは交番の、取調室である。
任務を終えた燐は一度男子寮に戻り荷物をおいた。
メフィストの部屋に向かうのに、重い荷物を持って行きたくはなかったのだ。
なぜだかわからないが、メフィストのところへ行く時には身軽にしようと燐は決めている。
なにかあるわけはないと思うのだが、何かあったときのためにすぐに逃げ出せるようにしておきたい。
そう本能が囁いている。燐は勉強はできないが、頭が悪いわけではない。
身の危険は、本能で感じ取っているらしい。
そんなこんなで荷物を置いて、外へ出たらこれである。
連日警官に捕まって連行されるなんで、燐には何か人とは違うオーラでも出ているのだろうか。
まあ人ではなく悪魔なのだが。悪いことはしていないのに、大変不本意だ。
燐は、早くここから抜け出したいと思って、お決まりの台詞を吐いた。
「俺はもう大人なんだよ!!」
「その外見で?あれかな、最近の高校生は進んでいるから。
童貞捨ててたら自分は大人とか思っちゃうんだよね。笑っちゃうよね。
君はどっちかというと、お酒とかたばこに走っちゃったタイプかな」
「ぐぬぬ・・・」
ど、童貞ちゃうわ!と言えたらどんなによかっただろうか。燐は黙り込んだ。
正直二十歳は越えているが騎士團の監視があるせいで、そういった色事には手を出せていない。
燐は最近の高校生にすら、俺は追い越されているのか。とショックを受けた。
童貞だけど大人です。
よっぽど言いたかったが、言えるわけもない。警官は口で言っても信じてくれない。
証拠を出さなければ信じて貰えないのだ。
燐はポケットを探して、祓魔師免許を出そうと考えた。
しかし、ポケットの中には小銭の軽い音しかしない。
しまった。燐は一度男子寮に戻っている。
あの荷物の中に、財布が、免許証が入っていたのだ。
「おいいい!またこのパターンかよッ!日本の警察はどうなってんだ!仕事しすぎだろ!」
「ほら、座って。よくわからないこと言わないの」
「そうだッあの時の警官の人っていないんですか!?俺一回その人に補導されたことあるんです!」
「へぇ、それ何日のこと?」
燐は当時の状況と日時を詳しく話した。すると警官がファイルを取り出して、
その警官が書いた調書や取り調べの内容をチェックし始める。
そしてじっくりと読んだ後、ファイルを閉じた。
書類にはこう書かれていた。
奥村 燐(つり目、青い瞳、黒髪が特徴)
かなり大きな派閥の後継者。組の重要人物である可能性あり。異母兄弟の九人目。
権力者である父親の正体は現時点では不明だが、要チェック人物。
運悪く、あの時の警官は今日非番だった。
誤解を解こうにも、悪魔の複雑な身の上を語れるわけもない。
書類の内容を見る限り、あの警官はまじめな性格だったようだ。
しかし、燐にとっての重要な語句、外見は若いが二十歳越えており大人。
という項目がすっぽり抜けていた。
なんという間の悪いミスだろうか。普通書くだろう。
しかし、人様とは違う家庭の事情をまともに見て、平静ではいられなかった可能性もある。
警官はあくまで人である。書類を見た後で、警官の燐を見る目が変わった。
燐は鋭い眼孔でヤのつく証拠を探そうとする警官に、身をすくませた。
ここでの対応を間違えれば、社会的に不名誉な留置という処置にならないとも限らない。
「で、君のご家族は何をしているのかな?
迎えに来てもらわないといけないんだけど。お父さんやお母さんは?」
「育ててくれた親父は本当の父親に殺されていねーし。
母親も、俺たちを生んで死んだって・・・家族は弟だけ」
「苦労してるね・・・ってことは本当のお父さんは捕まっちゃってるのかな。参ったな」
「いや、捕まってはいない。こことは別のところにいますけど」
「え、殺人者野放し状態?行き先は知ってるの?」
あ、まずい。燐の頭の中に瞬時に言い訳が巡った。
この世界と鏡合わせに存在している、虚無界という世界がありましてね。
そこの神様が俺の本当の父親で、俺は不本意ながらその跡継ぎとして悪魔に追われているわけです。
そうそう、父親って悪魔作った神様なんです。聖書にも載ってる有名人なんですよ。
あ、実のところ俺も悪魔なんですよ、しっぽ見ます?
などと言えるわけもない。燐は額に皺を寄せて悩んだ。
人をうまくあしらうのは雪男の得意分野だ。燐は正面突破が基本である。
「うーん、別世界。っていえばいいのか・・・」
「南米か密林にでも逃げちゃったのかな。すごい話だ」
「というよりも世界中に放火の罪で追われてて・・・って。あ、やべっ」
「・・・」
警官の顔がすごいことになっていて、燐はしゃべることを止めた。
たぶん全部は信じていないだろうが、確実に燐のことを危ない人を見る目で見ている。
今話したことは全部本当のことなのに、立場が違えばこうもわかりあえないものなのか。
燐は心が苦しくなった。
浮かぶのは、昼間にショックを受けた表情を見せた友達と、弟の姿だった。
早く帰りたい。早く帰ってこの茶番を終わらせたい。
そうだ、自分の目的はそうだったじゃないか。
燐はもう、恥を捨てた。
「うおおおお!俺を出せーー!俺は大人だー!」
「こら、暴れると公務執行妨害になるよ!
わかった、他にご家族いないの!?親戚のお兄さんとかは!?」
聞かれて、思い浮かんだのはメフィストとアスタロトこと白鳥だった。
もう一度メフィストに助けてもらうのか。
はたまたアスタロトに頼んで、取り繕ってもらうのか。
燐は瞬時に天秤を傾けた。どっちも無理。来た瞬間に交番が消し飛ぶだろう。
それは考え抜いた末に出した結論だった。
「雪男、たすけて」
***
雪男はたどり着いた交番の扉を急いであけた。
そこには椅子に座っている警官と燐がいた。
警官は雪男の姿を見るなり、「十人目か!?」と叫んでいた。
燐の弟である位置を考えれば、なるほど十人目に当たるだろう。
魔神の血縁の数を考えると、もしかしたら十では済まないかもしれないが、
もう説明することは不可能だ。警官は一般人である。
雪男は交番にたどり着くなり、免許証を見せて言った。
「すみませんうちのものがとんだご迷惑を。
身分証はこちらになりますので、番号でもなんでも控えてください」
警官は雪男の身分証と顔を交互に見て、質問した。
「あの・・・呼んだのはこの子の弟さんということらしいのですが・・・貴方は?」
「失礼、申し遅れましたが僕はこの子の親戚で奥村雪男といいます。
この子の弟から連絡を受けてここに来たんですよ」
雪男は年相応の背丈なので疑われることはない。
雪男が来たことで、警官はようやく処理に取りかかることができた。
そして、普通の人間の解釈で接し始めた。
「いやあ大人のお兄さんが迎えに来てくださってよかったです。
この子、家族は弟さんしかいないというもので」
「ええそうですね、少し複雑な家庭なもので」
「おい、雪男なにおかしな事言って・・・」
お前は俺の弟だろう。言おうとするが、雪男はすかさず燐の口を閉じて、黙らせた。
端から見たら失礼な物言いをした弟を黙らせる兄。という風貌だ。
口を手のひらで塞がれているので燐には言葉が返せない。
雪男と警官のやりとりは続く。
「やはり高校生をあまり深夜に外出させるのはよくないかと思われるのですが」
「ええ反省しております。僕たちには親がなく、
弟のことを甘やかしてきた僕の責任でもありますね」
「いえいえ、できたお兄さんを持って弟さんは幸せですよ。
近頃は男の子といえども危ないのでね、補導には力を入れているんですよ」
「そうなんですか。それは知らなかったな・・・物は相談なのですが、近頃変な輩がいましてね」
「ほう、それはどんな?」
燐にはよくわからない話をしながら、雪男は笑顔でしゃべっている。
しかし、内心燐の心は動揺していた。
メフィストに言われた仕返しはまだ終わっていないのに、雪男を呼ぶはめになってしまったのだ。
これはきっと怒っているだろう。
「でも、遠縁なせいでしょうか。お兄さんと弟さんってあまり似ていらっしゃらないんですね」
警官の言葉に雪男は返した。
「よく言われます」
「ええ、異母兄弟ですけど末の弟にはたまにお兄ちゃんと言われますよ」
「私は呼び捨てですが、それでもかまいません」
警官は後ずさった。なんだ、こいつらいつの間に。
見れば雪男の背後には、事の元凶のメフィストと今にも魂が抜けそうなアスタロトがいた。
おそらくメフィストとやり合って、体がついていかなかったのだろう。
それでも青い顔で燐にすがりついている。
「ご無事でなによりです、暴行させて下さい若君」
「おい、本音はそれかよ」
「こいつは従順なふりをしていますが、その反面残虐な嗜好も持ち合わせていますからね。
Mだと思ってたら大間違いですよ」
メフィストは傘でアスタロトを一突きすると、アスタロトは虚無界へと強制送還された。
倒れた白鳥は、またもや警官の元へ預けられた。燐よりも、白鳥の方が常習犯扱いである。
もちろん、本人に記憶はないが。
目の前で悪魔のやりとりを見せられた警官は目を白黒させている。
メフィストはそんなことには目もくれず、燐に手を差し伸べた。
「さぁ行きましょうか奥村君、お楽しみはこれからですよ」
めくるめく夜の始まりである。燐にとっては最高の悪夢だが。
メフィストの指が燐に触れようとしたところで、その手が捕まれた。
雪男が邪魔をしにきたのか。
メフィストは振り払おうとするが、その相手は雪男ではなかった。
「ちょっとお話を伺いたいのですが」
それは燐を補導してきた警官だった。メフィストには警官に捕まえられる理由がない。
こんなおっさんの外見が高校生に見えたのならそれは一体どんな魔法だろうか。
メフィストは訳がわからず首を傾げる。
「え?あの・・・何か私にご用で・・・」
「いえね、最近頻発している若い男子に声をかける不審者がいましてね。
そのことについてお聞きしたいことが」
「え?え?」
「こちらに来ていただけますか」
警官は、メフィストを取調室に連行しようとする。
燐はその様子をぽかんとした顔で見ているが、背後に立っている雪男とメフィストの目があった。
雪男の目は、笑っていた。
計画通り。
そんな顔だ。メフィストは叫んだ。
メフィストは表向き、ヨハン=ファウスト五世という名で正十字学園理事長という名誉ある職についている。
男子高校生を手込めにしようとした変質者。の疑いはその職をおびやかすような不名誉なものになりかねない。
警官相手にはうまく立ち回らなければまずいことになるだろう。
雪男の狙いはそこだ。
「私を出し抜いたつもりですか!だが貴方と奥村君はとうに違う道を歩いている。
貴方に燐が救えるか!」
今助けたところで、これから先も雪男が燐のそばにずっといれるかはわからない。
その点、メフィストならば適役だろう。悪魔と人の寿命の違いをメフィストは訴えている。
燐には人間としてではない、悪魔としての生き方もあるのだ。
それでも雪男には答えがあった。
雪男は燐を交番から連れ出しながら、そっとつぶやいた。
「わからない、だが共に生きることはできる」
兄弟は連行されていくメフィストを置いて、交番を去っていった。
一方、もののけ扱いされた燐はなんとも複雑な表情を浮かべている。
雪男につながれた手を、なんとはなしに離した。雪男は振り返る。
「兄さん、自分がまずいことした自覚はあるの」
「そりゃ・・・悪魔っぽいことした自覚はある」
「そうじゃなくて・・・ああ、もう面倒だな。
フェレス卿に生きたまま食べられそうになってたんだよ兄さんは」
「そうなの?あいつ人食べるのかよ」
「そ、だから気をつけてよね。今回、僕らにどれだけ迷惑かけたと思ってるのさ」
言い終わるか否かに、雪男の携帯に着信があり、雪男はそれに出た。
着信の相手は勝呂からであり、ことの次第を説明したら勝呂は安心した声をあげた。
雪男が燐の様子を伺えば、しょんぼりした表情をしている。
内容は、悪魔の聴覚で聞こえているようだ。
燐は勝呂のことを羨望の眼差しで見ているので、思うところもあるのだろう。
「あと、俺らの方も任務完了したんでメール送りますね」
「ありがとうございます。お疲れさまでした」
雪男が通話を切ると、すぐにメールが送られてきた。
そこには、アスタロトとの戦闘でぼろぼろになったメフィストの部屋が写されていた。
追い打ちをかけるように志摩が高濃度の聖水をぶちまけており、
寝室に張ってあった燐を捕らえるための結界もぼろぼろだ。
挙げ句の果てには、メフィストの娯楽ルームのゲームや
フィギュアが破壊されている光景も写っていた。
アスタロトとの戦闘によるものもあるが、京都組の頑張りもあったことは内緒の話である。
燐は所在なさげに視線を逸らすと、近くにあった公園の中に入っていった。
雪男はそれをゆっくりと歩いて追いかける。燐は、公園のブランコに座っていた。
「未成年を発見、補導しちゃうよ」
「うっせーな、お前までそんなこと言うなよ」
燐は足をぶらぶらと動かして、揺れた。
昔から帰りたくないことがあると燐は公園で時間を潰していた。
そんな燐を迎えに来たのは雪男であり、神父であった。断じて、あのピエロではない。
雪男は、燐に話しかけた。
「ねぇ、なんであの時僕に連絡しなかったのさ」
燐が補導されたあの日、メフィストに連絡したのは雪男だが、
それは監視役としての連絡だけの意味であって、燐を探すようになど
一言も言っていない。迎えに行くのは自分の役目だと雪男は自負していた。
「だって、俺もう大人だぞ」
「その割には中身子供と同じだけどね」
「うっせーな、俺はお前の兄ちゃんだぞ・・・言えるかよ」
燐は雪男に言い返す。
雪男と燐は双子で同じ年なのに、燐はずっと子供の姿のままである。
燐は雪男の背が伸びるたびに羨ましかったし、髭が生えた時は自分も生えないか鏡を見たこともあった。
でも燐は悪魔で、これから先人間と同じように成長できるかはわからない。
燐はそれがすごくイヤだった。
年齢を考えれば、燐はもう自分でなんでもできる年なのに、世間がそれを許さない。
「あーあ、早く大人になりてーなー」
悪魔としての成長を促すメフィストの手は、確実に燐に伸びている。
今回のことだって、そうだ。
だから、兄さんにはまだ子供のままでいてほしいな。
そう思う雪男の心を燐は知らない。
燐はブランコから降りて、雪男の元まで来た。
そして、雪男より先に歩き出す。
「言っとくけど、俺の家族って考えた時に浮かぶのは、お前とジジイだけだからな」
そう言って、燐は振り返らないままだった。
雪男は思い出す。メフィストと燐は、確かに魔神の息子として。悪魔としての繋がりがある。
お兄ちゃん。言葉一つだが雪男が燐に怒ったのは、
メフィストとの繋がりが深くなるのではないかという懸念もあったからだった。
でも、燐が選ぶのは人間の家族の雪男と神父だ。
だから、今回は雪男を呼んでくれたのだろう。兄としてのプライドより選んでくれたものがある。
雪男はそのことに安心感を覚える。
「なら、いいんだ」
雪男は燐の後ろを追いかける。
お互いに追い越したい思いを抱えたまま、兄弟は歩き出す。
大人になっても変わらない二人がそこにはあった。
雪男は携帯を操作して、先ほどのメールを送信した。
その夜、交番から十人目に騙された、というメフィストの絶叫が聞こえてきたという。