青祓のネタ庫
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「若君、ここはお逃げください!早く!」
部下に背中を押されて、燐は前に踏み出した。背後からは怒号と銃声が鳴り響いている。
路地裏に残った部下の安否が心配だ。部下達は悪魔だから簡単にはやられたりはしないだろう。
でも、ここは物質界。祓魔師に祓われれば消滅してしまう。
自分の世話をずっとしてくれた。ずっとそばにいてくれた者たち。
それを置いて逃げろと、部下は叫ぶ。
「我らのことは構いません。若君さえ無事ならばそれでいいのです」
彼らは口々にそう呟いた。そう、自分の気持ちなど考えてはくれない。
自分が無事に生きて逃げること。それだけを考えて、死地に向かっているのだ。
自分の無力さを噛み締めながらも、走るしかない。逃げるしかない。
今ここで捕まるわけにはいかない。
捕まれば殺される。そうなれば、部下たちの犠牲は何のためにあったのだ。
路地の先を走る。背後で部下が笑ったような気がした。
そうです。それでいいのです。
剣の稽古や炎の扱いがうまくできた時に褒めてくれた言葉。
それを振り切って駆けた。
物質界に来るのは初めてではないが、こんな目に合ったのは初めてだ。
ずっと虚無界で過ごしてきた身にとって、物質界は憧れの土地でもあった。
生まれはこちらだと聞いているので、やはり惹かれるものがあるのだろう。
自分一人で行かせるわけには。と部下が着いてくるのが恒例だった。
それでも、これまでは無事に過ごして来たのだ。
どこから情報が漏れたのだろう。
祓魔師は、自分たちがいることを最初から知っていたかのように待ち伏せをしていた。
一人、また一人と部下が残って戦ってくれている。
自分一人を逃がすために。だから殺されるわけにはいかない。
なんとしても、生き伸びなければ。
路地の先には、開けた場所があった。ビルとビルの隙間にあるぽつんとした四角形の場所。
土地を整備し、建物を計画的に建てたとしても、どうしてもデッドスペースと呼ばれる場所が
できてしまう。ここはそういう場所だろう。
地面はコンクリートで固められており、上を見上げれば空が四角い。
所々コンクリートを突き破って生えている雑草だけが、ここにいる生き物と言えるものだ。
ここなら、誰にも迷惑はかけないはず。
先程の襲撃の際に負傷した腕を伸ばした。
普通の傷ならばすぐに塞がるが、この傷口はまだ完全に塞がっていない。
きっと聖水か何かで清められたもので攻撃されたのだ。
まったく、祓魔師とは嫌な戦い方をしてくる奴らだ。
腕に少し力を入れると、案の定血が流れてきた。
それを地面に垂らす。ぽたりぽたりと落ちていく自分の血液。
それで小さな円を描く。あとは、いつもの通り召喚の呪文を唱えればいい。
向こうとこちらが繋がる虚無界の門があれば。
呪文を唱えようとしたところで、殺気を感じた。
銃弾が飛んでくる、それを間一髪で避けて地面に転がった。
危なかった。足元を狙うそれ。確実に動きを封じるための手段だ。
銃弾が飛んできた方向を睨み付ける。
路地の先から、こつん、こつん。と不気味な足音が響いていた。
現れたのは、男だった。恐らく二十代だろう。黒い祓魔師のコートと、眼鏡。
顔にある黒子が特徴的だった。武器は拳銃。先程の攻撃はこいつか。
二丁拳銃を持つのは珍しい。両利き。やっかいな相手だ。
男は自分に銃口を向けながら、言葉を投げた。
「・・・悪趣味な姿だな」
自分の格好の何が気に入らないのだろうか。
物質界では人間に化けるために人間と同じ格好をしている。
ズボンに、紺色のパーカー。それとスニーカーだ。
尖っている耳と八重歯を隠せば悪魔とわかる者はいないだろう。
尻尾は部下から隠すようにきつく言われているので、出すような真似もしていない。
男の言葉を疑問に思いながらも、時間を稼ぐために会話に乗った。
「普通の格好だと思うけど?」
「僕にとっては最高に不快だってだけだ」
言ってすぐに銃弾が飛んできた。こいつ容赦ないな。
部下たちの安否が気になった。無事に合流すると皆約束してくれた。
皆は若君がそうおっしゃるのなら仕方ないですね。と笑ってくれた。
だから、きっとここにも来るはずだ。
そして無事にあちらへ帰るのだ。そのためならなんだってしてやる。
「増援でも期待しているのか?あいにくだが、あの悪魔達は・・・」
「あいつらがお前ら祓魔師なんかにやられてたまるか!!」
男はため息をついて、銃弾を足に打ちこんできた。
痛い。かなり痛い。きっと聖銀弾だ。足の肉が焼けるように痛む。
その場に倒れ込んで足を押さえた。ちくしょう、超いてぇ。
男はその傷口をあろうことか足で踏みつけてきやがった。最悪だった。
口から声が漏れる。
「無様だね」
銃口が額に向けられる。ここで死ぬのか。くそ、それならせめてあいつらを。
部下だけでも逃げさせればよかった。胸に宿る後悔。
トリガーにかけられる指。目をつむった。悔しかった。撃たれて、死ぬ。
でも、それは現実の物とはならなかった。
「若君!!!」
四角い空から、悪魔が降ってきた。それはいつも自分の傍にいてくれた悪魔だった。
自分と男の間に割って入り、男はその場から退いた。
自分を守るように立ちふさがる悪魔の名を呼んだ。
「アスタロト・・・!」
「申し訳ありません、私がいながらこのような事に」
アスタロトは燐の打ち抜かれた足を見て、自分の無力さを嘆いた。
アスタロトは上級悪魔だ。物質界に残るには人に宿るしかない。
その人に憑りついている場合、使える力は半分以下になってしまう。
出せぬ力がもどかしいのだろう。きっと燐の為にと残った悪魔たちもそう感じていたに違いない。
燐は虚無界にいながらにして、肉体を持つ唯一の悪魔だ。
他の悪魔にはない力を物質界で発揮することができる。
「アスタロト、やっぱり俺がやらないと」
「なりません。それを阻止するために私がいるのです」
アスタロトは傷ついた身体で魍魎を呼び寄せた。それを男に向かって大量に向かわせる。
黒い奔流は、男の視界を遮って足止めくらいはさせるだろう。
アスタロトは叫んだ。
「若君!お逃げください!貴方御一人ならあちらに帰れるはず!」
「いやだ!皆は、お前らはどうするんだよ!」
「我らは貴方の盾であり、矛です!役に立たぬ武器は捨てよと申し上げたはずです!」
切り捨てて切り捨てて、自分に生き延びろと叫ぶ悪魔の声。
残酷な言葉だ。でも、それは悪魔達の偽らざる本心だった。
「うるさいな」
邪魔だと言わんばかりに魍魎が祓われた。致死説を使われたか。
男が構えた銃口の先から。銃弾が雨のように二人に向かってくる。
アスタロトはその銃弾の前に立ちふさがった。倒れないように足を踏ん張って。
盾になっている。男はアスタロトの息の根を止めようとしている。
目の前で撃たれている、自分を慕う悪魔の姿。
本来の姿でなら、祓魔師に負けるはずなんてないのに。
ここが物質界だから、悪魔は力を使うことができない。
俺が物質界に行きたいなんてことを言わなければこんなことには。
覚悟を決めた。抑えていた力を解放する。
身体の隅々に行き渡る青い光。
男がアスタロトに止めを刺そうとしている。
光が解き放たれた。
「やめろ――――ッ!!」
アスタロトを守るように発せられた青い炎は銃弾を焼き尽くしていく。
祓魔師の男は目を見張っていた。当然だ。
青い炎は魔神しか持たないと言われていた力だ。
それを持つ悪魔がいるということは、祓魔師にとっては脅威だろう。
青い炎によって、アスタロトは焼かれた。
アスタロトは最後まで若君、お止め下さい。と叫んでいた。
青い炎は何も滅するだけではない、悪魔を虚無界へと帰還させる送り火ともなるのだ。
もっとも、肉体がない悪魔だからこそできる技であり、肉体を持つ自身には使えない。
残った部下たちの気配を探って、同様に送り出した。
これで、残ったのは自分だけ。
目の前にいる祓魔師の男は震えた手で銃口を下した。
びびったのか、ざまあみろ。
笑ったけれど、言葉にはならなかった。
込み上げてくる嘔吐感、感覚のまま吐き出した。咳が止まらない。
口の中に広がる血の味。吐血だ。
まったく、青い炎はやっかいた。使えば自分の体を焼いていく。
自分の力のはずなのに、いつからこんなにも使いにくいものになってしまったのか。
地面に血を吐いて倒れ込んだ。
部下は自分さえ生きていればと言っていたが、やっぱり自分にはそんな生き方向いていない。
誰かを犠牲に生き残るなんて後味が悪すぎる。
自分は祓魔師の男に殺されるだろう。
かつて起こった青い夜のせいで悪魔や魔神を憎む者は五万といる。
ここで殺されるなら、それはきっと自分の運命だ。
雨のような弾丸に貫かれて死ぬ。そう覚悟を決めていたのに。
一向にその気配はなかった。倒れたまま視線を上げると、祓魔師の男がじっとこちらを見ていた。
なんだよ、このまま失血死するの見てるってか。
「趣味悪ぃ、奴・・・」
そのまま意識は闇に堕ちた。
死ぬ最後の光景が暗闇っていうのは、寂しいものだ。
ここから先は、自分が知らない間のこと。
祓魔師の男は傍に座り込むと、息を飲んで頬に触れた。
「兄さん、なの?」
男がつぶやいた言葉を、知ることはなかった。
***
「名前はないのかい」
祓魔師の男、こと奥村雪男は魔神の落胤である少年にそう問いかけた。
悪魔にとって名前は身を縛る言霊になりかねない。だから隠している者が多い。
もっとも、真名を知られたとしても上級悪魔を従えることができる祓魔師は少ないが。
「あったとしても、お前なんかに教えるもんか」
部下である悪魔や、アスタロトをひどい目に合わせた敵に送る名などない。
そうつっぱねると雪男はひどく悲しそうな顔をした。
その表情があの戦いの中で見せた鋭い顔とのギャップを感じて、なんだか悪いことをした気になった。
いや、駄目だ。そうだ。この雪男はひどい奴なのだ。
「じゃあ、名無しじゃ呼びにくいから燐って呼んでもいい?」
その言葉に心臓が跳ねた。少年、こと燐は動揺した心を隠して雪男に返答する。
「いいけど・・・なんでその名前なんだ?」
「なんとなくだよ」
あ、嘘ついているな。と燐は思った。
切り返しが早いということはあらかじめ頭の中で用意していた
言葉なのだろう。ますます燐は雪男のことが信用ならないと感じた。
こちらを心配するような視線を向けるなら、まずはこの拘束をなんとかしろ。
燐は今、雪男が用意した部屋に監禁されている。
ある一面だけガラスが張られているが、真っ白な部屋だ。真っ白に見えるのは見かけだけで、
実はびっしりと退魔の魔方陣が刻まれている。
燐自身も呪符と封魔の言葉が刻まれた青い羽織を着せられている。
極めつけは、燐の座っている椅子だった。
豪華な宝石が散りばめられているが、全て魔石と拘束用の呪具でできている。
結構な警戒具合だ。自分を決して逃がさないようにという意思が見て取れた。
そこまでしなくても、燐には逃げる力などない。
青い炎を持ってはいるが、使えば体がやられてしまうので結局助けがなければ逃げることもできない。
まったく、不自由なものだ。
燐は立ったままこちらを見つめる雪男を睨み付けた。
「なんだよ?」
不機嫌そうに言えば、雪男は視線を伏せて申し訳なさそうにした。
「酷いことして、ごめんね」
今更だな。と思った。ただ、その姿がどうしようもなく頼りなさそうに見えて
燐は罵る言葉を引っ込める。
「だったら、俺のこと離せばいいじゃないか」
そんな辛そうな顔するくらいなら。そう思ったけれど、雪男はそれだけはできない。と強く言い返してきた。
変な奴だ。上司に魔神の落胤を拘束しろとでも言われているのだろうか。
燐はため息をついた。失血したので眠い。呪具や封魔の効果が出ているのも原因の一つだろう。
うとうとしていると、雪男が最後に答えて。と問いかけてきた。
「燐に十年前の記憶はあるかい?」
十年前というとどのくらいの頃だろう。
生まれてこの方、虚無界で暮らして来たので物質界での基準の十年前、というのがよくわからない。
燐は気が付いたら虚無界で悪魔たちに囲まれて過ごしていた。
皆燐のことを若君と呼んで慕って、仕えてくれていた。
鏡を見て自分を確認したらもうこの姿だった。
人間でいう見た目十五歳くらいなので多分自分もそのくらいなのだろうな。というくらいの感覚だ。
悪魔にとって十五歳とは赤ん坊も赤ん坊だ。
周囲は自分のことが心配でたまらないらしく、甘やかされた自覚はあった。
十五歳、から十を引くと五歳か。十年前の記憶などなくて当然だろう。
そもそも、悪魔に幼児期などがあるのかも不明だ。
生まれは物質界だけど、生まれたての自分の姿を知るものなどいないだろう。
「ねーよ、気が付いたら虚無界で過ごしてた。悪魔ってそんなもんだろ」
雪男はそれを聞くと、何も言わずに部屋を立ち去った。
お気に召す返答ではなかったようだ。燐はため息をついてそっと目を閉じる。
扉が閉まれば、あとは燐一人だけの空間だ。
瞼の裏に、心配そうにしているアスタロトや部下の姿が浮かんだ。
こんなことになって、悪いことをしたな。そう思いながら眠りに落ちた。
部下たちがまた自分の為に無茶をしなければいいと祈りながら。
部屋を出た雪男の前に、勝呂がいた。
二人のやりとりをガラス張りになった部屋の向こう側からずっと見ていたのだ。
マジックミラーになっていることに燐は気づいていたのか、どうかはわからない。
それでも思った。
「先生、あいつは。奥村は」
「僕もそう思います。あれは、兄さんだ」
十年前に魔神を倒して死んだ。奥村燐に間違いない。
二人はそう結論を出した。
***
目の前で倒れていく仲間の前に立ちふさがることは間違ってなんかない。
燐は雪男の銃口の前に立ち塞がった。
雪男は動揺した瞳で燐を見つめている。
「どけるんだ!!」
「嫌だ!仲間が殺られるところなんだぞ、黙ってられるか!」
燐はそう言うと、雪男の銃弾に倒れた悪魔に駆け寄った。
悪魔は燐にお逃げください。と必死に訴えていた。
「ここは俺に任せて、お前は虚無界へ帰れ」
燐がそう言うと、悪魔は青い炎に導かれて消えて行った。
雪男が駆け寄る。燐はまた吐血していた。
青い炎を使えば、その反動は燐の体を蝕む。
「どうして自分の体を傷つけてまで、こんなことを!」
雪男は燐を責める。でも、それを雪男に言われる筋合いはない。
燐は悪魔だ。そして雪男は人間だ。見えている世界が違う。
守りたいものが違う。根本が違うのに、それを雪男は理解しようとしない。
「俺は魔神の落胤だ。悪魔の味方して、何が悪いんだよ」
雪男が燐の頬を打った。その痛みに、燐が震える。
どうしてだよ。なんでだよ。お互いにそんな思いが浮かんで止まない。
燐は言った。
「最初にお前が俺にしたこと、忘れたわけじゃないだろ。
お前は俺を、俺の仲間を。部下を殺そうとした。
あいつらは言ったよ。俺が生きてさえいればいいって。俺を逃がすためにお前と戦った。
若君、貴方さえいればいいって言って。それで大勢の悪魔が死んだ。俺のせいで死んだよ。
祓魔師は、人間を殺したって俺たちを殺すだろ。お前たちだって俺たちを殺してるじゃないか。
何が違うんだよ。お前たちと俺たち、何が違うんだよ!!」
人は自分たちと違うものを徹底的に排除する。
それでも燐は人に歩み寄りたくて、物質界に足を踏み入れた。
人と悪魔は近くにいれるのではないか。そう思ったのに。
結果として両者は対立している。
上に立つものは責任が伴う。望んでいない結果も受け入れて前に進むしかない。
燐は気が付いた時から悪魔の頂点にいた。
だから、周囲の悪魔は燐を生かすためになんでもしてきた。
そんな悪魔を殺す祓魔師に飼い殺されているような現状。
燐はよくても、周囲の悪魔がそれを許さない。
燐を助けようと、何度でも死のうとするだろう。
それが燐には耐えられない。
「もう帰らせてくれよ」
それは燐の本心だった。自分が去れば事は納まるはずなのに。
燐が呟いた言葉を雪男は許さない。
「帰る場所って、なんだよ」
兄さんの帰る場所は、ここだろ。そう記憶のない兄に言ってやりたかった。
朝目が覚めると、隣で寝ていたはずのリュウがいなかった。
燐は目をこすりながらその場から起きようとするが、体に力が入らない。
腕を見れば、呪符が巻き付いていた。そうだ。と思い出す。
自分たちがここに連れてこられてから丸一日たっている。
燐の体には状態を保つための呪符が巻きつけられていたのだ。
これがあることで動くことができない。
でも、外せばトイレのないこの部屋で激しい尿意に襲われて。
そう考えるとやっぱりこの呪符を外す気にはなれなかった。
「おーい、いるか?」
燐は声をかけてみる。すると、部屋の奥の方から人の気配が近づいてきた。
窓からは明るい朝の日差しが差し込んでいる。
燐の顔に、影が差す。リュウが燐の顔を覗き込んでいた。
「起きるのが遅い」
「日差しがまだやわらかいじゃん。早起きだって」
「・・・まったく、たるんでいる」
リュウはため息をついた。お前の弟の苦労が忍ばれる。と言われてしまい、
返す言葉がなかった。雪男も燐の寝汚さにはため息をついていた。
でも、体力回復は重要だと思う。こんな時だからこそ必要だろ。とあまり
説得力のない言葉で燐はわずかに反論しておいた。
この部屋に時計はない。一応部屋にあった荷物の中に銀時計はあったけれど正確な
時間を示しているかは不明だ。
外の日差しから、今は午前中だろうと検討はつくのでまだましだろうが。
二人がここに来て確実に時間がたっている。
「いなくなったことに誰かが気づいてはいるだろうが・・・」
「ここが見つけられるかってのが問題だよな」
燐はリュウに視線で起こしてくれ、と強請った。今の燐は自力では起きれない。
リュウは燐の腕を掴むと、そのまま体を持ちあげて抱える。
まるで荷物のように運ばれてしまっているが、抵抗する気もなかった。
リュウに抱えられて連れてこられたのは、窓際だった。
外の景色を眺めて見る。相当に高い建物にいることは理解できた。
遠くに見える街並み。木々。そして見覚えのある校舎。
「・・・正十字学園町から出てないのか?」
「そうらしいな、この光景が悪魔が見せている幻影でもない限りは」
そうなれば誰かがすぐに見つけてくれるのではないか。
希望が湧いてきた。しかしリュウの面持は険しい。
そのまま窓際から部屋の奥へと連れて行かれた。昨日の夜にはわからなかったが、
どうやらもうひとつ部屋があったようだ。
その部屋は薄暗かった。中に入ると青白い光に照らされた何かが壁際にずらりと並んでいる。
その光景にどきりと心臓が跳ねた。
ガラスケースの中には、燐と同じ呪符を巻かれた剣や、植物等種類を問わない数々の物が
並べられている。悪魔と思しきものもいる。それらが壁一面にずらりと並べられている。
そして中央に設置されている大きめのガラスケースが一つ。
それにはちょうど人が一人入れるくらいの大きさだ。
燐にもわかる。そこに何が入れられようとしているのかが。
「おい冗談だろ」
「このままでは冗談で済まなさそうだけどな」
この場で呪符を巻きつけられていたのは燐だけだ。
燐はここに保管される予定。ということだろう。寒気がする。
物と同じ扱いだ。
「なんなら、今ここであそこに入れてやろうか?」
「性質の悪い冗談やめろよ!」
燐はじたばたと暴れたいけれども体が動かない。
リュウも流石にそんなことはしなかったが、このままではまずいことにはなるだろう。
燐を部屋の外に連れてくると、元いたところへ座らせた。
燐の顔色はよくない。監禁まがいの状態で、更にひどい状況が待ち受けていたのだから。
二人をここに閉じ込めた者の正体はわからない。
騎士團の者、悪魔、若しくは第三勢力。思い当たるところはたくさんあるが、リュウは不思議に思っていた。
どうして自分たち二人だったのだろうか。と。
燐ならばいくらでも捕まえる理由にはなるだろう。なにせ魔神の落胤だ。
欲しがる組織や、邪なことに使いたがる者は五万といる。
リュウ家は古代から続く由緒ある祓魔師の家系ではあるが、魔神の落胤と比べるのもお門違いだろう。
一般人よりは希少性はあるがそこまでだ。
そして、場所自体もおかしい。第三勢力だった場合、正十字学園町からすぐに出るはずだ。
敵陣のど真ん中にこんな建物を持っているはずもない。
そうすると、騎士團関係者が濃厚か。味方と呼ばれるものにこんな扱い、趣味が悪い。
燐は保管されそうになっているし、リュウ自身もまずいことになっている。
一日程なので今は大丈夫だが、リュウは人間だ。
食糧や水と呼べるものもないこの部屋に閉じ込められれば精々三日が限度。
それ以降は命の危険がある。燐はまだいけるが、確実にリュウにはタイムリミットが迫っている。
まったく、台湾支部に帰ろうとしただけなのに。とんだ災難だ。
「さて、自分たちの危機を正確に把握したところで質問だ」
リュウが燐に向けて問いかける。
燐はリュウに視線を合わせた。ここは力を合わせて窮地を脱するところだ。
協力しなければならない。燐としてもあんなガラスケースに閉じ込められるなんてごめんだ。
「お前の炎を使えばここにいることくらいは知らせられるだろう」
青い炎は目立つ。騎士團の者ならば一目で燐がここにいることを悟らせることができる。
ならば選択肢は一つだけ。リュウの視線は真剣だった。
「この場で漏らせ」
「え?」
燐は問いかけた。空耳だろうか。何を言っているのか。
リュウは再度燐に言い聞かせるように言った。
「その呪符を外して、炎を使えということだ。外せばお前は激しい尿意に襲われるだろう。
しかし、それがなんだ。見ているのは俺だけだ。俺がいることはこの際無視しろ。そして解き放て」
この場合の解き放つは炎と両方の意味をかけているのだろう。
でも、でも。待ってほしい。リュウの目の前でしろというのか。
それは勘弁して欲しかった。燐だって今現在危機が迫っているのはわかっている。
でも幼気な十代の思春期男子の思考回路を考えてもらいたい。
十代でも、もう十五歳である。漏らすことなど、小学校低学年以来のことだろう。
しかも今回はおねしょとは違う。おねしょは無意識だが、強要されているのは意識ある状態での解放。
解放できるか?
燐は自分に問いただす。リュウの方をちらりと見た。視線がきつい。
こんなきつい男の前で。俺の恥部を晒すのか。リュウは気にしないと言っている。
リュウは三十代の成人男性だから、常識のある男だ。
多分燐が漏らしたことなど、少しすれば忘れてくれ―――、いやムリだ。
忘れないだろう。多分覚えている。ずっと覚えているはずだ。
リュウは優秀な祓魔師だから、記憶力も人一倍抜群といってもいい。
そんな男の脳裏に残るようなことをこの場でできるか奥村燐。
燐は頭を抱えた。
「無理だッ!」
「ッチ、ならば仕様がない」
リュウは燐のズボンに手をかけた。
***
雪男は思考を巡らせていた。
リュウと燐が同時に行方不明となっている。
おかしな話だ。最初はリュウが兄をどこかへ連れていったのかもしれないと考えたが、
あの男は合理的な考え方をしているのでそんな意味のないことはしないだろう。
リュウがいなくなったことで、騎士團から何かの招集が掛かることが今この場では一番まずい。
燐がいないことが気づかれては終わりだからだ。
今、日本支部でおかしなことが起きていることは間違いない。
先程の講師から話を聞けば、最近騎士團内でよく物がなくなっているらしい。
無くしたのかと思えば、そうでもない。いつの間にかその場から消えている。
悪魔を対象にした職業なので、悪戯好きのピクシーや精霊が持っていったとしてもおかしくはない。
でも、それならば気づくはずだ。悪魔特有の気配というものがあるので、それに気づかない祓魔師ではない。
ならば何故物が無くなっているのかというと、原因はわからなかった。
今の所私物で済んでいるので大きく取り上げてはいないが、警戒はしているらしい。
無くなった物のリストをもらい、雪男は共通項を探した。
「銀時計、ネックレス、宝石。剣、絵画。かと思えばおもちゃやフィギュア。
お菓子のパッケージなんてものもある・・・」
数が多い。しかし、その一部に夜のいけない道具が混ざっていた。
おい、誰だ仕事場にこんなもの持ってきてるの。破廉恥極まりない。講師としてというより大人としてどうだろう。
ちらちらと気になるのは思春期なので勘弁して頂きたい。
燐も同じ理由でドキドキしていたことを雪男は知らない。双子は離れていても双子であった。
「共通点は・・・めずらしさ、かな?」
リュウと同じ観点にたどり着いた。しかし問題は誰が何の目的でそれを回収しているか、だ。
燐がいなくなったことと何か関係があるのかもしれない。
雪男は一度、寮に戻った。そして部屋の片隅に置かれていた倶梨伽羅に目を向ける。
兄が、倶梨伽羅を手放すはずはない。倶梨伽羅を持つ暇もなく浚われてしまったのだろう。
そして、雪男の手元に残った倶梨伽羅には燐の悪魔の心臓が宿っている。
誰かの手に渡れば、燐の命はない。
だが、このまま燐が見つからなければ騎士團から疑われてしまう。
こうなれば一か八かだ。
雪男は倶梨伽羅を部屋の中央に置いた。
調べた結果燐が部屋を出た形跡はなかった。そうなれば、現場はこの部屋の中。
犯人はここに侵入したはずだ。絶対にもう一回来るはずだ。
燐になくてはならない、倶梨伽羅を回収するために。
雪男は息を潜めて、その時を待った。
しばらくすると、影がこそりと動いた。雪男は目を凝らす。
何かいる。こそりこそりと倶梨伽羅に近づく影。
雪男は手を合わせて、床に叩きつける。
途端に青色の魔方陣が床に浮かび上がった。
影が魔方陣に拘束される。雪男は腕を思いっきり振り上げた。
影だったものが、引っ張られるように表へ引きずり出される。
姿がはっきりと視認できた。鬼、だろうか。
ゴブリンよりも手足が長いが、角と牙が特徴的なのでわかった。
雪男はその姿に眉をひそめる。
脳裏に浮かぶのは、特別任務として塾生に与えられていた七不思議事件。
その中の一つ。
「・・・これ、蒐集鬼じゃないのか?」
六番目に当たる七不思議の原因だ。
手の中にしっかりと倶梨伽羅を握っている鬼が、床に転がっている。
それを雪男は足で蹴り飛ばした。
そうなると、犯人は絞られる。雪男の額に青筋が浮かんだ。
***
メフィストは雪男に銃を突き付けられながら、気配を探った。
学園内、その中でも自分のプライベートスペースと呼ぶべき場所だ。
自分のプライベートな結界内は捜索の範囲外としていたので想定外だった。
メフィストの領域には、メフィストの許可がなければ立ち入ることはできない。
それが盲点だったようだ。
弱弱しいながら、確かに青い光が一つ。
メフィストは笑いながら答えた。
「いましたネ☆」
「じゃないですよ!!あなたが原因じゃないですか!
使い魔の躾くらいちゃんとしてください!」
「私だってこんなことになるなんて思わなかったんですよ」
縛り付けられた蒐集鬼はメフィストの机の上に転がされている。
キーキーと訴えている言葉はメフィストにしかわからない。
使い魔はかわいそうに、主の言葉を正確に実行しようとしたにすぎない。
メフィストはつぶやいていた。
祭りの後は、もの悲しいですね。
なにか、珍しいものでも落ちていないでしょうか、と。
その言葉を聞いて、使い魔は収集を始めた。
以前から珍しいものを集めてはいたのだが、もっともっと珍しいものを回収すれば
主は喜ぶかもしれない。
そんな思いの矛先は、現在行方不明中の二人に向かった。
リュウは台湾支部に戻る寸前に、燐は部屋を出る直前に回収されてしまったのだ。
ちなみにリュウを連れていった理由は、やはり古代からの血筋が珍しかったという点だった。
「連れていってください、貴方のコレクションルームとやらに」
悪魔嫌いのリュウと、兄が二人っきりで夜を明かしたことに気が気ではないのだろう。
撲殺されていなければいいが、保証はできない。
今にも発砲しそうな雪男の様子に、メフィストは指を鳴らした。
個人的な部屋によそ者を招き入れるのは不本意だが仕方ない。
ここで頭を吹き飛ばされるのはもっと不本意である。
ピンクの扉が出現して、そこに雪男がかけよった。
「兄さん!!」
開けた扉の先には、大量の他人から回収された物品と。そして。
リュウに押し倒されて、ズボンを奪い取られている兄の姿。
リュウの手には、ズボンの他に呪符が握られていた。
燐は下半身を抑えて、赤く震えている。
「駄目だッ・・・!出る!」
「出せばいいだろう、俺は気にしない」
燐の息が荒い。え、ちょ。これどういうこと。
何が起きているの。いや、これってどう見ても。
そういうことの想像しかつかなくて、雪男は戦慄した。
間の悪いことに、回収された品物がかちゃんと音を立てて床に落ちた。
それは、いわゆる大人のおもちゃと呼ばれるもの。
燐が顔を真っ赤にして、リュウがその上に乗っかっていて。
撲殺よりももっとひどい状況が目の前に広がっている。
「おお、なんということでしょう。
私のコレクションルームで悪戯が過ぎますね☆」
メフィストが愉快そうに笑うので、もう確定だ。
最悪な事態が起きた。雪男が部屋に踏み入ると、燐がこちらに気づいたようだ。
メフィストと雪男の二人を同時に見ている。
燐の頭がフル回転した。
燐の膀胱は限界を訴えている。この場で頼るべきはどちらだ。
メフィストなら、トイレにスリーカウントで一発で飛ばしてくれるだろうか。
いや、説明をしている暇はない。
そして、万が一を考えた時、その場をメフィストに見られてはならない。
末代まで語られて、恥を晒されるに決まっている。
ならば、選ぶならおねしょ時代も知っている家族しかない。
燐は叫んだ。絶叫した。
これはもう経験した者にしかわからない痛みと叫びと慟哭だった。
「雪男おおおおおおおおおお!!!トイレに行きてぇよおおおおおおおお!!!」
そして、燐の脳裏にうさ麻呂の姿が思い出された。
あの優しい悪魔に、これほどまで記憶を食って欲しいと願ったことはなかった。
優しい悪魔は、みんな食ってやるぞ。と返してくれることだろう。
たぶん、同情した眼差しで。
目の前に置かれた契約書に己の血を持ってサインをする。
これでもう逃げることはできない。
「さぁ、契約成立だ」
男はにやりと笑った。
***
「兄さん!」
雪男は中庭を歩いている燐に声をかけた。
燐は雪男のことに気づいているだろうに、立ち止まることはない。
いらだちを隠せない雪男は燐の肩を掴んで立ち止まらせる。
「ようやく会えたのに・・・なんで無視するんだよ!」
燐はゆっくりと振り返った。青い瞳が睨みつけている。
「触るな」
燐の冷たい言葉を受けて、雪男も睨み返した。お互いに話す言葉は少ない。
二人は制服ではなく祓魔師のコートを羽織っている。
このコートを羽織った瞬間から、二人の道は大きく別れてしまっていた。
祓魔師試験に合格すると同時に、燐は騎士團本部に呼び出された。
きっとまた監視を増やされるなり、拘束されるのだろうと踏んでいたのだが、
騎士團の提案は燐の度肝を抜くものだった。奥から出てきた男が燐に手を振って答える。
「やっほ~奥村燐君」
「え・・・誰・・・」
「はじめましての方がよかった?僕はルーイン・ライト。
ライトニングって呼んでもいいよ。今日から君は僕の使い魔だ。
僕は君のご主人様になるからそのつもりでよろしく」
そう言って男は握手をしてきた。燐はただただ男の不適な表情を見つめているしかない。
え、使い魔って。あれか、しえみや出雲が使役しているあいつらみたいな。俺が?
「お、俺が!??だって祓魔師の試験に合格して・・・」
「うん、だから手元に置いて監視しようかって方針になってさ。
だから君はもう日本にも帰れません。残念でした」
「ええええ!?」
ライトニングは燐の首根っこを掴んでそのまま別室へと連れていった。燐は部屋の中央に投げ込まれる。
扉は無情にも閉められて、鍵をかけられた。暗い部屋に見知らぬ男と二人きり。
警戒心をむき出しにした燐は、全身から青い炎を吹き出した。ライトニングはその炎を興味深そうに眺める。
「うわぁ、実際に見ると綺麗だねぇ」
「どういうことなんだよ!こっから出せ!」
燐が怒鳴ると、部屋が呼応するように揺れる。魔神の落胤の力は伊達ではないらしい。
ライトニングは素早く印を組むと、床に手をついた。その場所からオレンジ色の光が宿り部屋全体を覆っていく。
光は線となり、糸のように絡まりあう。そのまま燐の周囲を取り囲み、編まれた糸は檻を形作った。
それだけではない。ライトニングが指を鳴らすと、暗闇から悪魔が出現した。無数の瞳がこちらを眺めている。
時折、若君様。という言葉が聞こえてくる。
燐がライトニングを睨みつけてもライトニングは飄々とした態度を崩さない。
それどころか携帯電話を取り出してどこかに電話を始めた。
「南十字男子修道院は、君のかつての家だったよね?」
燐の鼓動がどくんと脈打つ。この男は何を言っているのだろうか。
ライトニングは燐の不安を煽るように続ける。
「正十字学園の端にある祓魔屋」
「京都の虎屋」
「ああ、旧男子寮もそうだね」
しえみや勝呂達、そして雪男の居場所だ。この男は燐の大切な人たちの居所を知っている。
これは明らかな脅しだった。暗闇にいた悪魔達が蠢いている。
「僕には多くの使い魔がいてね、各地に諜報に向かわせたりするのも仕事の一つさ。
そして命令一つで彼らは殺しだって行えるよ。だって悪魔だからね」
ライトニングが携帯を切り、指で首を切る動作をした。燐の大切なもの達の命はこの男が握っている。
燐は緊張で冷や汗をかいた。炎の勢いが収まっていく。
このまま抵抗して、ライトニングを倒すことも燐の力では恐らく不可能ではない。
でも、それをすることで皆が危険に晒される。燐の周囲にあったオレンジ色の檻が揺らめいていた。
ここに来る前に雪男には気をつけろと言われていた。でも、どうすることもできない。
一人日本に残すことになった家族に心の中で謝った。
ごめんな。でも、お前等を見捨てることなんてできない。俺には無理だ。ライトニングは笑っている。
「奥村燐、僕の使い魔になれ」
悪魔を縛るには、言葉と力が必要だ。
燐を縛るためにライトニングは策略を巡らせた。
燐は抵抗することができず、そのままうなずく。
すると、オレンジ色の檻が輪に変化し、燐の首を縛りつけた。
「う、ああああああ!!!」
首を押さえてうずくまる。燐が床でのたうち回っていると
ライトニングが指を鳴らした。嘘みたいに首の痛みが無くなる。代わりに、冷たい感触が一つ。
「僕のものだっていう、証拠だよ」
冷たい銀色の枷と、小さな南京錠に拘束された首元。
この日、燐はライトニングの使い魔になった。
そして、逃れられない日常が始まったのだ。
***
「おい奥村燐、飯はまだか」
「うっせーな今やってるよ!!」
燐は野営の森の中でご飯の支度をしていた。近くの切り株に腰掛けたアーサーはすました顔でご飯を所望している。
最初のうちは燐が騎士團本部にいることに抵抗感を示していたのだが、
参謀であるライトニングの使い魔であるならイヤでも一緒にいることが多くなる。
そのうちに燐の料理を口にしだして、今では強請るようにもなった。
なんだかんだと一緒にいるようになってアーサーとは距離間が縮まったのだが、
ライトニングとの関係は最初の頃と変わらない。燐の首を縛る枷は主従関係の証だ。
命令を受けると逆らえないことがイヤだ。そこに燐の意志がないことが。
アーサーにできあがったカレーを渡すと、彼は素直にそれを口にしていた。
アーサーは純粋培養の賜物なのか、食事の時に話はしない。しばらくは静かだろう。
燐は空を見上げた。星空が広がっている。この星を雪男や皆も見ているのだろうか。
試験に合格したことで、一番喜んでくれたのは雪男だった。
今まで苦労をかけた分、これからは雪男に心配をかけないようにしようと
思っていた矢先の出来事だったのだ。
あれから半年はたっている。ライトニングの策略なのか騎士團の思惑なのかは知らないが、
電話はおろか一度も会ってすらいない。大丈夫なのかな。
あいつ、俺の飯で生きてきたようなもんだから、腹空かせてないといいけど。
燐はため息をつく。背後から声がかかった。
「ため息などつくな、任務中だぞ」
「飯食ってた奴に言われたくねーよ」
アーサーは燐から数歩離れた場所にいた。
以前より近くなったとはいえ、やはり悪魔と人間という立ち位置に変わりはないらしい。
アーサーはぼそりと呟いた。
「ある疑惑が浮上している」
燐はアーサーの方を見た。アーサーは淡々と言葉を告げる。
燐に話すということは、使い魔としての任務の前触れと考えていいだろう。
「騎士團内にイルミナティのスパイがいることは知っているな」
「・・・ああ」
確か、シュラが日本支部のスパイを洗い出す任務に当たっていたはずだ。
燐は首を傾げる。ヴァチカンに二名。日本支部に一名。そのスパイがなんだというのだろうか。
「新たに情報が入った。お前はイルミナティのスパイを炙りだす任務についてもらう」
「場所はどこだよ。海外だったら、俺会話すらできねぇんだけど」
「鹿児島支部だ」
「九州か・・・え、九州に支部あんの?」
「いやない」
「・・・冗談がわかりにくい」
「そうか?」
アーサーにとってはスマートな冗談だったらしい。意味がわからない会話はスルーするに限る。
「場所は日本支部だ」
アーサーの言葉に燐は耳を疑った。あれだけ帰りたかった場所に行けるなんて。
でも次の言葉に燐は絶望に突き落とされる。
「お前の弟・・・奥村雪男にイルミナティのスパイ容疑がかかっている」
アーサーにしては歯切れの悪い言い方だった。
燐の動揺した様子が不憫に思えたからかもしれない。
***
燐はライトニングの命を受けて、日本支部に戻ってきた。
試験に合格して以降戻れていないので、懐かしい。生まれ育った国だからだろうか。
日本の空気はやはり体に馴染む。
中庭を散策しながら、燐は物思いに耽っていた。
アーサーから聞いた雪男の疑惑。あの優秀で優しい弟に限ってそんなことはしないと信じていた。
だってイルミナティは藤堂がいる組織だ。藤堂は勝呂の家を。明蛇宗の皆を苦しめた張本人じゃないか。
そんな男と雪男が連むはずなどない。
燐は首元に手をかける。
冷たい感触だ。この枷がはめられて以降、燐はタートルネックで首を隠すようになった。
使い魔になったことは事実だが、それを人に見られたくなかった。
本部にいた頃なら知り合いは少なかったので余り気にしないで済んだ。
でも日本には知り合いが多い。それに何より雪男に見られたくなかった。
あいつはこれを見たらどう思うだろうか。
そう考えていると、背後から声がかかった。懐かしい声だった。
「兄さん!」
ああ、雪男だ。燐は立ち止まりそうになる。でもそのまま歩みを止めることはない。
燐にはライトニングから命じられていることがあった。奥村雪男の身辺を探ること。
しかし、必要以上に彼に立ち入ってはいけないこと。
破ればどうなるか。燐にはわかっていた。
でも正反対に見える命令をどう解釈すれば良いものか。そこが悩むところだ。
雪男は燐の肩を掴んで立ち止まらせる。
「ようやく会えたのに・・・なんで無視するんだよ!」
燐はゆっくりと振り返った。青い瞳が睨みつけている。
「触るな」
近づくと、お前に迷惑がかかる。
たぶん今もどこかで別の使い魔が燐達を監視しているはずなんだ。
燐の冷たい言葉を受けて、雪男も睨み返した。お互いに話す言葉は少ない。
二人は制服ではなく祓魔師のコートを羽織っている。
このコートを羽織った瞬間から、二人の道は大きく別れてしまっていた。
なんでこんなことになったんだろう。燐にはわからなかった。
「兄さん・・・話したいことがある。あのライトニングって男の話だ。
兄さんを使い魔に拘束しているあいつは―――」
雪男が燐の手を掴んで話を始めた。あの男に契約書を書かされたことを。
燐は初耳だった。燐が大人しくしていれば、雪男達には何もしないと信じていたのに。
「僕は大丈夫だよ、それよりも」
燐が動揺していると、嫌な気配が中庭に満ちていた。何か来る。
燐は雪男の手を掴んで自分の元に引き寄せた。
今まで雪男がいた場所に大穴が開く。この気配。上級悪魔か。
「雪男!下がってろ!」
燐は倶利伽羅を抜いて、雪男を背後に庇った。穴に広がる暗闇の中から、悪魔が出てきた。
黒く醜悪な姿だ。燐達に向かって襲いかかってきた。燐は黒い腕を刃で受け止めて、軌道を逸らし、
がら空きになった懐に潜り込んだ。そのまま心臓部分に倶利伽羅を突き立てる。
刃を辿って炎をありったけ送り込んだ。
「終わりだ!」
悪魔の断末魔の叫びが響く。青い炎は神の炎だ。全てを焼き付くす炎の前では、どんなものでも屈してしまう。
燐が雪男に駆け寄った。
燐が側にいたからいいものの、あの悪魔相手だと雪男一人では怪我をしていたかもしれない。
俯いている雪男の顔を燐はのぞき込んだ。雪男は笑っていた。
燐を自分の腕に閉じこめる。ようやく感じることのできる兄の体温に雪男は心の底から安心した。
ああ、兄が自分の側にいる。
対して燐は雪男から離れなければと思っていた。
ライトニングから必要以上に立ち入るなと命じられていたのだ。その証拠に燐の首にはめられた枷が燐を苛む。
「雪・・・男、離してくれッ」
「ああ契約の枷か、忌々しいね」
雪男の指が枷の中心にある小さな南京錠をなぞった。
燐の体に激痛が走る。枷を外そうとしたり、主人の命令に背けば罰が下る仕組みだ。
苦しむ燐を腕に閉じこめて、雪男は南京錠にある鍵を近づけた。
「今、自由にしてあげるからね」
「いや、だッ!うあああああああ!!!」
鍵穴に入ってくる鍵には不穏な気配がした。
正式な手順を踏んでいない枷の解錠は使い魔にとっては苦しみでしかない。
かちん。中庭にオレンジ色の光が広がる。
光が収束すると、燐が雪男の腕の中に倒れ込んでいた。雪男は燐を抱えると、そのまま歩き出す。
「モリナスの悪魔を殺すなんて、兄さんはやっぱりすごいね」
契約を破った者を殺す悪魔。契約者が悪魔を殺すことはどんなことをしても不可能だ。
しかし、青い炎というイレギュラーならば話は別。雪男はわざと燐に話をすることで、悪魔を呼び寄せた。
もちろん、あれがモリナスの契約悪魔であることなどは誤魔化して伝えたので
燐はまんまと雪男に騙された訳だ。
中庭を抜けると、黒い陰があった。陰から男の声が聞こえる。
「願いは叶ったかい?」
「ええ、僕たちは自由だ」
陰から出てきた男は、藤堂だった。
目の前に置かれた契約書に己の血を持ってサインをする。
これでもう逃げることはできない。
「さぁ、契約成立だ」
男はにやりと笑った。
兄である燐は、試験に合格すると同時にヴァチカンに拉致されてしまった。
あげくに、使い魔としての契約を無理矢理に結ばされて、
人としての扱いを受けていないという情報を聞かされた。
兄を守ることができなかったという自責の念に駆られた雪男は、心が悪に染まっていく自分に気づく。
「お兄さんを助けたいかい?」
悪魔の囁きは、雪男の背中を押した。雪男は兄を助けるために悪魔と手を組んだのだ。
「イルミナティは君たち兄弟を歓迎するよ」
騎士團から離れた遠いところへ。藤堂は二人を導いていく。
雪男は腕の中の燐に話しかける。これからはずっと一緒だよ。と。燐の意識は未だ覚めなかった。
***
「いたた・・・してやられたなぁ」
血を流す自身の腕を見ながら、ライトニングは呟いた。
契約を破られた代償はライトニングにも返ってくる。
もちろん、詠唱、召喚儀式のスペシャリストとしてはその代償を軽くする方法も心得ているので、
この程度で済んでいる。本来ならば、死んでいてもおかしくはない。
「だが計画通りだ」
ライトニングはわかっていた。燐をおとりに使えば、雪男が動き、イルミナティが出てくるだろうことも。
だから燐をあえてあの場に向かわせた。燐には命令以外で伝えたことがある。
無事に戻ればそれでいい。
もしイルミナティに連れていかれたなら、こちらへ情報を流すこと。
つまり、イルミナティ内部に入り込んだ燐にスパイをやらせるということだ。
誰も正直な彼がそんなことを考えているなど思いもしないだろう。
燐も最初は抵抗感を示していたが、弟を救う為だと言えば了承した。
あの兄弟の絆は深い。だからお互いを救うためならばどんなことでもするだろう。
「無事に帰ってくることを祈っているよ」
ライトニングも、側に居た使い魔に情がわかなかったわけではない。
それでも彼は飄々とした態度を崩すことはなかった。
今日は時間があまりないので、取り急ぎですみません。
春コミお疲れ様でした!いろいろな方にお会いできて本当にうれしかったです。
サークルを訪ねてくださった方々、ありがとうございました。
そして本を手に取って頂いただけでなく、声もかけて頂きました!!!
嬉しいです。そして恥ずかしいですね。
自分の中では大ポカやらかしたと思っているcloverについての感想も頂いて動揺しました。
本を気に入って頂けて本当にうれしいです。
メモリアルダイバーは無事に完売致しました。お問い合わせくださった方、ありがとうございます。
これも泣いたという感想を頂きまして挙動不審になりました。私の行動は常に挙動不審ですね!
皆さまの涙を糧にまた頑張ります・・・って違うか笑
また追記しに来ます~
追記
土日は体調不良で死んでいたので、皆様も体調にはお気をつけて!
おかげさまで如何にして彼を殺すか、も手元に数冊を残すのみとなりました。
通販には少しだけ残っているようですので、よければご利用ください~。
そして、春コミでは差し入れのお菓子もありがとうございます!
他にもサークルを訪ねて頂いたものや、お隣の方に頂いたりもしました笑
皆さまありがとうございます(^^)嬉しい
交流できるって幸せなことですね!
少しでも面白いものが書けていればいいな、と思いつつ、
またぼちぼちと書いていきます~。
疲れていた。本当に疲れていたのだ。
連日連夜の任務三昧に、魔神の息子だからという理不尽な罵倒。
あげくの果てには、任務地に置き去りにされてしまった。
鍵を持っているので帰れないことはないが、団体行動を主としているのだから普通点呼くらい取るだろう。
次の瞬間。燐が取った行動は衝動的なものだった。
携帯電話の電源を切る。これだけで今の便利な世の中から隔絶された。
そして、自分に着いているだろう監視にも炎で目くらましをかけておく。
ちょっと前に身につけた便利な技で、陽炎を見せて視界を惑わす方法だった。
燐が離れれば姿を消すので害もない。
「疲れた、本当に疲れたんだ・・・」
誰にも連絡を取らず、燐はその場から姿を消した。
燐が失踪したことに日本支部が気づいたのは、それから三日ほどたってからのことだった。
***
「どういうことですか!」
雪男は目の前の報告書をたたきつけた。
報告書には燐が最後にいた場所のことが書いてあるだけで、足取りは依然として掴めない。
メフィストは叩きつけられた報告書を取り上げるとぱらぱらと興味なさそうにめくった。
「どうもこうも失踪でしょう。なあに思春期にはよくあることだ」
「兄はもう学生じゃありません!」
雪男と燐は正十字学園を卒業して現在は祓魔師として生計を立てている。
雪男は祓魔師として所属はしているが本業は大学生だ。休職扱いになっている為、
以前に比べれば任務に出る回数は減った。その代わりに燐が出る回数が増えている。
燐はある任務を境に失踪してしまった。任務自体は簡単なものだったのだが、組んだ相手が悪かった。
生粋の純血主義者で、悪魔を毛嫌いしているヴァチカン所属の祓魔師がリーダーの
グループにあてがわれてしまったのだ。
普通なら仲違いするような相手と組ませることはしない。
今回なぜそんな悲劇が起きたかというと、グループの実力が今回の任務に合っていなかったからだ。
燐がいてようやく均衡が取れるなど、祓魔塾生にも劣る実力と言われてもしょうがない。
しかし、バックに着いているのは強力な血筋主義者やヴァチカン所属の貴族だ。
敵に回せばあることないこと吹き込まれて、騎士團での地位が危うくなってしまう。
誰も組みたがらないところにいたのが、これまた騎士團の信用がまだまだ低い燐だった。
燐はお坊っちゃんのお守り兼、捨て駒のような扱いを受けたわけだ。怒ったとしてもしょうがない。
でも、誰にも連絡を取らずに失踪するのは社会人としてはどうなのだろう。
雪男が怒っているのはそこだった。
SOSを出してくれたなら、こっちだって対処の仕様があったのに。
兄は何も言わずに消えてしまった。なんて腹立たしい。弟がそんなに信用できないのだろうか。
「帰ってきたらたっぷり叱ってやる!」
「・・・思うんですけど、奥村君が逃げた原因の一つって先生じゃないんですか?」
「え、いやそんなこと」
ないとも言い切れない自分がいた。雪男は思い返す。
そういえば大学生活が忙しくて任務に着いていけない分、
しっかりと自分の身を守れるようにと色々なことを頭に叩き込んだ。
仕舞にはオーバーヒートして頭から煙を出していたのだが、兄の為を思ってと心を鬼にして教えこんだのだ。
もしかしてあれが辛かったのかな。
雪男は思うが、燐ではないのでどう受け止められたのかはわからない。
「でもそれを言うとフェレス卿だってそうですよ」
「何がですか」
「兄に変な輩と任務組ませたり、かと思えば休日返上の任務三昧。労働基準法違反です」
「過酷な労働に耐えかねて、ですか」
脳裏によぎったのは過労死という言葉だった。
つい最近まで雪男に当てはまっていた言葉だが、今では燐にお似合いになってしまった。
メフィストは指を折って何かを数えている。四本の指が曲げられた。
「なんですかそれ」
「奥村君の睡眠時間数えてみたんです」
見て雪男は驚く、一日四時間だ。一日十時間は寝ないといけない体の兄からしたら苦痛だろう。
雪男はショートスリーパーなので問題ないが、睡眠時間は体質の問題だ。
いくら訓練しても直るものでもない。雪男は燐が可哀想になってきた。
疲れていたんだな。と思った。だが雪男の予想は大きく外れていた。
「二週間で四時間ほどですね」
目が点になった。二週間で四時間。何日寝ていないんだ。
睡眠のペースは定かではないが、四時間寝て二十時間動いてあとは全て徹夜ということも。
あり得ない。雪男が祓魔師として働いていた時以上の激務だ。
雪男の脳裏に過労死という言葉が現実味を帯びてきた。
「もしかして失踪じゃなくて、どこかで倒れてるんじゃ・・・」
どっと嫌な汗が噴き出してきた。雪男は携帯で呼び出して見るが、一向に繋がらない。
メフィストの方を見てみるが、燐の魔力の足跡が微量すぎて辿れないらしい。
ますます燐の行き倒れ、過労死が濃厚になってきた。いやそれならまだましだ。
どうしよう。雪男の脳裏にはビルの屋上から身を投げる燐や、電車に跳ねられる様子が浮かんできていた。
悪魔だから治癒力があると侮ってはいけない。
普通より死ににくいというだけで、悪魔だって死ぬ時は死ぬのだ。
一刻も早く兄を見つけなければならない。
雪男が部屋を出て行こうとすると、携帯が震えて着信を告げていた。
兄からだろうか。急いで確認すると、メールだった。送信者はしえみだ。
しえみが携帯を持つようになる日がくるとは夢にも思わなかったが、
祓魔師になってから任務に必要だからと持たされたらしい。
この間も使い方を教えて欲しいと頼まれたことがある。
それを兄である燐が動揺しながら訪ねて来たので、
自分達の関係性は高校生の時から全く変わっていないのだな。としみじみ思った。
兄が動揺する姿がおもしろかったから放っておいたけれど、
今思えば精神的なダメージを与えるべきでなかったと悔やまれる。
しえみの用事は何だろう。今日は特に祓魔屋に行く約束などはしていない。
雪男は急いでいたが、確認だけは怠らない。開いたメールは度肝を抜く内容だった。
「ゆきちゃんたいへん!ヴァチカンでりんがからだをうろうとしているよ!」
変換ミスすらできていない操作性が恐ろしかった。
***
燐は疲れていた。そして現在ヴァチカン本部の中庭でうずくまっていた。
逃げたいと思った先が燐にとって敵とも呼べる騎士團本部とは、自殺を疑われてもしょうがない。
燐は疲れていた。しかし、正気はまだ失っていなかった。
燐が衝動的に行った逃走は、わずか一時間で終わっている。
燐が逃亡すれば戻ってきた時に状況が更に悪化しないとも限らない。
雪男にも迷惑がかかる。だから社会人として最低限の礼儀は取らなければならないと思ったのだ。
休ませてください。本部にそれを訴えたかった。
でもそれをする前に歩けなくなってしまった。睡眠を取っていないので体が限界だったのだ。
中庭の木の下まではたどり着いたが、そこからどうにも動けない。
いっそ眠れたらよかったのだが、ヴァチカン本部には対悪魔用の結界が張られていて
その効果が燐の神経を苛む。
寝たいのに眠れない。なにこれ辛い。
それがかれこれ三日ほど続いている。燐はもう三日ここから動いていないのだ。
普通なら誰かが気づきそうなものだが、ヴァチカン本部は祓魔師の総本山なだけあって誰もが忙しい。
中庭はあれど、便利鍵があるので外に出る必要もないのだろう。ここを通る者はこの三日一人もいなかった。
燐は携帯を取り出した。最初は切っていた電源は、今は電池切れでうんともすんとも言わない。
例えばここで魔神を憎む輩がいたら間違いなく殺される自信があった。
燐の徹夜期間は既に二週間以上。まともな判断力はない。死んでいないだけ奇跡だ。
「死んだら寝れるかな・・・」
ああ昼間の日差しが辛い。目が焼かれる上に灰になってしまいそうだ。
燐が膝を抱えていると、草むらの上で何かが動いていた。
目を開けると、グリーンマンが燐に向かって何かを話しかけている。
にーにー!と話す言葉を聞いて燐はわずかに正気を取り戻す。
「しえみが来てるのか」
しえみが召還しているグリーンマンのニーちゃんだったらしい。
しえみと聞いて芋づる式に記憶が甦った。しえみと雪男がまた何かこそこそしてた。
まさかつき合っているのかと問いただせば雪男は馬鹿にしたように笑うだけ。
高校時代の悪夢が思い出される。燐の精神が更に追いつめられた。
「俺・・・いなくなった方がいいのかな」
燐の目に光が無くなった頃を見計らったように、声がかかる。
「じゃあ僕のところに来ない?」
燐が顔を上げると、そこにはチューリップハットを被った気だるい男がいた。見たことのない男だ。
目元が隠れているので如何にも怪しいけれど、燐にその判断をする余裕はない。
誰かいる。くらいの気分だ。
男は燐の頬をぺたぺたと触った。隈がすごいね。と話しかけている。
燐の状態を確認しているようだ。
「あんた誰」
「僕はライトニング、騎士團に所属している祓魔師だよ。
召還系を得意としているんだけど、よかったら僕のところに来ない?眠れるよ」
「眠れるのか」
「うん、それにある程度の権力持ってるから騎士團で自由にもしてあげれるかなぁ」
「俺はどうすればいいんだ?」
燐だって、そんな甘い話がないことくらいわかっている。
でも眠れるという餌に飛びついてしまった。
今は一刻も早くここから離れて寝たい。とにかく寝たい。
ライトニングは悪い顔をした。魔神の落胤、奥村燐が三日前からここで死にそうになっていたのは知っていた。
三日前だったらまだ燐は判断力が残っていた。
だからわざわざ放置して、結界も強めに張って、人もここに近づかないように気を使っていた。
獲物は徐々に追いつめて捕らえるものだ。
「簡単さ、僕と契約して使い魔になってよ」
ライトニングは一枚の紙を取り出した。
弟の雪男にはモリナスの契約書にサインさせたが、兄である燐には直属の契約を結ばせよう。
使える駒は多い方がいい。
魔神の落胤が手元にいれば便利だし、おとりにも使えるし、何よりきっとおもしろい。
燐が契約書を受け取ろうとすると、下の方からにーにー!と訴える声が聞こえてきた。
グリーンマンがやめてやめて、と必死に訴えている。燐はやめるべきかと考えた。
でも、寝れるという餌に飛びついてしまいたい。
グリーンマンは揺れる燐の思いに気づいて、このままではまずいと考えた。
なんとかしてご主人に知らせなければ。ニーちゃんはこの様子をしえみにテレパシーで報告した。
契約者と使い魔は繋がっている。だから、離れた場所からでも連絡や報告が可能だ。
ライトニングもこの力を利用して諜報活動を行っている。
ライトニングはニーちゃんの存在に気づくと、ぺしっと指で弾きとばした。
哀れ、ニーちゃんは召還を解かれてしまう。燐の味方はいよいよいなくなってしまった。
「君の願いを、僕は叶えてあげられるよ」
甘い言葉を吹きかける。まるで白い獣の営業活動のように。
燐がその契約書にサインをしようとすると。
「駄目――――!!!!」
雪男が間一髪で間に合った。声が太いのはご愛敬だ。雪男は時をかける女子ではなく男である。
ライトニングと燐の間に入って、契約を阻止する。
「これは罠だ、誘いに乗るな!」
「雪男・・・お前しえみは・・・」
「しえみさんから、連絡を受けてきた。命を粗末にするな!」
使い魔の契約は一度交わすと破棄することはできない。
そのため大抵召還者側が有利になる契約を取り付けるのが一般的だ。
雪男は振り返って燐の状態を確認した。
目が死んでいた。こんな状態の兄を見るのは初めてだ。
如何に兄が追いつめられていたのかが理解できる。
でも、燐には雪男がなにを言っているのか理解できていなかった。
燐が理解できたのは、雪男が自分に向かって怒っているということだった。寝不足とは恐ろしい。
「お前まで俺に寝るなっていうのか・・・ひどい・・・こんなのってない・・・あんまりだ・・・」
「ま、待って兄さん違うんだよ」
譫言のようにつぶやく兄を見ていられなかった。
おろおろと弁解する弟、病んでいる兄。
そんな兄弟の姿を見て、ライトニングは今日のところは引き下がるよ。と声をかけた。
雪男がライトニングを睨みつける。
油断も隙もない男だ。自分だけならまだしも。兄にまで契約を持ちかけるなんて。
「奥村燐君。僕と契約したかったら何時でも声をかけてくれ。待ってるからね~」
そう言って消えていった。絶対にそんなことさせるものか。
聖騎士の参謀は油断のできない男だ。
雪男は燐を背中に背負うと、近くにあった扉に鍵を指す。
帰る前にしえみに一言メールを打っておいた。
彼女とニーちゃんの功績がなければ燐はライトニングと契約していただろう。
使い魔の契約とは、契約者へ悪魔の命をかける行為だ。
言い方はまずいが、体を売っているのと同じである。
たぶんしえみはニーちゃんからの言葉をそのまま伝えたからあんな表現になったのだ。
「兄さんを使い魔になんか絶対にさせない」
雪男は燐を背負い直すと、扉をくぐった。
着いた先は六○二号室。二人の家だ。雪男は死んだ目の燐を布団に寝かせる。
燐の目に光が戻ってきた。確かめるように布団に触っている。
安心したのだろう。目をそっと閉じた。
「ああ、布団。俺の最高の・・・友達」
久しぶりに自分の家の布団を味わった燐は、そう呟いて意識を失った。
雪男は早く自分も祓魔師の道に戻らなければと思った。
燐は働きを認められてはいるものの、悪魔だからという理由で昇進を許されていない。
現状、休職中の雪男の方が階級が上なのもそのせいだ。
下っ端はいいようにこき使われるのが世の常。
雪男は兄を守るために、昇進への道を心に決めた。
そう、この件には裏がある。それに雪男は気づいている。
騎士團の思惑に踊らされるつもりはない。
***
「せっかく任務を押しつけて追いつめたのに残念だなぁ」
ライトニングはそう呟いて、契約書をポケットの中にしまった。
雪男の方は気づいていたようだが、まだ彼は若い。
いつまで兄を守りきれるか見物である。
「さて、次はどの手でいこうか」
参謀の知略はまだ巡っている。